「狂気」の断片


*第120話時点での妄想
「8、その他に狂気のキス」の蛇足的書き殴り集。

一緒だと、思っていたのに。


「あれ? アイ、いつからいたの?」
「少し、前からです。部屋の外から、何度かお呼びしたのですが……気づきませんでしたか?」
「ん、まぁね。結構、楽しんでたから」
「……そのようですね――口の端に、唾液が付着していますよ」
「え? あ! 気づかなかったや」
「じっとしていて下さい、今お拭きしますから」
「んくっ……んねぇ、アイはさ…っ、嫉妬とかはしないの? こーゆー事しても、あんまし反応してくれないけど」
「して欲しいのでしたら恐らく、出来ない事もないと思いますが……」
「うわー、可愛くないなぁ―! そんな事言うと、この姿のまんまで、あんたにやらしー事とかしちゃうよ!!」
「……それはどうか、ご勘弁を。それよりも、そろそろ着替えて登庁して頂かないと、予定が大幅に――」
「はいはいっ!! ……んもぉ、この子の姿、結構気に入ってるんだけどなぁ―。何せあいつのお気に入りだし!」
「………着替えのお手伝いは必要ですか?」
「え、何? 今の微妙な間。もしかして、本当に嫉妬してくれた?」
「……早く、準備して下さい」
「ちぇっ、分かったよ。あ、そだ、アイ!」
「………何でしょうか?」
「――帰ったら、『俺』の姿のままでしてあげるよ!!」
「では――私は貴方のお帰りを、楽しみにお待ちします」
「……何か、反則じゃない? そういう時に限って笑うの」
「何か、おっしゃいましたか?」
「別に! ……じゃ、着替えて来るよ!!」
「はい」




「では……行ってらっしゃいませ」
「ん、後よろしくね!」

身支度を調えて送り出され、まるで普通の勤め人にでもなってるような気分になる。
通り抜ける場所が、団らんの欠片もない打ちっぱなしのコンクリートのホール、出ていく場所がドアでなく、何重にもなった金属のシャッターでなければ、の話なのだけど。

ぐんぐん上がる高さの中、厚い雲に覆われたビル街を見下ろす。

うん、いい感じに一雨きそうだ。
ここまでは全部、アイの計画通りに進んでる。

「うむ、」

どこかの誰かさんを真似て尊大に頷き、エレベーターのガラスに、コツンと額を押しつけてみる。
そこに映る、上目で俺を見返してくる顔はもう、俺の便宜上の姿。
体温を吸い取るだけのガラスに、人の皮膚のぬくもりや、滑らかさはない。

ふぅ、と小さく吐いた溜息で、外の景色がうっすらと白く曇って滲む。

「ねぇネウロ、あんたに聞きたい事、また一つ増えちゃったよ」

俺と、あんたの大事なあの娘。
お互いに慣らして均されて、「私」でいることを望んだのは、喜んでいたのは、一体どっちの方だったんだと思う?

答えは、きっと聞かないけど。
――そうして結局、聞けなかった。けど、


*


そうして、私は再び思い出している。

積まれた金属の瓦礫、上る火柱の下で今、こうして絶望に跪いてる彼が――もう一人の私だった人が今朝、別れ際に見せた、あの表情を。

背に強く腕を回す瞬間、かち合った眼の奥に一瞬だけ、元々の私には決してなかった感情が流れていった。

甘い夢から覚めたかのような、何かに夢中になっているのを母親に呼ばれた幼児のような、ハッとした様子の、無防備な何か。

ドアの外から呼びかける彼女の声に、びくりと背を震わせた、その時の「私」は、桂木弥子なんかでは決してなく、ちゃんと怪盗サイだったのに。
溶かされ、上書きされてあやふやになり、伝え損ねてしまったソレを、今度こそ伝えてあげたかったのに。

いつかは伝えられると……思ってたのに。

――中身を持っていて、ちゃんと帰る場所があって、迎えに来てくれる人までいる。

もう、いっそのこと、目の前の人間になってしまいたい。見た目も中身も、全部おんなじになってしまえ。
そう、誰よりも強く願っていたのはきっと、洗脳された私じゃなくて、サイの方だった。

そんな甘美な幻想から彼を呼び戻したその人は今、残骸となって横たわり、その傍らに、彼は無言で跪く。
風に煽られ、ゆらりとゆれる凶暴なオレンジ色を背景にして、屋上に伸びる影。
大きく揺らいだその像が、彼女に覆い被さるようにして背を曲げて。
そうしてそっと、呼吸を確かめるように、口唇と口唇を触れ合わせるように――

それを見つめる私の中では、頭に残った「彼」の切れ端が、さっきからずっと彼女の名前を叫び続けている。

彼女が動かない、此方を見ない。
それが理解できなくて呼んでいる。返事を期待して、何度も何度も呼んでいる。嫌だ嫌だと叫んでいる。
表情を失い、言葉もなく俯く彼の背後でまた、瓦礫が一山崩れていった。

掠れた音とともに、強く吹きつける熱風は、瞬きをせずともあふれ出し、意識するより先に零れて行く雫なんて、簡単に乾かしてしまう。
コンクリートの上に崩れ落ちた私は、私を悪夢から逃してくれた魔人に抱え上げられ、その場から連れ去られるまでずっと、

脳に残った、もう一人の私の破片に突き動かされるまま、涙の湧かない嗚咽だけを零し続けた。


――ねぇ、アイ、アイ。どうしたの? なんで、いきをしていないの、あい、


今回の内容のショックから、つい発作的に書きました。
全部の辻褄を合わせようとした結果、あまりに統合性がなくなったので分けました。


date:2007.08.10



Text by 烏(karasu)