「では……行ってらっしゃいませ」
「ん、後よろしくね!」
身支度を調えて送り出され、まるで普通の勤め人にでもなってるような気分になる。
通り抜ける場所が、団らんの欠片もない打ちっぱなしのコンクリートのホール、出ていく場所がドアでなく、何重にもなった金属のシャッターでなければ、の話なのだけど。
ぐんぐん上がる高さの中、厚い雲に覆われたビル街を見下ろす。
うん、いい感じに一雨きそうだ。
ここまでは全部、アイの計画通りに進んでる。
「うむ、」
どこかの誰かさんを真似て尊大に頷き、エレベーターのガラスに、コツンと額を押しつけてみる。
そこに映る、上目で俺を見返してくる顔はもう、俺の便宜上の姿。
体温を吸い取るだけのガラスに、人の皮膚のぬくもりや、滑らかさはない。
ふぅ、と小さく吐いた溜息で、外の景色がうっすらと白く曇って滲む。
「ねぇネウロ、あんたに聞きたい事、また一つ増えちゃったよ」
俺と、あんたの大事なあの娘。
お互いに慣らして均されて、「私」でいることを望んだのは、喜んでいたのは、一体どっちの方だったんだと思う?
答えは、きっと聞かないけど。
――そうして結局、聞けなかった。けど、
*
そうして、私は再び思い出している。
積まれた金属の瓦礫、上る火柱の下で今、こうして絶望に跪いてる彼が――もう一人の私だった人が今朝、別れ際に見せた、あの表情を。
背に強く腕を回す瞬間、かち合った眼の奥に一瞬だけ、元々の私には決してなかった感情が流れていった。
甘い夢から覚めたかのような、何かに夢中になっているのを母親に呼ばれた幼児のような、ハッとした様子の、無防備な何か。
ドアの外から呼びかける彼女の声に、びくりと背を震わせた、その時の「私」は、桂木弥子なんかでは決してなく、ちゃんと怪盗サイだったのに。
溶かされ、上書きされてあやふやになり、伝え損ねてしまったソレを、今度こそ伝えてあげたかったのに。
いつかは伝えられると……思ってたのに。
――中身を持っていて、ちゃんと帰る場所があって、迎えに来てくれる人までいる。
もう、いっそのこと、目の前の人間になってしまいたい。見た目も中身も、全部おんなじになってしまえ。
そう、誰よりも強く願っていたのはきっと、洗脳された私じゃなくて、サイの方だった。
そんな甘美な幻想から彼を呼び戻したその人は今、残骸となって横たわり、その傍らに、彼は無言で跪く。
風に煽られ、ゆらりとゆれる凶暴なオレンジ色を背景にして、屋上に伸びる影。
大きく揺らいだその像が、彼女に覆い被さるようにして背を曲げて。
そうしてそっと、呼吸を確かめるように、口唇と口唇を触れ合わせるように――
それを見つめる私の中では、頭に残った「彼」の切れ端が、さっきからずっと彼女の名前を叫び続けている。
彼女が動かない、此方を見ない。
それが理解できなくて呼んでいる。返事を期待して、何度も何度も呼んでいる。嫌だ嫌だと叫んでいる。
表情を失い、言葉もなく俯く彼の背後でまた、瓦礫が一山崩れていった。
掠れた音とともに、強く吹きつける熱風は、瞬きをせずともあふれ出し、意識するより先に零れて行く雫なんて、簡単に乾かしてしまう。
コンクリートの上に崩れ落ちた私は、私を悪夢から逃してくれた魔人に抱え上げられ、その場から連れ去られるまでずっと、
脳に残った、もう一人の私の破片に突き動かされるまま、涙の湧かない嗚咽だけを零し続けた。
――ねぇ、アイ、アイ。どうしたの? なんで、いきをしていないの、あい、
今回の内容のショックから、つい発作的に書きました。
全部の辻褄を合わせようとした結果、あまりに統合性がなくなったので分けました。