腕と首に欲望のキス


魔人の唱えた一言は、愚かな人間が描いた馬鹿げた戯曲にも似て。


「ヤコ、貴様ら人間は脳に操られている生き物らしいな」

ずぶ濡れになりながら、どうにか事務所へと駆け込んだ時よりも一段と激しくなり始めた雨音にすませていた耳を、不意に打った言葉に、弥子は身体を拭く手を止めた。

全く、今度は一体何に影響されだしたのだか。
思いながら顔を上げれば、訝しむ弥子の視線に気付いているのかいないのか、ネウロは、弥子が入って来た時と変わらず、トロイの上に数冊積まれた文庫本の横で、ほおづえをついた姿勢のまま、にんまりと愉快そうに眼を細め、更に言葉を続ける。

「――つまり、人間が愚かであるのは、貴様ら自身のせいではないのであろう?」

悦に入ったような表情と共に、三日月に口唇をつり上げ、戯曲めいた口調で言い募る。
「ふぅん――なるほど、あんたってば、私の身体が目当てだったのねっ!」

芝居めいた響きと表情に対抗するように、台詞じみた言葉をわざとらしく返してみれば、絞れる程に濡れたセータを脱ぎ捨て、細い身体のラインと、ささやかな胸を覆う下着がはっきりと透ける上半身を一瞥され、大きく一つ溜息を吐かれる。

分かりやすい、完全に予想通りの反応に眼を眇めて見せ、ふんっ、と小さく鼻を鳴らし、弥子は再び、頭に乗せたタオルに手を置き、わしわしと乱暴に水気を払い始めた。

「……そりゃあさ、脳が無い方があんたにとって便利でしょうね。 悪態はつかないし逆らわない、殴って連れ回して、どんなに酷使したって、疲れただなんて訴えないし」
「……『もぉむりぃっ…ゆるして…っ』等と、甲高い声であられもなく鳴かないし――か?」
「なっ……!?」

嘲笑を含んだ言葉に赤面し、咄嗟に再び顔を向けると、ネウロは椅子から立ち上がり、トロイから離れ、ふらりとこちらに歩み寄る。

思わず後ずさろうとした所で、残りの距離を詰められ――そのまま片方の手で首を掴まれた。

びちゃん、ずぶぬれになった自分の作った小さな水たまりが、乾いた靴底に踏みしめられ、大げさな水音を立てる。

「――それは違うな、ヤコ」

濡れた皮膚にひたりと張り付く革手袋の感触に背筋が泡立つ。なのに、直に触れられてもいない身体の内側に、僅かな熱が滞留する。

「貴様の身体か頭、どちらかを選べと言われたなら――我が輩は迷わず首を取るだろうな。悪態は止まり、無いに等しい思考は相変わらず維持され――おぉ、持ち運びにも便利だな! それに――」

ギリリ、と首筋で革が鳴る。湿った肌にぺっとり張り付く、爬虫類の皮膚を思わせるその感触の気持ち悪さに、ぐぅと喉が詰まる。
「……んくっ、ちょ…っ、そんな、力っ、こ、めな、っでよ……ッ!」

ひやりとした手の与える息苦しさと、耳元に流し込まれる熱を含んだ吐息が与える差異で無意識に身をよじり、喘げば、濡れた舌と嘲笑が耳朶を舐る。
僅かな動作に伝い落ち、脚の内側を滑り落ちて行った雫の生暖かい感触に、びくん、と、全身が痙攣した。

「――身体が無ければ、こうやって、我が輩から逃げる事もないだろう?」
「ぅく……ッ、ね…ぅ?」

最後の言葉にだけ、他とは違う響きを感じ、うっすらと、涙に濡れた目を開ける。

見上げた瞳の中、僅かに悲しさの沈んでいるような錯覚に、その頬に寄せようと伸ばした腕を取られ、内側に口唇が触れる。

そのまま近付く翠色に睫毛を伏せると、首筋にひたりと当たる冷たさ。

「何だ、期待でもしたか?」

緩んだ力に喉を押さえて蒸せる自分を見下ろしている、馬鹿にしたような表情を、息苦しさに潤んだ目で睨み返した所、今度は真っ向から呼吸を塞がれる。

口腔に入り込む舌、含まされた唾液に再び、けほり、咽せる間に肩を押され、
バランスを崩し、倒れ込んだソファの冷たさと、覆い被さる魔人の纏う、僅かにひんやりと冷えた空気が、自身の中に籠もる熱の存在を教えた。


写真素材:「戦場に猫」様

(サーバー規約と作者の力量の関係上)ここまでが限界だったよ、夏。
夏の文庫フェアに入り浸り中であろう魔人さまが影響されてみたのは多分、「サロメ」(ワイルド)と「ドグラ・マグラ」(夢野久作)。
お題に一番添えているので、今回一番のお気に入り。いつかひっそりと、続きが書けたら良い。


date:2007.08.08



Text by 烏(karasu)