合わせた両手の指の間に、細く白い指が滑り込み、キュイと革手袋を軋ませる。
「ヤ──」
唐突な行動に思わず名前を呼び、問い詰めようとすると、
俯いていた弥子は、そのまま胸にトンと額を押し付ける。
引きはがそうにも両手は塞がっていて、手を離そうにも、
手袋ごしに伝わる熱が何故かそれを躊躇わせる。
膝に乗られているので、立ち上がる事も容易では無いし、
胸に触れている箇所は、弥子が瞬きし、長い睫毛が擦れる度に、
何だか熱くじわりと濡れているようで。
「一つ、貸しにしておくぞ…」
俯いたままこくこくと、必死に頷く頭を撫でてやれない事がもどかしいと思う等、
自分も甘くなった物だと溜息を吐き、天井に視線をさ迷わせた。
ふぅと小さく吐いた溜め息が、黒いガスに変わり、蝶の形で舌先に乗った。
叫ぼうにも声は出ず、口さえも動かせない。
(気持ち悪い…っ)
弥子が心の中でそう呟いた瞬間に、蝶は黒い艶やかな羽を畳み、
クスクスと耳障りな笑い声を上げ、優雅な口調で弥子に話し掛けて来た。
「気持ち悪い?…私は、貴女から産まれた物なのに?」
……弥子がよく知る男の声で。
目を開け最初に見えた物は、自分の舌先でも、黒い塊でも無く、
朝日の帯を写す自室の白い天井であった。
全てが夢であった事に、弥子は安堵の溜め息を吐く。
瞬間ハッと眼を見開き、自身の口を両手で塞ぐ。
そっと口から手を避けても、ソコからは何も飛び出さなかった。
だって弥子、考えた事も無かったのだ。
あのネウロが――傲慢で自己中で、痛み等とは大方縁の無さそうなあの魔人が、
掠り傷とはいえ、怪我をする日が来るだなんて。
だから弥子、もうめちゃくちゃに混乱して、「ねぇ、痛くないの?」
なんて聞くまでも無い事聞いて、思わずネウロに縋り付いてしまった。
そしたらネウロ、特に嫌悪感を滲ませる事無く、珍しくされるがままになるもんだから、
何だか私の方が怪我したみたいだな。なんて、弥子も頭の隅で思ってみたりして。
それで多少落ち着いた所で、とりあえずは怪我の治療が先だよね、と、
弥子はネウロからやっと離れて、救急箱取りに向かった。
その行動の真意を知ったのはそれからずっと後。
ネウロが、猫みたいに気まぐれに私の前から居なくなって一週間程してからだった。
事務所の片付けや、引き払う為の手続きを大方済ませ、
アイツが、もう居ないんだという事もある程度飲み込めて来たある日、
荷物の整理を終えた私は、初めて訪れた時のように閑散とした事務所で、
いつものソファに座って、一人ケーキを食べていた。
特特別な意味合いなんて無い。ただ、無性に食べたくなって買っただけ。
それでも、あかねちゃん程上手くは無いけど紅茶なんか煎れて、無駄にかしこまってみたりして。
「いただきます」
そう小さく呟いて、まずは一口。口腔中に広がる生クリームの程よい甘さと、私の目から溢れる涙…―。
「あれ?変だな…」
いつもの幸福感が訪れない。首を捻りながらもう一口頬張ると、
涙はもう止まらなくて、後から後から頬を伝った。
何だか甘さを感じる度に、頭に背中に耳に指先さえも。
とにかく全身にあの優しい手の感触が再現されて。
今、名前を呼んで振り返ったら、アイツがいつもの意地の悪い笑みを浮かべて
返事をしてくれるんじゃないかなんて、馬鹿な錯覚までしてしまいそうになる。
「狡い…アンタは狡いよ…」
私は泣きじゃくりながら、本当にそれしか言えなくて、アイツと出会った朝のように、
お皿の上に有る物を、食べ切る前にフォークを置いた。
…ネウロは狡い。私の前からいなくなるついでに、大切な物を全て奪って行った。
それもずっと前から計算して、段々とそうなるように仕向けて。私はあの日以来、甘い物が食べられない。
一口でも食べると、涙が止まらなくなるから。
―その手で心ごと強く引き寄せて。
全部食べてしまってよ。その大きな嘴で。
お使い途中の私に向かって、そう言ったのはいつもの気まぐれだったの?
ネウロは知っていたんでしよ?私が向かっていた場所も、その理由も。
その時その場所で、私のおばあさんが殺されかけていた事だって。
お見舞いの花を両手に沢山摘んで。私がそこに着いた時はもう、全てが終わった後だった。
あんたは悠然とベッドに腰掛けてて、病気で寝ていたおばあさんは細切れの肉片になって、
犯人は、もうまともな人間じゃぁ無くなってた。
私はすごく驚いて、入口に膝から座り込んでしまった。
床についた膝が血で濡れる感触は妙にリアルで……まだ、温かかった。
「ほう…早かったな」
歩み寄り、本来の姿のまま私を見下ろしそう言うアンタを、思いっ切りひっぱたいてしまったね。
今なら解るよ……これはアンタにもどうしようもない事だったんだって。
あのままあんたに会わず此処に向かっていたら、肉片は私だったかも知れないって事も。
おばあさんが死ぬのを知ってても、アンタは未然に防ぐ事なんか出来なかったという事だって。
それなのに私、あんたが知ってて放って置いたんだって勝手にカン違して逆上した。
なのにあんたは、黙って私の視線を受け止めてくれていた。
いつも空腹な狼なのに。普段から私に意地悪しかしない奴なのに。
食事の為なら私の事なんてどうでもいい、筈…なのに。
「気は済んだか?」
いつもより穏やかな声でそう聞かれて、私は首を横に振る事しか出来なかった。