浴室


思えば思うほど痛い。


現在、時刻は真夜中少し過ぎ。
 いつもの通り、人に与えられた時間が平等だという事実を疑いたくなるほどに長かった一日を締め括る為の日課として、弥子は風呂に入っていた。

疲れで重い身体をバスタブの底へ横たえるようにしてゆったりと湯舟に浸かり目を閉じ、
縁に頭を預け、湯気に混ぜた溜息と共に今日一日の出来事を反芻する。

いつものように学校へ行き、これまたいつものように事務所に出向いて。
向かった先、相変わらずの横柄な態度で自分を迎えた魔人に道具として扱き使われた以外は、
なんだかんだといっても、比較的穏やかで平和な一日で――

『お高く止まってるんじゃねェよ、このメスブタがっ!!』

……なかった。
一つだけ、面倒な小波があったのだ。

弥子は膝を抱えて拗ねるように俯き、口元までを湯に沈め、思い出した罵声に眉を潜めてブクブクと、
あぶくと共に溜息を吐いた。

帰りがけ、急いで事務所に向かう所を他高の生徒に呼び止められ、多分、世間で言う所の告白というものをされたのだった。
顔はよく思い出せないが、友人の叶絵が一緒にいたなら「まぁまぁってとこ」とでも
批評をするだろうくらいに整った顔をしていたのではないかと思う。

そのせいなのかは知らないが、その男は無駄に自信に溢れていて、
呼び止められた最初に、「そういうの、興味ありませんから」と簡単に頭を下げ、
再び駆け出そうとした弥子の右手を掴み、自分と付き合う事でのメリットを弥子に向かってつらつらと語ってきた。

悲しきかな、そのような接触に多少慣れている弥子は、特に怯えることも胸をときめかせることなく、
はぁそうですか相手の話に適当な相槌を打ちつつ、最初のとりつく島もないような態度を詫び、
今度は失礼の無い言葉を選び、なおかつ完全に諦めが付くようにはっきりと断った。

……筈、だったのだが。

何故か男は弥子の態度に逆上し、その結果として先ほど自ら掴んだ弥子の右手を
汚いぞうきんでも棄てるかのように振り払い、踵を返した去り際にふと振り返って。
先程弥子の思い出した通りの、罵声を浴びせて去っていったのだ。

物理的な攻撃や精神的な嫌がらせに発展する様子はないし、
それだけで済んで良かったではないかと無理矢理に自分を納得させ、
通りがかりに犬に噛まれたような物だったのだと、さっさと忘れてしまおうと思った。

そして──それをその通り、今まで忘れさせていたのは、
帰りがけに有ったそれを遅刻のいきさつとして一応報告した時に発せられた、あの傲慢な魔人の言葉だった。

『フン、貴様ら人間のいう恋などとは所詮、生殖本能の別称であろうに。 その様な物に一々振り回されるとはその男、家畜に劣る貴様よりも程度が低いな』
いつもの様に椅子に座るネウロが翡翠色の眼を細め、人を小馬鹿にする時の声色でそう言った時、

弥子の心臓は少し、ズキリと痛んだ。
その痛みに一瞬歪んだ顔を、弥子の様子にきょとんと目を見開く魔人から隠すように俯けて。
自分でも分からないその理由を考えているうちに、きっかけとなった事象を一瞬だけ忘れ、
畳みかけるように与えられた理不尽な暴力の痛みに、胸の痛み自体を忘れてしまった。

(……こうやって一人で家に居る時でさえ叶いもしない恋の事を考えてるって知ったら、
あいつもやっぱり私のこと、『雌豚』なんて罵るのかなぁ?)

濡れた天井を眺め、そんな事を延々と考えていた所で埒があかないとしりつつも、
最近は、いつの間にやら思考していて、結果として何時でも考える事になってしまう。
ふぅと息を吸って俯くと、そんな自分が情けなくて悔しくて――無性に腹が立ってきた。

「あ〜っ、もうっ!!」

思わず、手のひらでばちゃんと水面を叩いた弥子は、再び天井を見つめて溜息を吐く。
びしゃんと飛沫を上げた後、たゆたう水面をこちらに流されて、こつりと肌にぶつかってきたものに、思わず口元をゆるませる。

「……ねぇ、あんたはどう思う?」

気まぐれで湯舟に浮かべた黄色いアヒル。その嘴の先を指で小突き、話し掛けてみる。
やはり返事などなく、アヒルは指先につつかれるまま、ゆらゆらと揺れるだけだった。

そのアヒルは数日前、叶絵と行った雑貨屋で一目見て気に入り、思わず買ってしまったものだった。

「あんた、よりによってその一番可愛くない奴買うの?」
「いーの! ……それに、よく見たら結構愛嬌有る顔してるじゃん」
「……そぉ?」

叶絵に呆れ半分で笑われても、弥子はそれを棚に戻す事が出来ず、結局レジへと持って行ってしまった。
だってそれは、とてもよく、似ていたのだ。いつも弥子を軽蔑し、冷めた瞳で見下ろす魔人の本来の姿に。


「本当にさ、私って笑っちゃうくらい子どもだよね―」
 再び、そのオレンジの嘴をツンとつつき、だれにともなく呟いてみる。

(好きなものや人に繋がるなにかを、何でもいいからどうしても、手元に持っておきたかった、なんて)

 弥子は苦笑し、湯舟のアヒルを両手で掴み、それをそのままきゅっと強く胸に押し当て、眼を閉じた。
いつか伝わるかも。等と言う想いが幻想で有る事は、それを抱く自分自身がよく知っている。  当たって砕ける覚悟もできず、共感の無さや種族の違いを理由に、今すぐにでもこの気持ちから逃げようとしている。
それでも――
(いつかこうして『本物』を抱きしめる日が来たらいいのになぁ……)
そう願う事自体は、それ程愚かな事ではないのではないかと、弥子は思うのだった。


一回目のお引っ越しの時に出し忘れてた第一弾。
後書きの内容とソコに書かれた裏設定の多さに、自分で辟易してまった……。
ネウロなりに弥子を励まそうとして、それに弥子が傷ついてヘコんでいるような。
そんなすれ違いが書きたかったんです、きっと。


date:2006.03.25
手直し:2008.03.18



Text by 烏(karasu)