デパさんが幼女にキスをせがむ話。
昨年八月の例のアレその1。ぴくしぶから輸入。
「ほらお客様、ちょっと触って離れるだけさ。出来るだろ?」
「うっ、でもぉ……」
昼下がり、てっぺんからちょっと傾いたぽかぽかのお日様が割れた窓から照る光の下でそう聞かれて、雲のように柔らかなマットレスにぺたりと座り込んだままゆずこは困惑してしまった。
碌に学校も行った事がないし男手一つで育てられて、しかも生まれて二桁にも満たない。
そんな彼女にとって、目の前で同じベッドに座って笑う男が望む事は全く未知の行為だ。
「そら、もう少し屈んでやろうか?」
「そ、そういう問題じゃないのっ……」
だけれどそれは、こんな明るい日向。しかも狭い部屋に無理矢理突っ込んだ大人三人は余裕で寝れるような高級ベッドの上でしちゃいけない事なんじゃないだろうか。
悪い事なんじゃないだろうか。
――でも、ゆずこはやらなきゃならないのだ。
「んじゃどーゆーことだってんだよ? んーっ?」
両手をマットレスに突いてぐっと近づいた顔を両手でぐっと押し返しながら、ここまでの経緯を思い出していた。
※
季節は今から少し前、商人から大人の言葉に直した所の『出世払い』というもので血のように紅い高価なドレスを売って貰った。
ゆずこは武力もお金もないし、その上、子供だ。彼とはそれからもう、大人になるまで会わないものなのだと思っていた。
でも、そうはいかなかったのだ。
それ以来ゆずこは、より欲望の強い大人に絶えず狙われる危険に陥った。
流石に父親と一緒の時に追い剥ぎに遭う事はないが、だからといって仕事中もくっついて歩く訳にもいかない。更に迷惑を掛けるのも嫌だから内緒にしたい。
そんな自分の欲望に沿って、ゆずこは再びここに来た。
「なるほど、家の人に知られたくないし、ドレスは盗られたくない。それがお客様のご要望か」
流石にワガママだとあきれられるかと、奪われそうになったドレスを守る攻防戦に荒くなった息で頷く。
「なら話は簡単じゃねーか」
と、先ほどまでの自分が売った商品さえ忘れた涎が嘘みたいにきりっとした顔で頷かれた。
「だったらお客様は、俺をボディガードとして雇えばいい。親父さんが留守の間ここに来れば変な奴なんかこないだろ」
確かに、ここに来るのは、別にゆずこなど狙わなくても自分のほしいものは自分で手に入れられる人だ。
「俺がすぐ駆けつけるし……な?」
「確かに……私のこれから『上物の匂い』するんだもんね……」
実際こうやって来たし、ということでこの交渉は成立した。が、成立してからが問題だった。
「やっりぃ!! じゃ、報酬は前払いな」
と、今にもしっぽを振りそうな嬉しそうな顔をして告げた。
と思ったら、あれよと言う間に、三階家具売場――の、スタッフルームだったという小部屋に拉致されていた。
そこには「大きすぎて外に運べなかったから」という理由で部屋を埋めるように置かれた高級ベッドがあった。
そしてそこにポンと放り出されて、一緒になって跳ねた直後に報酬の説明を受けた。
「んじゃ、一日にキス一回な」と、靴を脱ぎながら明日の天気でも説明するかのように。
――そして今に至る。
「ほれ、ちょっとくっつけて終わりだって。何なら舐めるだけでもカウントしてやるぜ?」
「……それってその、キスとかいうのよりハードル高い気がする」
「まぁそれはそれとして」
「おいっ」
同じようにマットレスに手を突いて見上げると、ぷいっと目を反らされた。
図星かっ。
「だって変だよこういうの……何かさ、凄く悪いことしてるみたいで……」
キスが何かも今聞いたところで、そんな事を何でするのかも知らない。けれど、どう諭されてもそれは、ゆずこのような年でやってはいけないような気がするのだ。
それは大人の感覚では反社会的と言うのだが、家族以外の社会を知らないゆずこにとっては、父親に黙っていけない事をしようとしている感覚に近い。
そして、幼いゆずこの知っている悪い事は、白昼堂々、天窓から余す事なく日の入る場所でやることではない。
と、いった旨を足りない言葉で何とかたどたどしく伝える。と、男は困ったような呆れたような顔をして、身体を起こしてマットレスに胡座をかいてすわった。
なぜそんな以外そうな顔をするのか。背筋を伸ばして座り直して怪訝そうな視線で問いかける。
すると、意味が伝わったのか「カマトトぶるなよ…」と忌々しそうな顔で呟かれた。
意味が分からない。そう更に視線で訴えると、苛々と頭を掻いて目を反らす。
「いやさーそーゆーのっておまえらくらいの年頃の女子は好きなんだろ? 何かそーゆーマンガとか何とかでさぁ」
「マンガ…? なにそれ」
「……あー。そーゆーことね……」
「……何で、まじまじと見るの……」
男は、まるで珍獣でも見るようにゆずこを一瞥すると、急にマットレスの上に立ち上がった。
「ひゃっ!」
無理に背筋を伸ばしていたゆずこは、バランスを崩し掛てマットレスの上に腹ばいに転がった。
「つまり、お客様はまだ恋を知らないんだな!」
「しっ、知ってるよ! ……う」
顔だけ上げて声を上げるも、まるで眩しい物でも見るように細められた目に、どうせ言葉だけだろと思われた気がして声を詰まらせた。
ほらな、とでも言いたげに更に目を細めた男はゆずこをに手を貸して座らせると、自分も再びマットレスの上に座った。
「あのな、恋ってのは欲望なんだよお客様」
そしてそのまま、膝の上にゆずこを引き寄せると、まるでぬいぐるみや子犬のように背中から抱きついてきた。
「欲望?」
覆いかぶさる未知の感触にゆずこは一瞬びくりと身を震わせた。が、よく考えれば父親も、よくこういう仕草をすることがある。なら、別段おかしな事でもないのだろうと、多少鼓動を早めながらも力を抜い背中を預けてみる。
「そ、欲望さ……例えばお客様は何か欲しい物があったとして、それを触ってみたいと思わないか?」
「あ、思うかも」
言って、纏うワンピースの裾を無意識に引っ張って指先を絡める。指の先から水のようにサラサラと抜ける感触にほぅ、と無意識に溜息を漏らした頬を、男の手が包み込む。
「それで次は気になってくる。これはどういった物なんだろう。どこからやって来たんだろう」
「うん! 気になる気になるっ!」
頬をすっぽり包み込み撫でるのと別の手がカシカシとゆずこの頭を引っかいた。手袋の感触がちょっとくすぐったくてクスクスと笑うと、頬から手を滑らせて腰に回し、更に強くゆずこを引き寄せた。
「で、それが悪い事だと言われて、お客様は時と場所を選べるかい?」
「うーん……どうしても駄目だったら考えるけど……でも無理かなぁ。だって」
少しの逡巡の後、頭を大きく反らした少女は、無邪気に笑って言った。
「欲しい物は欲しいんだもん……でしょ?」
「……そうさ、お客様。欲しいってのはそういうことさ!」
よく出来ましたとでもいうように、今度は撫でつけるように髪を撫でられる。
「そして――それが恋さ。人間に対してそういう気持ちになることが」
「へぇぇっ。知りたいとか欲しいとか」
「そうそう。……所で、お客様」
素直に関心したように丸くなった黒い瞳に笑い掛けながら、男はことさら丁寧に髪を梳き、ゆずこの肩に頭を乗せた。
「お客様は俺を知りたいと思わないか?」
「え……」
合わせられた色の薄い目は欲望できらきらと輝いている。ゆずこの頬に当たる息も荒い。
「触れるとどんな感触がするとか。どんな事を考えてるとか」
なのに、冷静だ。びくりと固まったゆずこをなだめるように頬を撫でるても、逃げないようにか一層強く腹に回った手も、言葉も。
「俺は知りたいね。お客様はどんな人間か、その人格は、手触りは、心はどこから来たのか。……わくわくしてくる。だから、キスがしたい」
ゆずこは今、今にも襲いかかろうとしているけだものに抱えられているようなものだ。逃げなければいけないのに。
――ゆずこは今、そのけだものの事を知りたいと思っている。心から。
「だから、俺に商品を味見させてくれ……な、いいだろ。俺の頼みなんだから」
男の言うように、それは恋なのだろうか。ゆずこはこのけだものに恋しているんだろうか。
振り返り、じっとその目を見て問いかけた。
「な、もっと喜べよ。俺と――お客様が欲しがってるんだからさ?」
すると、今にもしっぽを振りそうな顔で笑われた。燦々と照る日の中でそう言われると、それはどんなに悪い事でも逆らえないような気持ちになった。
――だって、欲しい物は欲しいのだから。
date:2011.xx.xx