三倍変化


07年度、ホワイトデー企画

魔人なりに、がんばったらしい。


唇の線をなぞったブラシの擽ったさが嫌でつい首を引いたら、顎を掴んでいた手の指に、更に力を込められた。
「んん…ぅっ……」

引っ掛かった頬の肉でむぎゅ−っ、と狭まった視界の中、くつくつと響く聞き慣れた笑い声。

不安定な体制の身体を支える為にソファに付いていた、剥き出しの両腕。
笑いと共に鼻先に掛かる吐息と、細められた翡翠色が案外近いのとで、その指が、意思とは関係無しにひくりと強張る。

「フハハハ、そうしていると正に犬のようだぞ。確か、中国原産の……」
「ぐんぅ……どぉせ、顔の潰れ具合がっ、チャウチャウとかっ、パグとかって…うんでっ……んぷっ!」

なるべく距離を取りたくて、膝を折って座り込んだ体制のまま、ワンピ−スの裾が捲れるのも構わずにズリズリと後ろに下がってみる。

すると、すかさず込められる力。

繋がれた首輪から抜けようとする飼い犬はきっと、こんな気分になるんじゃないだろうか。
引っ張られる首筋も、キリキリと鳴る顎の骨も頬肉ももれなく――痛いっ。

「ほう、詳しいではないか……やはり食い物の事となると違うな?」
「流石にぃっ、犬なんて食べないよ、っ! て…ぇ、かそのなかで食用なのはチャウチャウだけだし。やっ、別に食べないけ……どぉ。さっ!」

スポン、なんて間抜けな音でも鳴る勢いで漸く開放された頬をぺたんと両の掌で覆って押さえる私の顔を、コテを使って髪を巻いてくれていたあかねちゃんは、オロオロと心配そうに、

同じソファの上、隣に腰掛けていたネウロは手にしたリップブラシを弄んだまま、不服そうに覗き込む。

「……そう強く押さえ付けるな。折角塗ったくってやった化けの皮が剥がれるだろうが」
「あのさ、もっと他に言い方は無い訳? ファンデとか、せめてお粉とか白粉とか……」
「貴様の場合はもはや特殊メイクの域であるからな……さて、続けるぞ。今度はせいぜい大人しくするが良い」
「むぅ−…ハイハイっ! じっとしてれば良いんでしょっ!?」

言いたい事は多々在ったけども、また、ぐっと唇を引き結び軽く身を乗り出す。

そんな、比較的素直な私の様子に満足そうに。再び細められた眼の色とか、こちらに延ばされる手が視界に入るのが何となく気恥ずかしく感じて。

横に泳がせた視線の先では、あかねちゃんが耳の上の毛束をくるんと丁寧に巻いてくれていて。
自分の、女の子にしてはちょっとばかし短く、扱いにくい癖っけの髪に、ちょっとだけ罪悪感めいた物を覚えた。


普段、学校に行く時にするような化粧なんて、探偵業務の寝不足と、誰かさんに与えられたストレスで出来た、隈やらにきびやらにコンシーラーを叩き込んで、パウダーのファンデを軽く乗せ、時間の有る時にマスカラを塗る位だ。

誰かにして貰う事なんて滅多に無いし、有っても大低、叶絵を筆頭とした女友達のおもちゃ代わりとして、される方もする方も、お互い笑いながら冗談半分にくらい、だ。

だから、この変な方向に凝り性の魔人が、ぺちぺちと、下地を馴染ませるのから始めて以外と丁寧に肌に触れるのも、
女の子と比べて断然大きく骨っぽい手や指も、
作業に集中しきった真面目で鋭い視線で時折、出来を確認する為か、必要以上に顔を近づけ覗き込んで来るのも。

何だかむずがゆくて、全部が全部、変な居心地の悪さに変わる。
言うならば初めて行った美容院のような?
ん―、それとはまた違ったような……。

「力を抜け」
「ふぎぃっ!!」

いきなり鼻を摘まれて、呼吸が詰まる。
と、いうか。口を閉じてるんだから息が吸える訳が……。

息苦しさに半分開いた唇の内側にサッとブラシを走らされる。
うむ、と満足そうに頷かれて開放された鼻先はジンジンして。
意識せずに荒くなった呼吸は、息を制されていただけでは無い気がするのが少し悔しい。
「元が元であるからに、まぁこんなものだろうな……。アカネ、そちらはどうだ?」

オッケー、とでもいう風に、毛先を丸めたあかねちゃんに、ひょいと手鏡を差し出されて、条件反射で覗き込む。

くるんと綺麗に巻かれた短い襟足に、いつものヘアピンの代わりに置かれた小さなリボンの付いたカチューシャ。
驚きで見開かれただけが理由でない、平静より大きさの増したような目も。
妙に朱くて、しっとりした光沢の唇も。
鏡の中で展開されている全てに強い違和感を覚えると同時、頬に僅かな熱が上る。

(ねぇ、どう?)

と、テーブルに鏡を伏せて毛先を捻るあかねちゃんに、ちょっとだけ、ぎこちない笑顔を返す。

「……やっぱ、人に何かして貰うのって、慣れないや」
「ほぉ、やはり貴様は根っからの奴隷という事か」
「あ−…。面倒だからいいよ、その結論、で…――」

言いながら、やや後ろに回していた首を戻して振り仰いだら、以外に顔が近くて、また跳ねる心臓。
いや、異常に近い距離はいつもの事なんだけど。鏡を見た――言うならば第三者から見た自分の顔を確認した直後だから、なんか、ちょっと。

漠然とそんな事を考えているうち、ふにっ、と唇に当たる感触。頭が正しい距離を認識し直す前に離れる。

あ、れ? こいつ今…何して――

「何……紅が少し濃く乗っていたのでな、拭っただけだ」

私の考えを読んだようにそう言って、自分の口端に残った朱い色を指先で拭う、その動作に、鈍い頭の中でやっと繋がる糸。

「う、ぁ……ッ!」

思わず自分の唇を拭おうと延ばした手を、包むように掴まれて引っ張られ、半ば強制的に立ち上がらされる。

「触るな。と言ったろうが」
「……う―」

不満を込めて見上げる形で睨んだ顔がミュールのせいでいつもより少し近い事とか、
春の温かい日に当たっていたせいで、僅かに汗ばんだ大腿にぺたりと張り付くキャミソールワンピの裏地とか。
今まで強いられていた緊張から解放された五感が、どうしても変な方向に向いて違和感ばかりを伝えて来るのが、着飾る事に慣れていない自分を嫌でも意識させて。それが、少しだけ情けない。

そして、そんな私を楽しそうに見下ろすこいつは、私が今そんな不安を抱えているかなんて――いや、恐らく抱えるのを見越して、服に靴、ついでに化粧品や小物まで、周到に用意したのだろう。

そう考えてしまったら、少しだけ腹立たしくて。
しゅるんと何時もの壁際に戻って手招きするように私を呼ぶあかねちゃんに従うまま、その手を振りほどいて駆け出した。

虚を衝かれたようにきょとん、とした表情がちらっと見えた気がしたけど、気のせいだろう。
……多分。
「……いくらドレスコードが有るからってもさ、ここまでする必要有るのかなぁ?」

最後の仕上げに、と髪に軽くスプレーをかけて、着せかけてくれたショールを整えるあかねちゃんに、声を潜めて聞いてみる。
どうせ、ネウロにもまんま筒抜けだろうけど、そんなの、今更気にしない。

あかねちゃんは一瞬だけ動きを止めて、クスクスと笑うように揺れる。
続いてPCの画面に軽快に打ち込まれる文字列。
(今日位は、いいんじゃないかな? 男の人から貰った物を、そのまま素直に受け取って喜んでも)

今日…?今日って何が有ったっけ? 誕生日……は、残念にも少し前に終わったし、特に記念日も思い当たらない。
(それにね――)

続いて、カタカタと打ち込まれる文字に、思案を止めて顔を上げる。
(ネウロさん、お洋服とか、結構楽しんで選んでた、よ?)

全部の文面を打ち終えて、私の反応を見るように、顔を覗き込んで揺れるあかねちゃん。
一緒になってゆらゆらと、毛先に結ばれた赤いビロードのリボンが、金魚の鰭のように揺れる。

全く……あかねちゃんまで何なのさ。
ていうか、今日に一体何が有る訳――

「さて、そろそろ行くぞ」
「グへっ!」

後ろから、くいとショールを引っ張られ、思い切り首が締まる。
軽く咳込みながら、背中でもたれ掛かるような体制見上げたネウロはいつもの尊大な様子で。
あ、でも。いつもみたいに頭を掴まないのは一応、こいつなりに気を使っているのかな?

そうして扉に向かい半ば引きずられながらも、毛先を振るあかねちゃんに軽く手を振り返す。

今日くらいは素直に感謝、か。


「あのさ、ネウロ」
「む、」

ドアノブに手をかけた魔人を見上げ、にっ、と笑ってみる。

「服とか、ありがとね!」

フン、とつまらなそうに鼻を鳴らすネウロ。
全くこっちを見ようとしない理由も、今日は素直に受け取って。単純に喜んでしまう事にしようか。
優しい友人の助言を信じて、さ。


今年のホワイトデーにblogに上げていた企画小説にちょっとの加筆と修正を施しました。
最近書いた中では、比較的違和感なく甘くできたので結構好きです。
 タイトルは今さっき。ホワイトデー=見返り=三倍のお返し(おめかし)=三倍(以上の)変化
……なんて。(失笑)


date:2007.03.14



Text by 烏(karasu)