さんかげつ


「美女と野獣」パロ、最終章


 目を開け、最初に視界に入ったのは見慣れた寝室の天井。自身の觜の先。そして――
「あ、おはよ…ネウロ」
 傍らに両手をついてのしかかり、覗き込んでくるあどけない顔。
身を起こせば、背を向けベッドの端に腰掛け直しヤコがこちらを振り返る。
「最近さ、随分起きるの遅いよね」
 人を小馬鹿にした響きで言い募り、へらへらと笑う。
パタパタと脚を動かす度、響く衣擦れの音。
いつものようにその頭を捕まえようと、朝日に透ける蜂蜜色に左手を延ばした。手袋越しの指が髪を掠め――
夢は、今日もそこで途切れた。

 時刻は既に、正午に近かった。
アレのいないだけで、屋敷は驚く程に静かだ。
空気はひんやりと張り詰め、部屋や廊下、そこに置かれた調度品の一つ一つだけでなく、
僅かに窓から射す日光までもがアレがここから去った10日前から時を止めているようだ。
自身の業務に従事し、主人の帰りを待つかのように――
そこまで思考を巡らした所で、思わず苦笑する。

 下らない。
この屋敷に、我が輩以外に主人と呼べる者が他にあろうか?
それに――これらがいくら純粋に待ち侘びたところで恐らく、ヤコはもう、ここへは帰って来ない。

 当たり前だ。元々そのつもりで一週間という条件付きの帰宅を許したのだから。
兄の急病の報せに動揺し、不様に泣き叫ぶヤコに。

 両手で顔を被い、踞って泣いていた。我が輩に見せた事のない表情で。
声を殺して、ただ泣いて。
今まで、どんな時でも流さなかった涙が頬を伝う。
……それがどうしたというのだ。
あれが泣きわめこうが笑おうが、我が輩の知ったことでは無いだろうに。

 どうも最近思考が鈍く、明確な形を成さない。
これは不眠の症状に似ている気がするのだが、現在睡眠は十分に足りている。むしろ摂りすぎだと言ってよい程に。
皮肉なことに、夢見だけは毎度呆れる程に悪いのだが。

 久々に出た中庭には、薔薇が咲き乱れていた。
午後のゆるい陽光の中、咲き誇る。
アレがここに来るそもそものきっかけとなった、血のような、緋色の。
倦怠感に身を任せ、芝生に寝そべり、目を閉じる。
むせるような薔薇の香が、一層強くなったように感じた。
いつもヤコが纏っていたにおいが、すぐ横にでもいるかのように、近く……。

 身体に感じた不自然な怠さに再び目を開いた時、最初に見たもの。
不躾にも我が輩にのしかかり、顔を覗き込んでいる娘。
見開いた瞳に涙を貯め、今にも泣きだしそうな面持ちの、不細工な。
あぁ、またこの夢か、……不愉快だ。
その頬に片手を伸ばし、力一杯抓り上げた。
こんな夢などさっさと覚めて、終わってしまえば良い、と。
「ぎゃッ!?痛いいたいっ!ギブギブっ!!」

 予想に反し、上がったのは悲鳴だった。
甲高く煩い、色気の欠片も無い。……しばらくぶりに聞いた、とても懐かしい声色の。

 身を起こし見遣れば、芝生に踞り、両手で頬を押さえたヤコが涙に濡れた瞳で睨みつけてくる。
「久々に会っていきなり暴力!?普通さぁ、歓迎とか労いとかさ――」
「黙れ。我が輩は一週間と言った筈だ、貴様は日付さえ数えられぬのか?」

 頭を掴み上げ、顔を寄せて問えば、ヤコは更に不機嫌を募らせ頬を膨らまし、
「半分はあんたのせいなんだから!」と、口を尖らせた。
「家出同然でいなくなった上に、人づての手紙でしか連絡寄越さない家族が突然帰って来て、しかも全身が不自然な生傷だらけだったら誰だって心配するでしょ!?」

 我が輩の付けた傷が原因で、ほぼ尋問に近い位に問い詰められてズルズル引き留められたのだという。
出て行った時と同じ手段で逃げ出そうとして家族に見咎められ、最後は部屋に監禁されかけた、と。

 つまりは殆ど我が輩のせいだと、そう言いたいらしい。
なら――
「……そこまでして、何故わざわざ帰って来たのだ?」

 細い肩を上下させ、荒げた呼吸を整えるヤコに問えば、嘆息し、悲し気に笑んだ。
「……何でかなぁ?お兄ちゃんよりあんたの方が、心配になったんだ……」

 何度も、夢を見たのだという。
「……いつもみたくあんたが起きるの待っててさ。あ、そろそろ起きる時間だな…って思うと目が覚めるの。
それで起きると今度はさ、そういえばどんな顔して笑ってたっけ?とか、
ちゃんとご飯食べてるかな?とか、ど−でもいい事ばっかりがすっごく気になって来て。で、それに疲れて寝たら、また同じ夢。
本当…あんたおかげですっかり不眠症だよ……っ」
「ほう、主人の安否はどうでもいいと?」
「そこかよ!!……あ−ぁ、言って損した。しかもあんた、無駄に元気そうだし……」

 俯く顔、赤みを増す頬と耳の先。
初めて出会った日と同じ仕種、表情。

 しかし感じたのはあの苛立ちでは無く、もっと苦しさに似た――
「うぎゃっ!」

 伸ばした両腕。抱え上げたヤコの間抜けな悲鳴が耳をくすぐり、歯痒さに笑う。
そうか、これはこんなに小さく温かかったのかと、改めて思った。
そして――その温度がとても心地良かった。
「暫く、このままでいろ」

 腰に腕を回し華奢な肩に顎を乗せ言えば、ただ必死で頷く気配。
短い蜂蜜色の髪が揺れる度に薔薇に似た、だがもっと甘さの強い、匂い。
上げた視界の端で、真紅の花弁が揺れていた。

 いつかこれも、あれのように枯れて朽ちるのかもしれない。
接触に酔いながらもふと、そんな事を思った。

 何度も繰り返して来た疑問。未だ明確な答えを結ばない。
しかし、今はそれでもいいのだと思う。
たとえ今ある温かさが消えても、小鳥のように煩く鳴かなくなっしまっても。
これが我が輩のものであり、こうして触れられる距離にいる限りは、それで。

だから今はただ、これのほぼ無に等しい程の質量と温かさと。それらが伝える快さに縋っていたいと思った。

――互いの世界が壊れることがあっても、触れ合っていたいと願う感情に付ける名前を我が輩は知らない。


end
date:2006.12.25



Text by 烏(karasu)