おでかけしましょう。


2人で、どこまでも

 

サンドイッチの具は、ピーナッツジャムにしてみよう。
ずっと昔、アメリカ映画で観てから密かに憧れていて、一度食べてみたかったんだ。
塗るジャムは、ブルーべリィかマーマレードかがいい。
でも――。

「……ストロベリージャムだけは、やめとこう……かな」
「どうしたんだい?アリス」

台所のテーブルの上へちょこんと乗った、今は首だけとなったチェシャ猫は、思案の途中で思わず漏れた亜梨子呟きを聞き逃さずに、器用に首を傾げて見せる。
「あ、何でもないの! ちょっと、お弁当の具に迷ってただけ!」

猫に背を向け、そう答えた亜梨子は少し悩んだ揚句に、マーマレードのビンを取り上げた。





サンドイッチはきちんと並べて箱に詰め、四角いバスケットに入れて。
猫の首は……流石にお弁当と一緒の箱詰めは可哀相に思えて、
この前おばあちゃんに教わった風呂敷の結び方で、とりあえず背中に背負ってみた。けど……。

「……流石に、変だったね」

自室のベッドに浅く腰掛けた亜梨子は、背から降ろして膝上に抱え直したばかりの風呂敷包みを複雑な表情で見下ろす。
「……苦しいよ、アリス」
「あ、ごめん!」

桜の花弁の模様が入った、薄桃色の可愛い包みから聞こえた控えめな抗議に亜梨子は大急ぎで包みを解き、背を丸め、柔な布地から開放した猫の首を覗き込む。
「チェシャ猫、平気?」
「平気だよ」

先ほど聞こえた苦しそうな声の余韻は微塵もなく。彼女の膝で、猫は別段普段と変わらない笑顔でニヤニヤと笑う。
「みたいね……」

覚えた軽い脱力感に従い、猫を膝に戻した亜梨子はそのままベッドに倒れ込んだ。
薄茶色の柔らかな髪がふわりとシーツ一杯に広がり、軋んだスプリングが、ギッ、と小さな音を立てる。
「やっぱり、鞄かバスケットにしようか? 荷物…増えちゃうけど」
「……アリスの好きなようにすればいいよ」
「……もうっ、文句言ったのはチェシャ猫じゃないの!」

亜梨子はむぅと頬を膨らませ、猫からプイと顔を逸らし、床に置き去りにしていた足をベッドサイドにぶつけてパタパタと鳴らす。

彼女が本気で怒っていない事を知っている猫は、舞い上がった埃が窓から射す日光で金色に光るのを目で追いながら、されるがままに揺られて亜梨子の膝に乗っていた。
こうして一々、自分の一挙一動に小さな子どものように焦れるその仕種さえ、愛らしいなんて思いながら。





そのまま出かけようかと思ったけれど、一つ大切な事を思い出した。
周囲に手頃な紙が見当たらなかったのでとりあえず、
机に広げっぱなしだった数学のノートからページを切り取った。

「アリス、何をしているんだい?」

テーブルに置かれた小さな藤製のバスケットから、間延びした声が尋ねる。
尋ねられた側の亜梨子はその横で先程からずっと、忙しなくペンを走らせていた。
「ちょっと叔父さん達に書き置きを……よしっ、書けた! んじゃあそろそろ行こうか、チェシャ猫」

ペンを元の場所に戻し、両腕で抱え上げだバスケットに言う。
「僕らのアリス、君が望むなら」

聞こえたのはお決まりの返事。
亜梨子は一つ頷き、バスケットの蓋をゆっくりと閉めた。





結局、二つのバスケットを持つ羽目に陥った。
一方を腕から下げて、もう一方を胸に抱く。
駅へ向かう道すがら、何度かバスケットを振り回してやりたい気分になったけど、そこはなんとか我慢して。

「アリス、どこへ行くんだい?」

粗い目のバスケットから猫は、蓋を上げなくても亜梨子を見遣る事が出来た。尤も、これからの計画で頭が一杯の彼女はそれに全く気付いてはいないようだが。
「とりあえず最初は海へ! ……それから後は着いてから決めよう…かな?」
「アリス、海は危険だよ」
「こっちの海は全然平気! それに、今の時期はどうせ、見るだけだしか出来ないしね」

この辺の計画だけは完璧なんだから、と、にっと悪戯っぽく笑う亜梨子に猫は揚々に頷く。
「う―………」
「どうしたんだい?アリス」

口元に方手を持って行き僅かに首を傾げる――何かを考える時の癖を出し、不意に黙り込んだ亜梨子に向かい、猫は不思議そうに尋ねる。
「……普通さ、こういうのって男の人がリードするものなんじゃないかなぁ――なんて……」

少しの沈黙の後、些か不機嫌を纏った声で亜梨子は返す。
「…そういうモノかい?」
「……そういうものよ。だけど…まぁいいか! チェシャ猫が私と一緒ならそれだけで」

悪戯っぽく微笑んだ亜梨子の横顔。今は彼だけのものであるその微笑に、猫は小さく息を飲む。
「……僕のアリス、君がそう望むなら」

小さく呟かれた猫の言葉には気付かず、亜梨子は「楽しみだね」と無邪気に笑った。





手には二つのバスケット。

ちいさな傘を剣に見立て。

真っ白なワンピースの裾を揺らし

青い青い空の下を

灰色猫と一緒にどこまでも。

――その始まりはたった一言。
亜梨子が夏期講習に行っていた間観ていた「ドラマ」で猫が覚えた言葉。
「アリス、一緒にカケオチしないかい?」


去年の夏〜秋頃に仕上げて忘れていた話に一部手直し。
70年代位の少女漫画のような砂糖一杯でポエミーな空気を目指すうち、自滅したのかと。

亜梨子ちゃんは猫が勘違いしてると思い「ごっこ遊び」のつもりでいます。
……真実は、ローブの闇の中。


date:2007.05.12



Text by 烏(karasu)