赤い液体がボタボタと黒いコンクリートに落ちる。
そういえばまだ自分の身さえ守れぬ幼い頃、ほんのささいな怪我で血を流した時に、
血液さえも自分から逃げ出そうとしているように見え、
そう思った瞬間に、理由も解らないままに咽び泣いた事が有った。
とはいっても、昔の記憶は朧げで、
今となってはそれが本当に有った事なのかさえ解らないのだが。
視界が霞み、両脚から力が抜け、とてもじゃないが立っていられない。
咄嗟に寄り掛かった塀に身体を預け、そのままズルズルと地べたに座り込んだ。
その際、自分の腕が無意識に傷口を押さえ圧迫し、止血を施していた事に、
ネウロは小さく苦笑した。
いつ死んでもいいと思い生きて来た自分が無意識に傷を庇い、
本能とはいえ生に縋り付こうとしている事実に。
――痛みは…多少有る。たが、恐怖は無い。
ふと見上げた藍色の空。街頭の向こうにいくつかの星が見える。
こうして光源の無い空に、星を見る事が出来るようになったのはいつだったろうか?
夜目が利くように――つまりは脆い人間にまた一つ近付いた時、
自分は一体、何を思ったのだったろうか?
「下らぬ、な…」
喉の奥から呟いた言葉は、自分でも驚く程に掠れていた。
このように、過去を思い返した所で、今更何が有るのだ?
思い出した所で、恐らく自分は死に、記憶は誰に伝えられる事も何かしらの形無に残る事も無く、
この肉体と共に、朽ちる。
例え今死なずに済んだ所で、それが役立つ局面が訪れるとは考えがたい。
慣れない包丁に悪戦苦闘しているヤコからふと目を離した隙に、
手元狂った切っ先は、銃弾も跳ね返す筈の滑らかな皮膚をスルリ。滑り落ち、
少女の真白な手の甲に一本、朱色の線を描いた。
固い爼にポタポタと滴る自身の朱い血液の軌道を、ぼんやりと目で追っていたヤコは
隣で眼を見張るネウロの視線に気付き顔を上げ、
赤く濡れた小さな拳を目の高さまでゆっくりと上げ、花が綻ぶように微笑んだ。
「ほらっ、ネウロ達とおんなじだよ!」
無垢な色の瞳と、どこかに嬉しい響きの篭った舌足らずの声に、彼は強い目眩を覚えた。
「……ネウロは、私と同じ、嫌…だった?」
発音した声は震えて掠れ、心の奥に抱える不安を顕著に表す。
問いを空気に乗せた途端、更に強く抱き込んで来た腕の力に、
とりあえず、嫌われたの訳でないのだと安心し、ヤコはほうと小さく息をついた。
無言で自分を抱きしめたまま動かない青年の肩越しに天井を見上げ、小さく首を傾げる。
――ただ単に、嬉しかっただけなのに…な。
久々に見た自身の血。様々な感情が混じった、赤い雫。
その軌道を目で追っている時、一番強く響いた感情の名前。
ソレをどうにか伝えたくて、自分なりの言葉を探し、発した。
しかしその言葉が、抱き込まれる刹那に見えた翠の瞳に
あのような「驚愕」の色を刻む事になるなど、考えてもみなかった。
「……ごめんなさい」
――普段冷静なアンタをこんなに驚かせてしまって。
今、アンタにどんな言葉をかけていいかが解らない、「人間」じゃない生き物で。
何の音も無い空間、お互いの心と拳に広がるジンジンとした痛みだけが、二人を繋いでいる。
井の中の蛙は大海を知らず。しかし大海に憧れる事も自分の無知を恥じる事も無く。
自分は少し窮屈なこの世界でやがて大きくなるのだと信じ、悠々と生活していた。
――日常という外壁を何者かの手によって突如、崩されるまでは。
瓦解したそれらの破片の間で、一緒に朽ちてしまいたいと願い心から塞いでいた蛙は、
自己の食事の為だけに生きる鳥に捕まり、頭を掴んで無理矢理外へ引きずり出され。
彼女の心を知ってか知らずか、常識という名の円に切り取られる事なく
あっけらかんと何処までも続く青空と地平線の存在を教えられた。
空の青さに目を細めて立ち止まっては、前を行く背中に置いて行かれそうになり、少しだけ歩く速度を早める。
空の色を、時に店先に並んだ食べ物、時に香ばしい匂いに包まれた屋台へと変わる。
そんな一方的な追い掛けっこを数度繰り返すうち、
追う青は不意に角を曲がり、弥子の視界から消えた。
途端酷く不安に駆られ、小走りに駆け込んだ路地に人の気配は無く。
驚いて辺りを見渡し、雲の行方のように所在の知れない化け物の、名前を呼ぶかをしばし考えた。
その後すぐ、込み上げる不安と焦躁に負けて意地を捨てて、
顔を上げ正面に向き直り、大きく息を吸い込んだ途端、
「そうして焦るくらいなら、最初から大人しく付いてこい馬鹿者が」
いつの間にか背後の塀に垂直に立っていた魔人に頭を掴まれる。
途端、彼の名前になる筈だった肺一杯に吸った空気は、甲高い叫び声へと変化し、空気を震わす。
「アンタがどんどん先行くのが悪いんでしょっ!! ぅっ、痛い痛いいたいっ!?」
掴む黒手袋の手の上から両手で頭を押さえてぎゃぁぎゃぁと文句を言いながらも、
探していた青が自分の手の届く位置にある事への安堵と、
ネウロがわざわざ戻ってきてくれたという事実とでついついにやけそうになる。
初めて会ったあの日以来どこへ居ても――刷り込みを受けた雛鳥のように――
この色が近くに無ければ安心出来ないのだという事は
例え見抜かれているのだとしても、今は内緒にしておこうと、胸中密かに思った。
一応、弥子が食べている間は吸うのを遠慮してくれていた。という事は分かったのだが、
「食べ終わって、すぐ」というタイミングにはどうも理解が及ばない。
食後全く間を置かず、美味しかった物の味を打ち消す必要は何処に有るんだろ?
私は、暫く味の余韻を口内で転がしておきたいと思うんだけどな…。
たまに「食後の一服は格別に美味い」って言う人がいるけど、満腹の時は違う味がするものなんだろうか?
……そもそも、煙草って本当に美味しいの?
う-ん…おかしいな…。何で私、こんなどうでもいい事が凄く気になるんだろ?
お酒…なんか勿論飲んで無い。
同席してる人を見ればわかる事だ。
別に身体の調子が悪い訳でも無い。だって見てよ、自分でも呆れる位に重なったこのお皿の山!
あ…もしかして、普段来れないような高いお店に連れて来て貰って舞い上がってるせいかな?
うん、きっとそうだ。だってさっきからずっと、のぼせた時みたいに頭がクラクラして……。
「笹塚、さん」
やたら混乱した頭に浮かんだ小さな疑問達が、無意識に口を開かせる。
「ん、何?」
呼ばれた笹塚は小さく返事をし、灰皿に煙草を押し付けた。
「あっ……」
――別にそんな事しなくてもいいのに…。全然大した話じゃ無いのに。
そもそも今話かけるつもりなんて、全く無かったのに。
いつもは相手に失礼な位、はっきり出て来る言葉達が何故か今日は上手く形にならず、
弥子は開いた口を一旦閉じ、きゅっと唇を噛む。
「で、どうしたの?」
じっと自分の顔を覗き込む淡い光彩が、形になる前の言葉さえ散らしてしまい、思わず俯く。
「今日は、連れて来てくれて…ありがとうございます」
それでも言葉を絞り出し、そのままの状態でどうにかそれだけ言った後、
頭の上から小さく聞こえた低い笑い声。
「うん、どう致しまして」
――あぁ、やっぱり今日の私は少しおかしい。
だって、たったこれだけの言葉で、頬が、凄く熱い。
Q、これって、恋、ですか?