白い小型犬を連れた老人はすれ違い際、柔和な微笑みを浮かべてこちらを一瞥し、
「デートですか?」
等と問うてきた。なのでこちらも感じよく笑い返し、
「いえいえ、貴方と同じでペットの散歩の途中なんです」
と、簡潔にして明確な答えを返してやった。
老人が怪訝な表情を浮かべ去って行くのを見送り、傍らに立つ「ペット」を見下ろす。
「……今日は何も、言い返さぬのだな」
そう問えば、ヤコは俯いたまま、我が輩の上着の裾を掴む手の力を強めた。
*
今日も、ヤコを連れて街に出た。
市場の前、いつものように適当な量の金を持たせ、待ち合わせる場所と時間を決めた。
「じゃ、また後で!」
喜色満面で手を振るアレを見る度、草原に家畜を放逐している気分になる。
といのも、金か時間のどちらかを制限してやらねば、コレは市場一つ位容易に食いつぶすのだ。
思った通りにそう言ってやれば、ヤコはいつものように頬を膨らます。
「ふんっだ!丸々肥えて帰って来てやるんだからっ!!」
と、幼稚な憎まれ口を吠え、我が輩が制裁を与える間も無く、それこそ小さな子どものように駆け出した。
そうしてその華奢な背が雑踏に消えるのを見送った後、我が輩も『謎』を探し、動き出したのだった。
食事の時、我が輩は基本的にヤコを連れては歩かない。
連れたところで足手まとい以外の何者でもなく、何より無駄に目立つ。
食事の瞬間露になる本性の姿をアレに見られたくないとかそんな情緒的な理由では断じて無い。絶対に無い。
もし仮に、情緒的要素が絡む理由が有るとすれば、
アレの持つ倫理観や偽善といった感情に、食事を妨げられたくない。……まぁ、そんな所だろう。
なんとなく、深く考えないことにする。
人目に付かない場所で凝視虫を放し、いつものように書店等を巡り時間をつぶす。
その日、『謎』の気配を察知したのは午後になってからだった。
凝視虫から報せがあった時、我が輩は暇をつぶして書店にいた。
久方ぶりのまともな食事に沸く精神を押さえ込み、情報を得るため瞑目する。
凝視虫が我が輩に伝える映像、どうやらそれは、本日ヤコとの待ち合わせに選択した公園の噴水前のようだ。
淡く橙色に染まり始めた空に舞う水飛沫。周囲にはそこそこ人がいるが――音は無い。
凝視虫には音を伝える機能が無いのだ。
視界の高さが不意に下がる。我が輩の背よりも遙かに低い位置から、血に塗れ、
石畳に転がる死体を見下ろす。
目を見開き、恨めしげに空を睨む男。その上に重なる淡い灰色の人影。
その視線が向く枕元。見えた小さな足先に、見覚えがあった。
「何かコレ、ヒールが高くて歩き辛いなぁ……」
今日の朝食時、向かい椅子の上のヤコはそう言って、ばたばたと脚を揺らしていた。
「人から貰った物に文句を付けるな」我が輩はそう言ってやった筈だ。
あぁ、そうか。このやたらに低い視界は、アレの身長そのままなのだ。
反応した凝視虫は昼間、ヤコと別れるときに気付かれないよう肩に乗せたもの、だ。
ヤコと同じ高さの視界は、揺れることなく足元を映し続けている。
膝から崩れ落ちることも、視線を逸らすこともなく。
無音の空間で、自身の足元に転がる死体をただ、ずっと。
我が輩は踵を返し現場に駆け出した。足りぬエネルギーを無駄使いし。
そうまでして急くのは『謎』を鮮度の良いうちに食す為、ただそれだけなのだ。
――視界は未だ足元に固定されている。ヤコの表情は分からない。
『謎』を喰うまでの間、ヤコはずっと我が輩に張り付いていた。
「張り付くな、欝陶しい」
そう吐き捨てても無駄だった。
何も言わず、無表情で俯いたまま我が輩の上着の裾を握り閉め。涙も見せず。
それこそ母親に置き去りにされていた、年端の行かぬ幼子のように、ずっと。
トリックを解き、犯人を見つけ、我が輩の食事が終わるまで。
一瞬解き放つ本来の姿。久方の糧を舌先に乗せた瞬間。
「……気持ち悪い」
背後から、消え入りそうな声が聞こえた。
――久方ぶりの食事は、喰いごたえ泣く不味かった。
*
老人が去った後、夕闇の迫った公園には誰もいなくなった。
「……帰るか?」
聞くと、ヤコはやはり顔を上げず、ただ小さく頷いた。