迷子たちの話


*いっそ潔い位の捏造設定が多量に有ります
*前半が微妙に虐待です。

――ねぇ、迎えに来て。


「弥子、ごめん、ね……あんたをぶたせて欲しい、の…」

ネウロが謎を解いて私たちの前から去って行った夜。二人きりになった居間で。
寝る為に二階へ上がろうとした私を呼び止めたお母さんはそう言った。
乾いた喉から無理やり搾り出したように苦しそうな――それでいて、どこかで感情の醒めた響きを持つ声で。

それを聞いた私は身を強張らせ、ついにその時が来た事を悟った。
恐る恐ると振り返り、心の動揺を隠して小さく頷いて。目に見える全てを惜しむように、ゆっくりと瞼を閉じた。
 今見えている、私に優しい暖かな世界とは、もう、これでお別れなんだと思って。

覚悟を決めて冷える指先の震えを押さえた。だってお母さんのその言葉。
私はその理由をちゃんと知っていたから。感情を――理解出来てしまったから。

後ろ手で冷たいドアノブを握る。
出て行こうと引いて、開けたままのドア。
背に射す廊下の明かりは、閉じた視界を赤く染めていた。
赤黒い視界。その中にうっすらと見える影は私に近づく。不安定に揺れながら。
ゆっくりと、確実に。
私との距離を、一歩一歩と確かめるように。

 もうすぐ、全部が消えて無くなるのだ。
 私を包んでくれた、優しい世界。
 対価無く与えられ続けていた愛情。
 お母さんの一撃をきっかけに、全部。
 ……償わされるのだ、今から。犯した罪を。与えた絶望を。
 私という、存在。それにかけられ続けた愛情をもって。

嫌だ、いや、イヤ、いやだ、っ!!

瞬間、叩かれるという事に対するものよりもっと大きい、得体の知れない恐怖がお腹からせり上がった。
そのまま喉にぶつかり、悲鳴となったそれを堪え、ぐっと歯を食いしばる。
逃げ出そうとする体を抑えるため、背中のドアノブにすがりつく。

強く、ぎゅうと握った金属の感触。熱が同化して指先がピリピリと痺れ始めた時。頬の皮膚に――空気の動きを感じた。
咄嗟に身体が強張り、喉が鳴った。

直後、ぺちん、という拍子抜けする位に軽い音とともに、頬にひやりと冷たい手の甲が、強く押し当てられた。
幼い頃、お迎えの度に繋いでくれたのと同じ、
熱を出した時、額の上に乗せられたのと同じ、

 爪の先までちゃんと手入れの行き届いた、だけど歳相応の感触を伴っていて、指先が少し冷たいお母さんの手。

暫くの後、うっすらと目を開ける。お母さんは笑っていた。
薄暗い部屋の中でもはっきり分かる位に大きな瞳を潤ませた、苦しそうな、泣き笑いの表情で。
「ゃぁ……こ。ごめんねヤコ……。もう、大丈夫だからね、っ……!」

お母さんはすりすりと私の頬を数度撫でた後、嗚咽を堪えてそう呟いた。
消え入るようなその響きに、篭るのは、苦痛と葛藤。

左の頬で震える手。
冷たいぬくもりがぎゅうと押し当てられたそこが、熱を帯びる。
私はそれに、そっと、自分の左手を重ねる。幼い頃に感じていた圧倒的な質量はもう無く、華奢で、私と殆ど変わらない大きさの手の甲。
それは強くなんて無い、ただの「女の人の手」だった。
「ごめ…なさ、い」

 あなたのだいじなひとをころしてしまってごめんなさい。
 なのにわたしはいきていてごめんなさい。
 どうしてもつぐなえなくてごめんなさい。
こどもで、どうしようもなくよわくて――ごめんなさい。

せり上がる吐息に乗せたその一言が、ちゃんと届いたかはわからない。
涙で滲んでぐねぐね歪んだ視界の中では、二人分の鳴咽だけが響いていた。

その後はソファに座って二人で泣いて。少し落ち着いてから、私は部屋に戻った。

涙が枯れるまで。嗚咽が止むまでのその間、お母さんはどこまでも私のお母さんだった。
震える背を摩り、ぎゅっと抱きしめてくれて。暖かいココアを入れてもくれた。

そうして結局最後まで、私に「最愛の人を殺された女性」にはなれなかった。

本当はあの時、言葉どおりに私を殴りつけたかったんだと思う。
殴って殴って、きっと私が泣いてわめいて蹲っても許せなくなって。
喉が枯れるまで罵って、力の限りに蹴飛ばして……殺してしまいたいとさえ思ったかもしれない。

 だってお父さんは、私がいるせいで死んだんだから。
 私の行動は、間接的に、お父さんを殺したんだから。

世間の優しい好奇心の中では「殺人鬼によって父親を失った可哀想な娘」でも、
他人の同情の視線や好奇の目は届かないし、入って来ない。

だから、純粋な被害者だけを四角く囲った家の中での私は「実の父親を無残な死に追いやった間接的な原因」なんだから。
純粋、に死者を悼み涙を流すという行為から、一番遠い存在――なんだから。

「ごめんなさい」が言えないままで凍り付いていたら、
冷たい手の温度が、私を戒めなかったのなら、
家族の中や自分の中で、私は一生、実の父親を殺した人殺し「桂木弥子」だった。

――私の親は、一人の人間でいるよりも子どもの親である事を選べた強い人だった。
それがどんなに幸運なことか、きっと私はこの時知るべきだったのだ。



***********


彼は、壊したかったのだと叫んだ。
耳が痛くなる位、ギュンと響く大きな音の中。
現実が欲しかったのだと、声の限りに。

いつもどおりの家への道を、心から、わくわくしながら歩いた、と。

 今日から全ては新しく始まるのだと。
 自分を拒絶し続けた架空の世界は消えるのだと。
 ゲームの対価でしか無かった存在の意義が。
 全部無くなって、もう一度真っ白から重ねられる。
 そうして全部、リセットされるのだと。
 変えられなかった虚構の世界が、「自分」という現実の力で。

叫んで叫んで引っ掻いて。だけど望んだ現実はいつまでもやって来なかった。
どうしても目が醒めない。不在者が増えただけで虚構が続く。

 この人には、自分をぶってくれる手が無かったのだ。
 悪夢からやさしく覚ましてくれる、声を、温もりをもたなかった。
 許してくれる人がいないから。
 裁いてくれる人がいないから。
 罪は罪のまま放置され、彼はずっと、実の親を殺した「人殺し」のまま生できてきたのだろう。
 それは私が居たのと同じような世界の話。なのに根本的に何かが違う。

彼の両親は、親である事を放棄した。
それはしようがない事だったのだろうし、今更言ってもどうにもならない。
それがどんなにか不幸な事だったかなんて、今の私にはきっと、どう頑張っても知る事が出来ないのだ。

それがとても悔しくて悲しくて、なのに涙は出て来ない。
彼は私のすぐ近くにいる。だけど凄く遠い。
こうして隣り合って立ち尽くす私達の間には、沢山の過去や経験の重なり。
そんな、名前付きの隔絶がある。

だけど今、この人の頬に、私の手は届く。
周囲の音が大きいから、どんなに叫んで喚いても、声はいつまでも届かないんだけれど。
ほんのいくつかの破片から生まれた共感。そこから派生した「理解」なんて錯覚を、押し付けることは出来ないのだけれど。

そっと、耳を塞いでいた手を外した。
車から放り出された時、転んだ拍子に擦りむいて血がにじみ、泥で汚れた掌。
マニキュアさえもろくに塗っていない、色気とは到底無縁な短い爪。
寒さと緊張のせいでちょっとだけ、指先が冷たい。
その手で、きゅっと一回拳を握り、もう一度ゆっくり、指を広げる。

非力で無力で小さくて。
今の無力な自分を、そのまま形に現したようなそれを、私は大きく振り上げた。
ゆっくりと目を瞑り、喉を鳴らして。覚悟を決めて。

私が許してあげられることは何も無い。
こんなの、エゴに付き動かされた一方的な戒めかもしれない。
いつだって、誰といても。無力な私には、権利なんて便利なものは用意されていないのだから。

だからこの手に対する反応は、痛みでも憎しみでも何でもいい。
ただ、あの日のお母さんの手のように、
痛くても苦しくても無力でも、心に、届く事だけを強く願って。



――さぁ、迷子を迎えに行こう。


date:2006.10.14



Text by 烏(karasu)