日向の道の上


本当に思い出せないのは、何なんだろうか。


海から吹く潮の匂いを僅かに含んだ風に頼りなく揺らされる、ノースリーブの後ろ姿と細い二の腕。
すらりと伸びた華奢な項の上で広がるのは、水平線を煌めせる朝日の色にも似た、蜂蜜色の短い髪。

時折両腕を大きく広げて器用にバランスを取りながら、潮風による腐食が進んだ為か、道路と較べると大分深い鼠色をして所々が欠けたコンクリートの防波堤の上を歩く少女は、
その後ろを歩く笹塚が「危ないよ…」などと、小さな子供に向けるような忠告をした所できっと素直に聞き入れてくれはしないだろう。

それに、そうした言葉の響きは笹塚としても女子高生に向けて発するには些か照れ臭い物が有った。
なので、このまま大人しく現状維持に徹する事にしたのだった。

並んで歩いている訳ではいないが、あと少し腕を伸ばせばその細い身体を支える事が出来る、
そんな相変わらずの距離を保ったままで少女の後ろを付いて歩きながら、笹塚は強い潮の匂いとともに、再び肺一杯に紫煙を吸い込んだ。

途端、悩内に再生された1フレーズだけのメロディ。
確かに聞き覚えの有るソレを紫煙と共に吐き出そうとした瞬間、不意に続きが消えてしまい――半端に開けた口から零れたのは、

「あ−……」

という、1つの音になり損ねた至極曖昧であやふやな呟きだけだった。
「ん? どうかしたんですか?」

前へ踏み出す自身の爪先に注いでいた視線を上げて、こちらを振り返った弥子の肩の線。
それがふと、大きく傾いだ。

驚き、笹塚が咄嗟に腕を伸ばすより先に、スタン、と、ミュールの爪先がコンクリートを打つ音が道に沿い密集して立つ古めかしい家家を囲む塀に僅かに反響する。

流れるような動作で地面の上へと着地した弥子の、くるりとその身を反転させて真っ直ぐに此方を向き、続きを促すように首を傾げてみせる様子に誘われて。

気付けば気まずさをごまかす事も忘れ、感じたままの事実が口をついて出て来ていた。

「いやさ……口ずさもうとした歌の旋律が、途中で分からなくなっちゃって……」
「あっ、あ−! 何か分かりますその感じ! ちょっと気持ち悪いですよね―」
「ん、まぁね」
「ふふっ……笹塚さんでも、何かを忘れる事って有るんですね。何か以外だなぁ、記憶力とか無駄に良さそうなのに」

 

あぁでも、笹塚さんが普通に歌を歌うって事が何より一番以外だったかも。


微笑と共に小さく呟かれた一言。笹塚がそれに言葉を返すより早く、少女は再びくるりと身を反転させる。
 短い髪が項の上でふありと花のように広がって――軽快な一連の動作の後、彼女はまた笹塚に華奢な背中を向けていた。

「じゃ、行きましょ?」

首だけを僅かに傾けて此方を振り返った弥子は、笹塚の目に了解を見て取ると再び前を向き、軽快に歩き出した。

今度はちゃんと、ガサガサに乾き皹割れ、薄く色の褪せたコンクリートの道の上を。
機嫌良く、鼻歌を口ずさんで歩きながら時折テンポを調節するかのように、カツン、とヒールが小さく鳴る。

背中に組まれた細い両腕。海から吹く風によって簡単にかき消されてしまいそうな、それでいてしっかりとした歌声を響かせて。

  あやふやな記憶の底、いつだかの妹もこんな風に自分と歩いていた気がする。

今の彼女よりずっと幼かった頃の笹塚の半歩前を得意そうに前を向いて歩いていた、更に幼い妹の頼りない背中の朧げな記憶。

汗で日に焼けた背中にぺったりと張り付いていたワンピース。肩の上で切り揃えられていた髪だけが夏の温い微風に煽られていた。

実際にあった出来事なのかも怪しい、曖昧に着色された子供時代の記憶の破片は何故だか、今現在、彼の前を歩く少女にぴたりと重なるような気がする。

そのようにも思うのに。

何故だろうか。

風に遊ばれている、光りの加減で花のように鮮やかな蜂蜜色の髪よりも、その下の華奢で真っ白な項。

歩幅の狭い足先よりも、細い大腿に張り付いて揺れるスカートの裾。

彼女と歩くこの道中、そういった物ばかりが、妙に笹塚の視界に焼き付いてしまうのは。

「……俺も、もう年かな…」
「ん? 何か言いましたか?」
「や。独り言…」
「ふ、あははッ、今日は何だか笹塚さんの方が私より喋りますね! 何か、いつもと逆で変な感じ……」

再び振り返り、短い髪を掻き上げそう言う弥子の笑顔がまた強く、笹塚の記憶に焼き付いた。

――時刻はようやく昼の10時。
都心から大分離れた春の海、寂れた漁村を歩く二人の影は、温い地面に淡く落ちる。


BGM:「ココロノナイマチ」(ムック)

「くちずさむ歌の〜」から1番終わりまでの詞が頭の中に残っていて、そのイメージで。
笹塚さんの視点だとどうしても弥子ちゃんが、のっぺりとした良い子。になってしまいます。
時間と場所だけを切り取りたかった話なので。この前後や背景は、どうぞ好きなように想像してみて下さい。


date:2007.02.27



Text by 烏(karasu)