ゆびきり


*未来捏造のパラレルな上に、救いが全くないです。

どんなに呼んでも、彼女はただ、悲しく笑うだけで。


この季節特有の濃厚な夕闇の中で、周囲の家々と違い、明かりの全く点っていない我が家に違和感を覚えた。
いつもならこの時間、彼女はとっくに外灯のスイッチを入れている。

玄関の扉を引けば、何の抵抗もなく、開いた。
――鍵が、かかっていない。

大きく口を開けた真っ暗な玄関にも、やはり明かりはない。
背後から射す夕日が作る、扇形。その中には一揃い、全ての靴が揃っている。
背に走った悪寒と同時に、暗い廊下を駆ける。靴を脱ぐのさえもどかしく、そのまま、土足で。
カツンと響く、変に軽い靴音は、確信にせまり段々と重くなる予感に跳ねる心臓の音と似ている。

廊下の角を曲がる時、キィ、と小さく軋んで閉まりかけた玄関の扉から一瞬だけ見えた夕日は、
今まさに、最後の閃光を放っていた。






大きく開け放たれた窓から入り、カーテンを揺らし、閑散とした居間を冷えた晩秋の風が吹き抜ける。
この場所に残っているのは、朝のままで畳みかけの洗濯物と、その傍らで「いってらっしゃい」と微笑んだ、今日の空のように澄み切った彼女の笑顔。
そして――
「……ね、おかぁさん、は?」

呆然と立ち尽くす俺の手を掴む、温かく小さな掌。
縋るように力を込めて、今にも泣きそうな顔で見上げて来る、幼い娘。

もう一方の手には、遊園地で貰った風船。

明るい翠はただただ、不安定にゆらゆらと揺れる。

――そこから、思わず大きく逸らした視線に、果たしてこの子は気付いたろうか。

この色は、どうしても好きになれない。
真っ直ぐなそれをいつまでも直視することができず、その眩しさからいつも目を逸らしてしまう。

きっと、明るく澄んだ緑色はそれだけであの日を思い出させる色だからだ。

意図的に忘れようとした――約束の日、を。




その日の記憶は、いつもそこから再生される。
古びた映写機を回すようにいつも、カラリと乾いた音を立てて。

夏の午後、焼けた石畳の上で交わした会話、から。

その前後にあったはずの事象が、全て抜け落ちている、と。言った方が正確なのだろうか。

映像は、とにかくいつも、前を行く彼女を俺が呼び止める所から――――

「ねぇ、弥子ちゃん」

俺の数歩先で立ち止まった彼女は街路樹の作る木陰に立ち、誰の目にも明らかな程に目立ち始めた腹に手を置いて、肩越しにゆっくり振り返る。
憂いを含んだその横顔。強い日差しの当たるうなじが元々の白さを余計に際だたせ、今にも日差しに溶けてしまうかのような、儚い印象の。

――その年の夏、彼女はいつも笑っていた。

初めて出会ったあの時と同じ、痛々しい笑顔でいつも。
去った者に焦がれ、自身に唯一残された者への愛しさと不安に押し潰されそうになりながらも、ずっと。

悲しいことに、彼女の演技は完璧で――その僅かな変化に気付いたのは、きっと俺くらいだった。

だから――錯覚を起こさせた。
俺が、俺だけが本当の彼女を知っているという、無意識の自惚れを。

そんな、思春期のガキのような青臭い感情が少なからず有ったからこそ、あの日の俺はあんな無謀な賭を挑んだのだと思う。

「社会的に自立し、人並みの分別と経済力、そして信用のある大人」という、あの時の彼女が一番必要としていた人間の仮面をかぶって。

「―― 一つ、提案なんだけどさ……」

以前より、少しだけ伸びた蜂蜜色の髪を掻き上げ、顔を上げ、俺を見上げた彼女の大きな瞳に、木の葉の影がゆらりとゆれた。
「……あいつが、帰ってくるまで、君とその子を、俺に――」




「ねぇっおとうさん、おかぁさんは?」

濡れて震えた、あどけない声に、再び足元の子を見下ろす。
手にしっかりと持った、夕日のように赤い風船の下で、窓から入る秋風に絶えず煽られるソレよりも、遙かに心許なく揺れる、
今にも溢れそうなくらい、涙で潤んだ、新緑のように明るい――翠の瞳。

着ている服は、お気に入りの白いコートとスカート。それと揃いで桃色のマフラー。
出かける直前になって「今日は少し寒いみたいだから……」と、彼女が呼び止めて巻いてあげていた。
膝をついて、裾を整えてやり、顔を上げてこちら笑いかけ、「いってらっしゃい!」と――

そんな些細な所作に、以外と几帳面な彼女がやり残したまま、放り出していった家事の跡は言う。
少なくとも今朝まで、俺や、この子にだけでなく、彼女にとっても今日はまだ、「日常」だった筈なのだ、と。

それが、ゲームの敗者へ対する、哀れみなのか、最後のとどめなのかは――生憎、俺には解らないのだが。

膝をついてしゃがみ込む。涙を溜めたまま、不思議そうに見上げる瞳。
その体温の高い、小さな身体を抱きしめた。
ほのかに蜂蜜色を含む、黒に近い髪。薔薇のように上気した頬。
子どもの、泣きそうな時特有の息遣いが、耳元で聞こえる。
「大丈夫だよ、シナ。きっと帰って来るから……」

『翅那』は、彼女が名付けた娘の名前。

由来は恐らくシナプス。神経同士を繋いで行く絆の意味。

それはそのまま、彼女が俺との賭けを諦めていなかった証拠でもあったんだろう。
実際に問い質してみた訳では無いので、それはあくまでも仮説の域を出ないが。

それでも彼女は――だれかの前で娘の名前を口にするときはいつも、昔、あの男と共有していた『何か』を第三者からごまかす時によく浮かべていたのと同じ、あの表情で笑っていた。

恐らく、無意識下での癖だったのだろう。だからこその信憑性。

他人の行動には聡いくせに、自分のこととなるととことん鈍い。
――そんな彼女らしい、一途な癖。

それでも――愚かな俺は、それら全てから目を逸らして。
「時間」などという、とことん不確かなものを、自分の勝利だけを、信じきっていた。

今日、彼らの間にあった「何か」を、改めてみせつけられるこの瞬間まで、ずっと、ずっと。

「……おかぁさん、すぐかえってくる?」

スン、と鼻を鳴らして涙を堪え、いじらしく見上げてくる娘。
「ん、多分ね……」

俺はその目を、ちゃんと見れたろうか?上手く――笑えていただろうか?
「あぁ、よかったぁ!」

翅那は安心したように、大きく息を吐き、ぎこちなく笑う。
彼女と同じ表情で、なのに、やっぱりどこかかが似ていない。

今日の朝は働かなかった、予感という不協和音が今更するりと背筋を撫でる。
俺とは確実に血の繋がっていない、だから、どちらにも良く似た、愛しい娘。

この子と――この子が生まれてからのたった数年だけが、彼女と俺を繋ぐ唯一の絆。
だから奴は、この子をいつまでも俺の手元に置いておく事は、きっとしないだろう。

恐らくは、彼女を独占するために。恐らくは……俺に敗北を認めさせるために。
あいつは翅那を、必要とする。

ならば、形だけでも縛り付けてしまおう。
幼い子ども特有の、過剰な正義感と責任感を使い。

少しずつ、何十にも重ねた約束を、だんだんと鎖に仕立て上げてしまおう。
奴がこの子を使ってずっと、彼女を繋いでいたように。


「…翅那、指切りをしよう?」
「……? なにを、おやくそくするの?」
「……パパと、ずっと一緒にいようって」
「いいよっ! シナ、パパ大好きだもん」
「じゃ、手、出して」
「ん、」
 小さな白い掌がきゅっと俺の指を掴むその感触を確かめ、そっと、目を瞑った。
「んとね、指切りげんまん……」

――ねぇ笹塚さん

閉じた視界の中で映写機は、再びカラリと回りはじめた。

翠に染まった記憶の中、彼女はゆっくりと振り返る。背中に組んだ両手を羽のように揺らし、困ったようにはにかみながら。
「うっそ、ついたらぁ――」

――指切り、しませんか?

差し出されたのは小さな右手。子どものように小さいのに、細くしなやかで綺麗な――女の手。

「ハリセンボンのぉ――ますっ!」

――じゃないと私、負けたときに、約束……ちゃんと守る自信無いですから。

そういって、泣きそうに顔を歪ませ笑った。

大人の狡猾さとは無縁で、どこまでも純粋な少女の目。

 ごめんね弥子ちゃん。大人は……君が考えていたよりも、ずっとずるいんだ。

「ゆびきった!!」

幼子の瞳は無邪気に揺れる。
今、傍らに彼女を置いて満足そうに笑っているだろう、あの男に似た色で。
彼女が見せる、純粋な輝きで。


ねぇ弥子ちゃん、あの日、大人と約束なんて、するもんじゃなかったんだよ。
大人はね、こんなに簡単に約束を破るんだから。



BGM「かすみ」Dir en grey

昨年の夏に書いて放置になっていた物に、僅かな加筆と修正を加えてあります。
あんまり弥子ちゃんや笹塚さんらしくない上に余りに暗いので、今まで仕舞っていました。
以前書いた匪口さんの話とカブってる気がしなくもないですが、微妙に違う……筈!


date:2007.07.14



Text by 烏(karasu)