雪の降った朝、その娘は寒さに凍えながら玄関に立っていた。
低い身長に幼い顔立ち。両手は服の裾をぎゅっと掴んでいた。声は震え、怯えている様子である。
なのに我輩と合わせた視線だけは澄み切った湖面のように鋭く、大きな瞳はキッと眇められていた。
まぁ、元々の幼い容貌に消されてほぼ無意味な様子であったが。
「お兄ちゃんの代わりにきました……や、ヤコです」
――言葉に思い出したのはいつかの旅人。妹への土産にと、庭園の薔薇を盗もうとしていた。
そのまま見逃すのも癪で、戯れに出した交換条件。
『命が惜しくば、貴様の身代わりにその妹とやらをここへ寄越せ』
勿論、その場限りの冗談だった。我が輩にそういった類の趣味は無い。
――しかし、事実として娘はここにいる。
矢張り人間とは愚かで面白い。と、思わず湧いた笑いを喉元で堪える。
「まさか本当に寄越すとはな……」
「?何か言いました?」
小さく呟いた言葉を聞き咎め、娘は首を傾げる。
その首筋は細く、簡単に折れてしまいそうだ。と、ふと思った。
「いいえ、何でも有りません。では参りましょうか」
視線で促し背を向ける。
「え……っ、あの――」
「屋敷を案内します。付いて来て下さいね」
言葉を遮り反論を封じ、再び歩き出す。
一瞬の後、背後にコツコツと重さの感じられない足音がついて来た。どうやら中々に素直な性質らしい。
「そうだ名前!まだ聞いてませんでした」
「僕はネウロ…脳噛ネウロです」
「ネウ、ロ…さん?」
「ネウロで結構です」
作った表情でにっこりと笑ってやると、娘はぎこちなく笑い返した。
そうしてここでのルールや、各場所の説明などを交えながら屋敷内を一通り歩いた。
その間、背後に有る娘の気配は一々何かに気を取られ、そしてその度立ち止まる。
元々の歩幅も小さく愚鈍な為、煩わしいことこの上ない。
我慢し付き合ってやっているうち、廊下の途中でふと背後の気配が消えた。
それを訝しんで立ち止まり、ちらりと肩ごしに見遣れば、
娘は数メートル後ろで立ち止まり、挙動不審に周囲を見回していた。
瞳を輝かせ、頬を紅潮させた正に興味津々という様。
恐らく数刻前から、我が輩の説明など聞いていなかっただろう。
その表情には既に、先程我が輩に見せたような怯えは無い。
――欝陶しい。
「………ヤコ」
「ぁ、ふぁいっ!」
「――さんでいいんですよね?貴女のお名前は」
「……!」
背後で息を飲む気配。気付かれぬよう視線だけで見遣った娘は黙って俯いていた。
蜂蜜色の髪の下、形良い耳の先と頬が、羞恥の為か僅かに紅潮している。
その様に思わずくつくつと喉を鳴らす。と、娘は弾かれたように顔を上げた。
「ごめんなさい、間違えましたか?」
「……ハイっ、そうです。ヤコです!!」
照れ隠しなのか、些か粗い語調。
今度はちゃんと振り返り、「早く来い」と手で合図すれば、ヤコは小動物のようにちまちま小走りに寄って来た。
そして何故だか当たり前のように、我が輩の隣に並ぶ。
こうして至近距離で改めて観察すると、本当に小さい。簡単に壊れてしまいそうな程。
見上げる視線には再び緊張が走ったのが何故だか腹立たしく、力を加減し、軽く額を小突いてやった。
「わ……っ!」
「……ちゃんと、僕の話を聞いいましたか?」
顔を覗き込み、宥めるように笑いかける。ヤコは額を押さえしばし呆然と我が輩を凝視していたが、
やがと視線を足元に逸らし、嫌々と口を開いた。
「……ここには、あなた――」
「ネウロ」
「……ネウロしか住んでなくて、私はここの中でだったら好きにしてていい……でしたっけ?」
「まぁ、そんなところです」
我が輩がわざわざコレにも分かるように説明してやった仔細は、これでもかという程に省かれていた。
しかし、どうやらそれは元々の頭の造りが原因のようなので、まぁ許してやることにした。
ふむ、流石が我が輩。中々に心が広い。
「これから宜しくお願いしますね、ヤコさん」
少し屈んで視線を合わせ、右手を差し出す。ヤコはしばし逡巡した後にそっと自身の右手を差し出した。
掴んだ手は温かく、たよりなく小さかった。
夕食時、ヤコは異常な食欲を発揮した。
聞くと元々の旺盛な食欲に加え、ここに来るまでの道中で余計に腹が減ったのだなどと、ぽつぽつと語り出す。
自ら兄の身代わりを買って出た所全員に猛反対され、深夜に家族の目を盗み、
家出同然で飛び出して来た為、金銭の類を殆ど持っていなかった事なども。
その拙い話の中に、我が輩の興味をそそる事柄は大して含まれていなかった。
なので適当な相槌を打ち聞き流していたが、
「だからそんなに必死に物を喰うのか?」
ふと、そう聞いてみた。
するとヤコは一旦食事の手を止め、ちらりと伺うように我が輩を見遣った。
「それもあるけど……どうせ食べられちゃうなら、後悔が無い位食べておこうかな、と思って」
不意を突かれ、思わず瞠目した我輩から、ぷいと顔を背ける。
脳天気な表情にしれっとした口調。しかし、テーブルに置かれた両手は震えていた。
静かに席を立ち、傍らに立つ。
顎を掴み、くいと正面を向かせる。泣いているのかと思ったが、そうでは無いらしい。
しかし瞳には、この蝋燭だけの薄暗い部屋でも分かる程、明らかな怯え。
――また、苛々と感情が蓄積する。
「……大丈夫、僕に人を食べる趣味は有りませんよ」
耳元に注いだ言葉に、ひくん、と小さな背が痙攣した。華奢な肩が震える様が面白い。
「でも、おにい……兄を、『喰う』って脅したし、噂でも……」
「嫌だななぁ、――何の根拠も無いただの噂ですよ」
「……噂?」
「ハイ、僕も辟易しているんです…。誰が言い出したのかは解らないんですがね――」
言葉の途中でわざと、聞こえる程大きく溜息を吐く。
「……僕のように、人並みの学の無い人間には到底理解出来ないセンスで――」
「……嘘」
赤い唇が紡いだ言葉に、身体を離しヤコを見遣る。そこに先程までの怯えは無い。
「あなたは頭がいいし、それを自分で解ってる」
我が輩を射る、どこまでも透明な視線。
「だから、私も含めて、自分以外全部の人間を見下して嘲笑している。……違うの?」
自信の有るような口調と裏腹に、こちらを伺うような警戒の視線。
それを真正面から受けてようやく、昼間から不意に去来する不愉快の理由が分かった。
――そうだ、このヤコという娘は我が輩に全く媚びないのだ。
わざわざ人間が好みそうな作り物の容貌で、柔和さを全面に出し微笑んでみせても、
多少警戒を緩めるだけで、決して懐きはしない。
まるでその下にある我が輩の本性を最初から、完璧に見抜いていたかのように。
そして、そんな鋭い癖に、素直で直球で駆け引きをまるで知らぬ。野性の動物や幼い子どものように、
純な性質の。
「クククッ……」
思わず込み上げた笑いを訝しみ、ヤコが眉を潜める。
完全にではなくとも、見抜かれているなら仕方ないだろう。笑いをおさめ、見下ろす。
「――成る程、貴様に気を使う必要は毛頭無かったという訳か……」
「え?あの、ネウロ…さん、口調が……」
状況が飲み込めていないらしく、困惑をあらわにして見上げて来る様が面白い。
全く……鋭いのか鈍いのか解らん奴だ。
「ネウロでいいと再三言った筈だ。全く――そこまで物覚えが悪くてよく臆面も無く生きていられるな。
我が輩だったら情けなくて死んでしまう」
開いた口からは自分でも驚く程すらすらと言葉が漏れた。
自身としては当たり前に演技をしていたつもりだったが、どうやら精神には中々無理を強いていたらしい。
我が輩の変化について行けず、唖然と聞いていたヤコは、ハッとしたように目を見開いた。
「い……いやいやっ!何で会って半日のあんたにそこまで言われなきゃ――」
「黙れ」
我が輩がこうして、生まれ持った嗜虐性を制御し切れ無いの同様に、
どうやらこの娘も自身の本質的な素直さに操られる性質らしい。
ヤコは、まだ謂い足りないという表情で、不満気に眉を寄せていたが、瞬時に口を閉じた。
「ヤコ、我が輩は貴様が気に入ったぞ」
「……私はさ、食べられると思ってた時より、あんたが怖くなった……」
溜息と共に肩を竦め、この期に及んで減らす口を叩く。
その頭を掴み、ぐいと目を覗き込んだ。
ついでに先程からの擬態を解き、顔を本来の――化け物と恐れられている、生れついての方に戻した。
「まぁ、せいぜい宜しく頼むぞ」
「ぅ、ぁ……」
ヤコは痛みに眉をしかめていたのから一変した。大きな瞳で瞠目し、驚愕に声を失う。
そのままぐいと垂直に引き上げれば、軽い身体は何の抵抗も無く持ち上がる。
キリキリと、掴む指に力を込めた。
「ほら、返事はどうした?」
「いっ!痛いいたいいたいっ!!!分かりましたっ!?よろしくおねがいしますっ……!」
「よし」
掴んでいた手を放してやれば、ヤコはどさりと椅子へと落ちた。
「もうっ……何なのよっ!」
両手で頭を抱え、先程まで抱いていたらしい恐怖などもはや忘れたらしく、上目使いで睨み上げてくる。
その様が、何故だかとても愉快だった。