手の上に尊敬のキス


「三倍変化」の続き的な

――例え冗談だって、していい事と悪いことがあると思う。


指先が冷え切るまで延々と洗っていた手を、弥子は漸く、ひやりとした洗面台から引き上げた。

流れる水とボウルに体温を奪われ、ピリピリと痺れるように冷えた指先をハンカチで拭いながら、
ふと顔を上げた先――洗面台に面した壁を覆うように広がる、曇り一つない大きな鏡に映る自分の姿はひどく小さく、頼りなく映る。

化粧にドレスにと、一応はその場に合った、正装と呼ばれる格好こそはしているものの、壁の向こう、桃色のシンプルなキャミソールドレスを纏い、呆然と自分を見つめ返すその姿は、
その背後に広がる、高級ホテルのトイレという背景に馴染んでいるとは、どうしても思えない。

もっともそれは、元来子どものような造形である顔の頬と目尻を紅く染めた、未だに動揺の拭えない今の表情が余計に幼さを煽っているからなのかもしれないが。

「……ほ、んっとに、なんであんな…っ」

怒りに任せて呟いた声は濡れて力無く、その響きの情けなさに再び、弥子の瞳にうっすらと涙が滲んだ。

確かに、慣れない状況と――それと、何も分からないうちに振る舞われて、進められるままに口付けたアルコールに酔って、少しだけ、気が大きくなっていたかもしれない。

周囲には多くの人がいるから、助手の仮面を脱ぐ事はしないだろうと油断もしていた。

そうした状況下での言動には、魔人の逆鱗に触れるものも多々有った事だろう。でも――

それの起こる前後に、相手と交わした筈の会話の仔細を弥子はよく覚えていない。
覚えていられない程につまらなかった、とも言うのかもしれない。
 いつの間にかどこかへと消えていた魔人を見習い、とにかく愛想を振りまくことに専念し、他愛のない事を聞かれるままに喋っているうちにふと、探偵業へと話題が向いた。

深く追求されそうな話は避け、適当に話を合わせている途中、相手が弥子の背後に視線を据えふと、言葉を止めた。
訝しんで背後を振り返る間もなく、いつの間に戻ったのか気付ば背後にいた魔人に、、くいと軽く腕を引かれたのだ。

一体何の用なんだと、訝しんで見上げれば、掌と手首の境に何かが軽く押し当てられる。

ひんやりとして柔らかく、僅かにかさついた感触。

「……えぇ、僕は先生を心から尊敬していますからね」

未だ弥子の掌に顔を寄せたまま、会話の相手を僅かに上目で見上げる。

ぺろりと軽く舐められて、革手袋の感触に捕まれていた手首を開放されてようやく、触れていたものが何かを知覚して。

気付いた時にはその場から離れ、トイレの個室に篭って壁に背を預け、膝を抱えてうずくまっていたという、醜態を晒してしまった後だった。
ようやく動悸がおさまり個室から這いだし、大量の泡で丹念に両手を洗い続け――そうして現在の状態に至る。

「……きっと、怒ってるんだろうなぁ…」

しかし悪いのはあちらだろう。いくら、ハメを外した奴隷に制裁を加える為とはいえ、普通、人前であんな事――ッ、

「うあ−っ!! もうっ、」

思い出した羞恥にのぼせた頭をふるりと振り、ドレスの裾にゴシゴシと掌をこすりつけた。


写真素材:「ZIG ZAG」様

今回のお題は、長めの物にだけ素材を使ってみようかと思います。
このテンプレートだとどうしても、画像が固定出来ないのが少し辛い…。


date:2007.08.01



Text by 烏(karasu)