ゆめたまご


新しい物を書く余裕がなく、昨年別の所に上げた誕生日SSを校正した訳なんですが、何でまた遅刻したんでしょうか……?
元は桂枝雀の「ゆめたまご」って落語です。

人生は夢の中


 それは、今の弥子の記憶に頼るなら、ある春先の昼時、とある団地の横に建てられた児童公園の前の道でのことだった。
 なぜ、春で昼だと記憶しているかといえば、近道公園の端で、咲き始めの八重桜が春の暖かな陽光に淡い陰を作っているのを見上げ、「あぁ、桜餅が食べたいな」と思ったことを、はっきりと記憶しているからだった。
 そして、弥子が美しい桜にそんな失礼な感想を抱いた理由が、公園横の団地から漂う昼食のおいしそうな匂いによる、耐えがたいほどの空腹だったからだ。
 何故そんな時間に団地をうろついていたのか。
 そのとき、小学校にも縁がないほどに小さかった弥子は、その団地に住んでいた友人を訪ねた帰りだったのだ。
 既に年齢の割に旺盛な食欲を有していた弥子は、余所の家でご飯を頂いてはいけないと口すっぱく言われていたので、仕方なく昼前に友人の部屋を出たのだろう。


 もしかしたら、友人がご飯を食べるのを見てしまったら、きっと自分も食べたくなるだろうと、幼い子どもなりに、いじましく知恵を回したのかもしれない。
 しかし、ちょうど昼飯時に出てきてしまったが為に、そうして団地全体から漂う昼食の香りに、目眩を覚えるほどの空腹に見舞われる羽目になってしまった。
「さくら……おいしい、かな……」
 生の桜は食べ物じゃないと何度も言い聞かせて公園を端まで突っ切ったものの。
 ぐうと一際高くなった腹の音に、道を引き返し、一か八かで桜の花でも口に入れてみようかなどと考えて歩を止めた。
 前に、おままごとのお膳を平らげても平気だったのだ。そうだ、あんな綺麗なお花が身体に悪い訳がない。
 心の底からそう思い、ぐっと小さな拳を握って、踵を返して公園に戻ろうとした時。
「ゲッゲッゲ……お嬢ちゃん、たまごは要らんかね?」
 いつの間にか、弥子の後ろには一人の小柄な男が立っていた。
 その男は、春先だというのに、真っ黒なフードの付いたコートを羽織り、そのフードで顔をすっかり隠していた。
 よっぽどしっかりと被っているのか、その男の膝ほどの身長も無い弥子が見上げても、弥子の知っている大人たちより少し大きな口が見えるだけだ。
 まるで、赤ずきんの絵本の、狼さんのようだ――そう思って、身構えた弥子の幼い警戒心は、その牙のような歯の間から漏れた言葉で、一気に消えた。
「なぁお嬢ちゃんや、夢たまご、買わないかい?」
 お腹が空いて仕方がないで居た所に、たまご、という単語を出され、弥子はぱぁっと幼い顔を綻ばせた。
 幼い弥子にとって、食べ物やさんは、例え知らない人でも、怪しい人ではなかったのだ。
 だけど、その男が唱えた卵料理の名前は、料理の本ばかり読んでもらっている弥子にも聴いたことのないものだった。
 だから、弥子は自分の知っている卵の名前で一番近いものを口に出してみた。
「うで……たまご?」
「うーんと、それを言うならゆでたまごでごぜぇます」
 頭から黒いフードを被ったその男は、まだ上手く口の回らない、弥子の怪しい発音を軽く訂正すると、足下で自分を見上げる弥子に目線を合わせて屈み込んだ。
「ゲッゲッゲ……しかしねお嬢ちゃん、あっしの売っているこの卵は、ゆでたまご、なんてちゃっちなモンじゃねぇのでごぜぇますよ」
 そうして、きょとりと首を傾げる弥子の淡い色の小さな頭を軽く撫でると、どこからともなく、みたことの無い色をした卵を取り出し、弥子の小さな手に握らせた。
 それは明るい青色に、淡い黄色の縞が入ってる以外は、大きさも形も鶏の卵と全く変わりがなかった。
 そう感じた途端、弥子の口の端から、とろりと涎が滴ったが、両手で卵を受け取ったために、それは拭えずにアスファルトに移った、弥子と、その男の影の上に落ちた。
「うでたまご……」
「あーっ、だから……夢たまごでさぁ。食べたら夢が見れる、夢たまご!」
 じれたように、じたんだを踏んだ男の言葉の最後のほうを弥子は全く聴いていなかった。
 これは、食べられるたまごだ。食べられないかも知れない桜と違って。それだけで弥子には十分だった。
「これ、いくらですか……!」
「おわっ! ……あぁ、びっくりした」
 男は弥子の剣幕に負けて危うく後ろに尻餅を付きそうになったが、何とか持ち直した様子で、何とか体制を整えた。
「ゲッゲッ……なんといっても、貴重なモンですからねぇ」
 黒い手袋に包まれた女の人のように小さな右手を指を三本立てて、大きな目を一生懸命に真剣な顔をした弥子の額にかざした。
「さんびゃ……あ、いや、なんならにひゃ……えぇい、ひゃ……分かった分かった! 三十円でいいですよ!!」
 しかし、それを聞いて今にも泣きそうに目を潤ませた、喉をひくつかせた弥子の様子に動揺して、一本、二本と折った後に、また三本指を出し、投げやりにそう叫んだ。
「さんじゅうえん! なら、やこもってる!!」
 弥子は目をきらきらさせて、首から下げたポシェットにたまごを仕舞い、代わりに小さな財布を取り出し、銅色の硬貨を三つ、男の手に乗せた。
「あい、確かに。ゲッゲッ……まぁ、せいぜい良い夢を見るといいぜ!」
「ん、わかった! ありがとう!!」
「ゲッゲッゲ……全く、幼い頃から傍若無人でごぜェますな。流石はあの方の相棒だよ……!」
 最後の言葉の意味を弥子が聞く前に、男はすっと立ち上がり、弥子に背を向けて行ってしまった。
 残された弥子は、わくわくとした気持ちで卵の入ったポシェットを抱え、来た道を戻って、さっきの桜の下へと引き返した。
「めずらしいたまご、だもんねっ」
 その下のベンチなら、珍しいたまごがもっと美味しく食べることができるし、何より、夢たまごのせいで眠ってしまっても安心だと思ったのだ。
「なんだ、ふつーのゆでたまごじゃん……」
 綺麗な色の殻を剥いてみると、益々にわとりのゆでたまごに似ているのにはがっかりしたが、弥子は気にせずそれを頬張って、少しずつ飲み込んで行った。
 頭の上では、さらさらと桜の枝が揺れていた。


*

「ヤコ、ヤコっ……!」
「ん……なぁに……ネウロ……っ!」
 誰かに呼ばれて目を覚ました弥子は、何だかいつもより重たい感じのする身体で寝返りをうち、目をこすりながら、自分の口から飛び出した声にびっくりして飛び起きた。
 確かに自分の喉から飛び出した筈のその声が、全く知らない人のような声だったからだ。
 いつもの自分の声より少し低くて、舌足らずだと大人達に笑われないような、はっきりした発音。
 それに、その声は今、自分の名前を呼んだ、誰だか分からない声の主の名前のようなものを呼んだのだ。
 両手で口を押さえたまま見回した周囲は、さっきまで居た公園ではなく、どこかの部屋の中だった。
 もしかして、卵を食べた後、あのまま眠ってしまい、団地の何処かの家に運ばれたのだろうか。
 だけど、弥子は寝かされていないし、この部屋は弥子や友達の家の、ご飯を食べる部屋や、寝る為の部屋とは何だか様子が違っている。
 目の前にあるガラスのテーブルは弥子の家のテーブルより小さくて、ご飯を並べるのには不自由そうだし、ほかの家具もテーブルの向こうのソファと、同じデザインの弥子の座るソファだけ。
 あとは手摺りのある階段と、その奧に天井まで届く本棚。その横に小さなチェストだけという、至ってシンプルな作りだ。
 奥に洗面所らしきものが見えるが、お風呂やベッドはないみたいなので、やっぱり寝る部屋でもないのだろう。
 ならこれは何の部屋なんだろう。そう考えて、ここによく似ている部屋を弥子は一個だけ、ぱっと思い出した。
(そうだ……おとうさんのしごとのおへやだ!)
「全く……何を考えている?」
「うぐっ!」
 声を出そうとした途端、急に後ろから首を締められた。弥子はびっくりして悲鳴を上げて暴れようとしたが、身体からは勝手に力が抜けていった。
 これじゃまるで弥子の意志と関係なく、身体が動いているみたいだ。
 そう思った時、また、弥子の口が勝手に動き出した。
「もーっ! 寝起きに首とか締めないでよっ! 声、出なくなったらどーすんのさ?」
「黙れ、貴様がいつまでも寝ぼけているのが悪いのだ」
 弥子の手が勝手に動き、ぺしっと、首に掛かった手を払うのと同時に、背後で不機嫌そうな、大人の男の人の声がした。
 首をしめる手がゆるんだのと同時に、頭を後ろに反らすようにして逆さまに振り返ると、見たことのない背の高い男の人が、真っ黒な机に腰掛けてこちらを見下ろしていた。
 その人の後ろに広がった空よりも青い色をしたその洋服。友達の女の子よりも綺麗な顔と真っ白な肌に、黒い前髪と、男の人にしてはちょっと長い金の髪。
 どれも、今まで見たことのない綺麗な色と形をしている。
 だが、そのどれよりも、弥子は、その深い緑色の目に見入ってしまった。茹でて色味の増した菜の花みたいで、何だか美味しそうな色をしている。
 それに――絵本やテレビでしか見たことがない、こんな変な色なのに。ずっと前から、何度も何度も見たことがある気がするのが、不思議だった。
 そう思ったとたん、くーっと情けない音でお腹が鳴って、弥子はようやく、自分がずっと、頭をソファにもたせて反らしたまま、その男の人を見ていたことに気づいた。
(このひとが、『ネウロ』かなぁ?)
 そう思った途端、今度はガッと頭が捕まれて、頭を反らした状態のまま、ぐいっと無理矢理ソファから立ち上がらされた。
「何をぼやぼやとしているのだ、行くぞ!」
 痛いと声を上げようと思ったけど、思ったほど痛みがないことにびっくりして声が喉に詰まってしまった。途端。
「うぎゃあっっ!」
 思い切り床に投げ込まれて、おでこと鼻先を強かに床に打ちつけてしまった。
 しかも、起きあがろうとした所をあっという間に頭を踏まれ、再びつっぷしってしまう。
「全く……今日を何の日だと思っているのだ……。時間もないというのに……」
 起きがけてすぐ、知らない男の人から叩かれて、理不尽な言葉と仕打ちを受けている。
 いつもの弥子だったら、怖いし痛いしで、思わずうわーんと泣き出してしまう所だが、びっくりし過ぎて涙も出てこなかった。
「全く、そう大人しいと気持ちが悪いな。……何か悪いものでも食ったか」
 そのうちに、『ネウロ』は動かない弥子に飽きたのか、唐突に頭から脚をのけると、また弥子の頭を掴んで、じーっと顔をのぞき込んで来た。
 弥子は頭を打ったせいでぼーっとしながら、さっきよりちょっとだけ、心配そうな色になった瞳を見上げていた。 そして唐突に、その目に写ってるのが、自分じゃないことに気づいた。
(あれ…このひと、わたしじゃない……)
 緑色の目の中で弥子をぼんやりと見返していたのは、弥子よりずっとずっと年上のお姉さんだった。肩までの弥子の髪より短い髪をしていて、頭には弥子と同じ赤い髪留めを付けている。
 だけど、全く面識のない、知り合いの大人にも似ていない、知らないお姉さんの筈なのに、どこかで見たことのあるように感じられる。
 そしてふと、その顔が、たまに鏡で見る自分の顔にそっくりなのだと弥子は気づいた。
(あぁそうか。これは、おとなになったわたしのゆめなんだ……。だから私の自由にならないんだ)
 夢たまごのことを思いだし、そう気づいた時、黒手袋をはめた大きな手のひらが額に乗せられた。
 その冷たいのが心地よくて、すっと目を細めると、それはついでのように弥子の頬を何度か辿って−ーゴンという鈍い音が頭蓋全体に響いた。
「いた、いたい……っ!」
「ふむ、どうやら熱はないようだな……」
 弥子を抱えていた『ネウロ』が、急に弥子から手を放したのだ。
「では……こんな所でぼやぼやしている場合ではないな……なんせ今日は−ーだからな」
 頭を押さえてじたばたと暴れる弥子の襟首を掴んで立ち上がると、『ネウロ』は弥子を掴んで引きずりながら、部屋の出口へと向かった。

 急に手足の長くなった身体は、背もうんと伸びている。頭の位置が高いせいで、とても怖かった。
 一歩歩くだけで高さにくらくらして、まるで、竹馬か何かに乗っているように恐る恐るになってしまうし、手も足も自分のものでないようで、一歩進む時に、振り上げる加減がわからない。
 それで最初、足がもつれて何度も何度も転んでしまったのだが、べそをかく前に『ネウロ』が襟首を掴んで起こしてくれるので、実際に泣くことはなかった。
 そのうち、歩幅が合わないことが面倒になったのかある時に襟首を掴んで起こされてからは、そのままずっと引きずられてしまったが、なぜだか余り嫌な感じはしなかった。
「ありがとう、ねうろ!」
 そのうち、そうした乱暴な扱いにも慣れて来て、起きがけの自分をまねして、お礼を言ってみる余裕も出来た。
「全く……文句を言ったり礼を言ったり……貴様はよく分からんな」
 帰ってくる声は相変わらずに静かで、少しぞくっとする低い声だったけれど、余り嫌な感じはしなかった。
 しかしそれも、目的地に着くまでの、ほんのわずかの間のことだった。
 着いたのは、偶然にも、たまごを食べる前の弥子が居た公園だった。団地は、さっき見た時よりもぼろぼろになっていて、カーテンの掛かっていない窓も少し増えていた。
 しかし、桜も、その下のベンチも、すこし木の背が伸びて、ベンチのペンキが剥げた以外はそのままだった。
 何もかも、初めて見るものばかりで不安だった中での見覚えのある物たちに、弥子は思わず興奮して、なぜだか襟首を掴むのを止めて、自分の手を引き始めたネウロを見上げた。
「ネウロ、ネウロっ、わたし、ここにきたことあるよ! 時間が経つとこんなに変わるんだね!」
 思わず、さっき来た時と全然違うよと続けそうになり、開いた左手で口を塞いで言葉を飲み込んだ。
 弥子がヤコじゃないの、バレちゃっただろうか。お前なんか知らない子だって、怒られちゃうだろうか。
 と、恐る恐る見上げたが、立ち止まった『ネウロ』は、様子のおかしい弥子のことなど、もう気にしていないようだった。
「そうか……」
 ただ、遠くを見回すように首を巡らして何かを探している。ぎらりと牙の並んだ口角を上げて、綺麗な緑の瞳を、先ほどよりぎらぎらとさせて。
(ネウロ……笑ってるのかな……それに涎……)
「隠れていないで、いい加減出て来たらどうです? そこに居ることは先生にはお見通しですよ」
 たらりと垂れたそれを拭おうとした所で、『ネウロ』がそう声を上げ、弥子は手を引っ込めた。と、同時に、『ネウロ』が弥子の両肩を掴んで、自分の前へと押し出した。
 すると、先ほどまで眺めていた、ベンチと桜の間に、ふと一人、人が現れた。
「……という訳で、その団地で起きた殺人事件。犯人はあなたしかいない! ……と、先生は考えていらっしゃるのです」
 『ネウロ』が弥子の両肩を固定したまま、今までとは違う口調で話すのを、弥子は目の前の相手から目を反らすことも聞き返すことも出来ずに聞いていた。
「まぁ……そこまで分かってるなら仕方ないですよね」
 そして、鞄を抱えたまま、その一連の言葉を聞いていたその人が、つかつかと弥子に歩み寄った。
 そうして、ぼうっと立ったままの弥子の顔をのぞき込みながら、にっこりと笑い、そのこめかみに冷たい物を押し当てた。

「うあああああんっ! うえっ……あ、ぅ、うわぁ、あ、あああああん!!」
「……やかましい」
 それから数十分後、弥子は、桜の下のベンチに座って、服の袖で顔を覆って力の限りに泣き続けていた。
 その横に座った『ネウロ』が、心底呆れた顔でのぞき込んでいるが、ついさっき怖い目にあったばかりの弥子にはそんなことは、どうでも良かった。
 弥子のこめかみに突きつけられたのは口径の小さな銃だった。弥子のこめかみにそれが押しつけられた瞬間に、ネウロが手で払い落としたので、実際弥子には傷一つない。
 だが、すぐ目の前で鳴った大きな音、後に駆けつけた笹塚という刑事に死んだかも知れないと怒られたこと。それらにすっかり竦みあがり、更にここまでの混乱を思い出して、弥子はとにかく震えながら泣き始めた。
「全く、貴様の言い出した『食事』ではないか。なのに、何故泣く?」
「こわかったの! すっごくすっごくこわかったの!!」
「……銃がか? 銃でもナイフでも、今まで何度でも突きつけられたことがあるだろうに。何をいまさら怯えることがある?」
 言葉は完全に呆れを含んでいたが、その手はさりげなく弥子の頭を撫で、背中を軽く叩いて、慣れないてつきながらに慰めようとしているようだった。
 しかし、弥子の涙は一向に止まらず、今まで生きていて、一度も感じたことのなかった恐怖のままに泣きつづけた。
「もうやだあああ! こわいのやだぁ! あたし、おとななんかっ……ひっく、ならないっ……!」
「なんだと……」
「いたいっ!」
 途端、『ネウロ』の声色が変わり、震える弥子の手に乗せられていた手にぎゅっと強く力が加わった。
 無理矢理顔を上げさせられ、それに抗議するように涙目のままぎっと睨み付けると、『ネウロ』はそんな弥子以上に怖い顔をしていた。
 驚いて、背けようとした顔を両手でぎゅっと捕まれ、最初の時のように、じっと弥子を見つめる。
 そして、ひんやりとした目を一度見開くと、興味を失った顔で弥子から手を放した。
「貴様は……ヤコではないな。……いや、正確には、我が輩のヤコではない……か」
 そうして、『ネウロ』は口をつぐみ、何かを考えるように顎に手を当てた。そうして周囲には、驚きで泣き止んだ弥子が必死に呼吸を整える、ひっく、ひっくという声だけが響いた。
 そのうち、ネウロが何かに思い当たったのか、小さく目を見開いて、未だしゃくりあげる弥子を見下ろした。
「貴様……もしや、夢たまごを食べたのか?」
「ん……っ、たべた、よ? ……一個だけ」
 声の厳しさに、沢山食べたんだと思われたら、怒られてしまうだろうかと咄嗟に付け足した。
「そうか……」
 だが、ネウロはそう言っただけで、あとは顎に手を当てて俯き、何かを考え始めてしまった。
 ねぇ、それがどうしたの、と続ける前に、黒手袋のひやりとした手が、火照った瞼を塞ぐように当てられた。
 それが心地よくて、真っ黒な手袋の中ですっと目を閉じると、耳元で起きた時と同じように、低い声が聞こえた。
「ならば……泣くことはない。これは夢だ。醒めればそれで終わる」
「ん……っ!」
 泣いた事による余韻に、まだ痙攣する喉で、なんとか頷きを返すと、耳元の声がくすりと笑った。
「醒めれば、きっと忘れてしまう」
「うん……」
 『ネウロ』の言葉は、地面に降る八重桜の花びらのように、黒い手袋で覆われた真っ暗な視界に降りつもって行く。
 そして、その一つ一つに、弥子は何も考えず、ただ素直に頷いて行った。
「貴様にしてみれば……酷い悪夢だったことだろうな」
「ううん、そんなことないよ!」
 だけど、最後に自嘲ぎみに吐かれたその一つには、目の上から『ネウロ』の手が外れてしまうのも気にせず、強く強く首を振った。
「だって、ネウロがいたもん」
「……そう、か」
 弥子の唐突な否定に不意を付かれたのか、弥子の右目からネウロの手が外れた。
 そのおかげで、夢から醒める直前に、弥子はまた、『ネウロ』の深緑の瞳を見ることが出来た。
 それは段々、弥子の視界を覆うように近づいて−ー最後に、唇の先にひんやりとやわらかな物が触れた。
「先ほど食したプレゼントの返礼だ。誕生日おめでとう、ヤコ」




 目覚めた時、弥子はいつもの事務所のソファの上だった。寝返りをうって、見つめたガラステーブルには、お菓子の空き箱と広げられたノート。
 どうやら、春の暖かさにやられて、宿題の合間にうたた寝していたらしい。
 変な体制で寝ていたせいだろうか。なんだか変な夢まで見てしまった。

「ネウロ……」
「なんだ?」

 ごしごしと目をこすりながら、いつもの通りトロイに座るネウロを振り返る。
 そんなネウロをソファの縁に顎を置いて見上げたまま、弥子はにへらと笑顔を浮かべた。
「何だか変な夢見ちゃったよ。たぶん、小さな時の夢」
「それは……食ったからだろう」
「え、なっ、何を? てかあんた、私が寝てる間に一体何食わせたのさ!?」
 いつもの様子で返ってくる歯切れの良い言葉にニヤリと笑いながら、ネウロは読んでいた雑誌を閉じ、弥子の問いへの返事を返した。

「夢たまご……を」

 ガラステーブルには、幼い子どもの好むようなピンク色のキャラクターのハンカチが敷かれ、その上には、桜の花びらのような桃色の卵の殻が散っていた。

二年連続でメインと改稿作ってしかも遅刻した誕生日ネタ。


date:2011.03.10



Text by 烏(karasu)