瞼の上に憧憬のキス


*事件と事件の間を、勝手に捏造しています。

ただ、死を悼むのは難しい。


触れさせていた舌を離すと、潤んだ茶色の目からたらりと唾液が垂れた。
何が起こったのか理解できず、ぼんやりとこちらを見上げる瞳の中で、両手をヤコの頬に添えたまま、しゃがんだ上から覆いかぶさるようにして、やはり呆然とヤコの顔を覗き込む我が輩の姿が揺れている。

べろりと大きく、なめ回した眼球から零れた雫は、先ほどから汚く垂れ流されていた涙の代わりになって白い頬を伝い、ぱたりと、僅かな音を立て濡れた草の上に落ちた。

木々の間から細切れに射す、夏の盛りの日光が、歪に重なった二人分の影を濃く地に焼き付けている。

「ちょっ! いきなり何するのさ!?」

両手の中、声を荒げて頬を僅かに染めた顔。それをぎゅうと、更に強く掴んで上向かす。

「んん、ぐっ……!」

ひくりと痙攣する白い喉。くぐもった声を上げ、眉を潜めて見上げてくる様に、わざとらしく喉を鳴らしてやる。

何をするか、と? この豆腐めが。
「貴様が泣くからいけないのだろうが」

背を丸め、肩を震わし、声も上げずにぽろぽろと。

我が輩を無視し、泣いていたからだろうに。
「う、ぁ……」

べろり、もう一方の頬を嘗め上げるのに身震いした後、弥子はふるりと頭を振って我が輩の両手を振り払い、膝に埋めるようにし、再び顔を俯かせた。

「泣いては……いない、よ。たださ、お線香の煙が目に染みただけで。本当、それだけ……」
「……フン、後先考えずにそれだけの量を一気に焚くからだろうが、この短絡思考めが」
「あ、あぁ……うんっ。そう、だね」

ぽつり、ぽつりと。

あからさまな涙声で呟かれるベタな言い訳に、突っ込むでもなく乗ってやったのは、単なる気まぐれに過ぎなかったのだが。
それで何かしらの整理が付いたのか、ヤコは腕で乱暴に目を拭って立ち上がり、漸く我が輩を振り返る。

「待たせてごめん。……もう、行こう?」

ジワジワと四方から聞こえる蝉の声が項に張り付く。 市街地からは外れた森林の中、古びた二階立てのコンクリートの塊が作り出す濃い日影。

人の脳などという、不定形な物を数値にしようとしていた人間どもの遺した轍の跡であるその建物。
 ざわざわと木葉を揺らす風に同調し、白檀の香りを漂わせ、青い草の合間から昇っていく白い糸は、「一応、3人分を」と、奴隷が焚いた大量の線香の。


「……さよなら、春川教授と刹那さん。それと、HALも……」

唯一の交通手段であるバスを待つ為、バス停まで下る道の途中、
再び建物を振り返りながら呟かれた言葉へと、聞こえぬように嘆息し、背を向け、奴隷を置いて道を下る。

全く、人間というものは何故――こうした儀式を通さずぬと、気持ちの整理が着かぬのか。

何かとの別離を迎え入れられないのか。

忘れない、たったそれだけの単純な事を、どうしてわざわざ、自らの心身にこうした傷を残す以外の方法でしか行えぬのだろうか。

何故――いない者の為に傷つき、我が輩を無視してまで、涙を流す必要があったのか。

「あっ! ちょっ、待ってよ!!」

背後で間抜けな叫び声を上げ、走り寄って来た身体は何故かそのままの勢いで、何故か我が輩の片腕に、ぎゅうと縋り付く。
暑苦しい事この上ない。

「……こんな、とこ…に、置いてかれたら、しゃれ…ん…なんな……っ、から」
「……ゼイゼイと煩く暑苦しい。貴様は犬か? この家畜が」
「……ったく、他に言い方は無い訳?」

見上げて来た顔は、疲労に引き攣ってこそいるが普段我が輩に見せる笑顔で。
――ならば、それで良いのだと思ったのだ。

気持ちの整理なるものが着いたなら。
そうして、全てを忘れず、進化してゆくというならば。
これ以上、泣かぬのなら。

普段のように、笑うならば。


画像:「水珠」様

91話と92話の間か、その次の年の夏の感じ。
お盆の時期、探偵さんはいそがしく、それに付き合わされる助手は大変なのです。という話。
瞼を通り越してる上、舐り回しているのは、何かもう。


date:2007.08.05



Text by 烏(karasu)