響け、我が愛し子に…。


*軽い暴力&精神錯乱がある。

おかあさんとアリスの話


亜莉子、私の亜莉子

貴女の

腕を

足を

頬を

心を

人生を

貴女に返すわ

貴女を

傷つける事しか出来なかった私など

もう忘れてしまって

ずっと、ずっと幸せに……。

――白い紙が油を吸うように、幼い子供は、どんどん周囲の物事を吸収して行く。
自分の一番近くに有る、愛情、友情、知性、善意に悪意……そして、心の『歪み』さえ。


「ゅ……り…由佳里、また、泣いてたのかい?」
目を覚ました途端に酷い頭痛がして、私は思わず目を細めた。
滲んだ視界に映る心配そうに眉を寄せた夫の顔と、夕日に染まり始めた室内が、
父との電話を終えた私がテーブルに突っ伏してから大分時間が経った事を教えていた。

「ぁ……寿夫(ヒサオ)さんっ、ごめんなさい!今……」
彼は夕飯の準備をしようと大急ぎで立ち上がった私を制し、再びソファに座らせた。

「……お義理父さんとまた、何か有ったのかい?」
……彼は普段からカンのいい人だ。
私に何が有ったのかも、お見通しなのだろう。
だけど…実家の事でこれ以上彼を煩わせたく無かった私は――

「亜莉子がね……最近、私の言うことを聞かないの…」
――また咄嗟に、嘘をついた。

「私の言う事には一々反抗するし、何度言い聞かせても聞かないの。
それに…今日は園の先生から『誰とも一緒に遊ぼうとしない上、毎日泣いてばかりいて困る』って電話が――」
嘘は一度紡ぐと、あとはいくらでも溢れて来る。それと一緒に涙と鳴咽、胸を締め付けるほど苦しい気持ちも。
園からの電話なんて勿論嘘。
亜利子の我が儘だってどれも年相応の可愛い物ばかりで、こうしてわざわざ夫に告げ口する程の事では無い。
……それはもうきっと、彼にだって気付かれている。
なのに…自分も仕事で疲れている筈の彼はいつだって、こうして嫌な顔一つせず真剣に私の話を聞いてくれる。
――私が鳴咽で言葉に詰まるまで。
喋り終えた後も涙は止まらず俯いて啜り泣いていれば、頭の上に、温かい掌の感触。

「由佳里はよくやってくれてるよ。由佳里も亜莉子も、何ぁ〜んにも悪くないよ……」
呪文のように囁かれるいつもの言葉に私は安心し、やっと、子供みたいに泣きじゃくるのを止める。
――心の歪みが、温かい彼の掌に吸い取られていくのを感じる。

「悪いのは……家庭を君に任せっ切りにしている僕なんだよ…」
照れたような響きで呟かれる、これまたお決まりの台詞。

「……そんな事無いわ。あなたは私達の為に働いてくれているんですもの」
落ち着きを取り戻した私がそう返して、お互い顔を見合わせて笑う。
そうすると、私の歪みは完全に消えていて、再び、「良い妻」「良い母親」に戻れる。
その時、ソファの横のドアが開き、少し開いたドアから亜利子が「ただいま」と顔を覗かせて――夢はそこで終わった。


「……ぁさん、お…ぁさん…」
――小さな子供が泣いている。あぁ何て煩いんだろう!どこか遠くへ行ってしまえばいいのに……。
瞼さえ開けられない程に重い意識の中、苛立ちだけが募って行く。

「ねぇ、おかぁさん……」
重たい瞼をどうにか開くと、視界いっぱいに泣きじゃくる娘、亜莉子の顔。

「あんた……いつ起きたの?」
自分でも呆れる位に声が冷たい。その音に亜莉子は小さく肩を震わせた。
――みっともなくびくびくしないでよ、うざったい。

「何……?お腹、減ったの?」

「ち、ちがうのちがうの!!おかぁさん泣いてたから、おなかいたいのかな?って……」
つまり、私が泣いていたから一生懸命に起こした。と、この子はそう言いたいのね?
……あの、幸せな夢が途中で終わったのは、この子が起こしたせい……?
全部、この子せいなのね?
――気付いた時既に、振り上げた掌は熱を持っていて。
亜莉子は俯せて畳に倒れていた。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」
――そんなみっともない大声で泣かないでよ、私が悪いみたいじゃない。
――そうよ、もっと謝りなさい!全部お前が悪いんだ!
矛盾する、二つの思考が同時に湧く。
それでも、目の前で泣く哀れなこの子を抱きしめてやりたいとは思わないし、思えなかった。
そう、私が悪いのはダメ。
この子が全部悪くて、ずっと謝らなくちゃいけないの。
――信じるわけにいかないから。
あの人が私の『歪み』を吸い過ぎたから焼け死んでしまったなんて馬鹿な妄想を。
この子に全て、受け止めて貰わなくてはいけない。寿夫さんが居ない今、他に歪みを吸い取ってくれる人はいないの。
……私が歪んでしまったら、この子は生きて行けないじゃない。だからしようがないのよ。この子が私の『歪み』を背負わなきゃいけないの。

布団の上に半身を起こした私の横で、「悪い子」は未だ泣いていた。


――それ自体がもう、歪んだ思想であると気付かないままで何年も過ぎ、歪みはどこまでも拡がって。
娘に背負わせた歪みはあの日、私の元に帰って来た。
ともすれば、私の歪みが原因で死んで行ったかもしれない、愛する夫の服を纏って。

あぁ…貴女はこんなに沢山……痛かったのね。
私の分まで、いっぱいいっぱい背負わせ、て、ごめん……ね、ぁ、りコ……。


亜莉子、私の亜利子

貴女の

腕を

足を

頬を

心を

人生を

貴女に返すわ

貴女を

傷つける事しか出来なかった私など

もう忘れてしまって

ずっと、ずっと幸せに……。

どうかこの子に

私の分までの幸福を――。


とりあえず、ママアリなどと言ってみる。
亜莉子のお父さんは、お母さんの歪みを吸い続けていたのだと思います。
(それを見て育った亜莉子だから、ウサギはお父さんの服を纏っているのかもしれない)
心を庇護する存在が居なくなって小さな子供同然となった母親と幼い子供が生きて行くには、
その幼さをぶつける対象が必要不可欠で。
お母さんがそうして亜莉子を犠牲にしてまで二人だけで生きようとしたのは
それでも彼女を愛していたからで……なんて邪推してみたり。

……長くなりそうのでここで閉めます。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。


date:2006.09.11



Text by 烏(karasu)