溺れる者は誰ぞ縋る


本誌162話時点での次回妄想の産物な小ネタ。
ヘタレ属性のネウロや若干Sっ気の強い弥子が苦手な方は注意。

溺れているのはさて、どちら?


すべきかしないべきか……。それが弥子にとって今一番の問題であった。

濡れた時滑らないようにと、わざと付けて作られている床のタイルの凹凸が、正座している膝に食い込んで地味に痛い。
自分達の様子を伺う周囲にまばらに居る人々が時折向ける、好奇と僅かな非難を織り交ぜた視線は、もっと痛い。

水着の、レースでボリュームをごまかした胸の下、不安に締め付けられる心臓を軽くさすりながら弥子の見下ろす、重さに若干痺れ始めて来た、
その細い大腿の上に頭を乗せ仰向けに横たえられた、ずぶ濡れの身体はやはりぴくりとも動かない。

珍しく手袋を取った力無く投げ出された細く骨っぽい指先と形良い爪を晒した両手の指先や、閉じられた瞼だけでなく、
水着になった事で曝したちょうど良く筋肉質な胸板さえ全く上下しないのだから、下手したら呼吸さえも停止しているようだ。

これが弥子を困らす為だけの演技だとすれば普段以上に素晴らしい出来だ。――本当に、演技であるならば。

何度目かになる逡巡に、弥子はきゅうと唇を噛みしめて眼を閉じた。
なぜなら、ネウロは「泳げない」という弥子への最初の自己申告の元にこうなったのだ。それも、弥子の行動のせいで。


*



事の起こりは、数刻前に遡る。

「我が輩、水泳というものを知らないのだ。だから貴様が教えてくれ」
「絶対やだ! それ位、知識を仕入て自分で練習すればいいじゃん……」
「む、我が輩がここまで頼んでも……だめか?」

都内某所のスポーツジム内、平日の昼間で人のまばらな屋内プール。
 事務所から引きずって来た弥子の襟首をつかんだままで受付を済ませ、中に入ったと思った途端に、女子用更衣室へとどこからか調達した水着とタオル一式と共に放り込まれ、渋々着替えてシャワーを浴び、合流したプールサイド。
弥子と同じく水着に着替え珍しく上半身を晒した魔人に露出の高い恰好で背中からぴっとりと濡れた肌と肌とが密着する距離で、逃げられぬようにか頭に顎を乗せ、のし掛かるように抱きすくめられた。

しかも、鎖骨の上に回って弥子の肩を抱くその左手の鋭く変形した爪が、着慣れない水着(しかもセパレート)の肩紐を人質に取り、
大腿に回った右手に、床からわずかにつま先が浮くような形に尻から脚を軽く掬い上げられて。
(断ったら……上下剥いて、水に投げ込む気だっ……!)

それが虐待の為の詭弁だと分かっていても、素直に水泳の先生を買って出るしかないではないか。

しかしそこは折れても弥子である。どうせ自分をからかい、羞恥を覚えさせる為の詭弁ならば遠慮はいらないと、
水に慣れさせたり何だりという、基本の手順を一切省いて、いきなり両手を引いて水に顔を付けるバタ足から始めさせてみたのである。

「良いか、絶対に離すなよ。もし途中に置き去りにしてみろ。その時は……」
「はいはい、分かった分かった。それじゃあ行くよぉ、ちゃんと水に顔付けてよね」
「むぅ……」

開き直って先生然と振る舞う弥子が、渋る魔人に掌を上にした両手を突き出し促すと、珍しく素直にその両手を差し出して来たた。

「そぉそ、そこでバタバタバタって……はいはい、じょ−ず、上手!」
「………」

天井に等間隔に並んだ蛍光灯の明かりが落ちる水面の下、上げられないその顔に浮かぶ表情は、果たして屈辱か嗜虐か。

華奢な少女が、細身とはいえ無駄に上背の有る大の男の、俯せで水面にだらんと伸びた身体を繋いだ両手で引いてよたよたと後ろ向きに歩く姿は、端から見ている人間からしたら、かなり奇妙な様子だったろう。

しかし当の弥子はといえば、嫌がれば嫌がる程にネウロの思う壷だろうし、ついでに、水面に沈む相手にこちらの顔は見えないのだからと、
周囲の視線や、温水より温い、繋いだ手の温度から意識を逸らすように、声だけは時折かけながら、天井に吊された三角の旗一群を見上げて視線をさ迷わせたり、
プールから上がった上がった後のおやつを思い浮かべてみたりと、かなりマイペースな牽引をくり返していた。

なので漸く異変に気づいたのは、足を止め、ふと見遣った横の上級者レーンの選手のスピードに、「凄いね!」と歓声を上げて自分の手元を見下ろした時だった。

相変わらずに顔を伏せたネウロからの返事がなく、どころか、水面から気泡さえ上がってこない。

「あれ…ネウ……ロ?」

その異様な状況に咄嗟に繋いだ手を強く握る。
自分より一回り以上大きな手は全く力を入れて来ない。指先さえ動かない。驚きに力の抜けた弥子の手のひらの上から、滑り落ちそうになった手を慌てて掴んだ。

「ちょっ……ネウロ、冗談でしょ!?」

水面を見下ろし呟くが、その下の影からは、やはり返事も反応もない。
周囲の水音と喧騒が一気に遠のき、水のせいだけでない冷たさが弥子の背筋をはいあがりしばしの硬直。そして。
「……ッ!」

自分が、実は泳げるだろうと思い込んでいたこの魔人に、息つぎのしかたを全く教えていなかった事を思い出したのだ。

その後の弥子の行動は早かった。
肩を貸すフリをして動かないネウロをプールサイドに押し上げて隅の方へと引きずって行き、力無いその頭を自分の膝に乗せ、端からは『遊びすぎて寝ている男を介抱してる』様子に見えるように抱えた。

そうして急ぎ、心音と呼吸の有無を確認し、とりあえず一息ついた所で冒頭の状況に至る。
胸に耳を乗せれば鼓動は聞こえるし、指示してない息つぎをしなかったのと同様、水を飲まないようにするには息を吐けばいいというアドバイスを忠実に守っていたらしく、どうやら水を飲んだ様子はない。

しかし流石にいい加減、怪しんだ人によって、救急なりに通報されてもおかしくない時間が経っている。
魔人の肺の作りや、果たしてどこまで呼吸を止められるかは分からないが、普通の人間なら、確実に死んでしまってもおかしくない時間が。

では、人に近い身体になった弱体化の進んだ魔人ならどうなるだろうか?

わいた思考に、膝の上に置かれた頭に伸ばし、濡れて冷たい金色の毛を撫で、普段以上に色のない頬に落ちた黒の前髪を掬っていた弥子の手が止まった。

背中に抱きついて来たあの時は、どうにかしようとネウロなりに必死だったのではないか。
弥子の手首を掴むようにして重ねられた両手は、プールの底を蹴った時、僅かに震えていたのではないか。
引っ張って歩いている時だって、もしかして何かを伝えるように何度も握って来ていたのかも知れない事を否定できない。

それに、もしも、もしもこのまま、死んでしまったら?
 そうした妄想にも近い想像を、まさかと一笑に伏して振り切る事は、そうした『まさか』を目の当たりにしたばかりの、今の弥子には到底出来なかった。

冷たい額に指を置いたまま、見下ろす身体はやはりぴくりともしない。
翡翠の眼をしっかりと閉じ、色のない唇をうっすらと開いたまま、まるで眠っているように。
――もう、一生眼を覚まさないかのように。

そこまで考え、やっと、弥子の覚悟は決まった。
強く眼を閉じてスゥと大きく息を吸い、その細い頤に指を当てて僅かに反らさせ、真下へ一気に顔を伏せ、冷えた唇に唇を寄せた。


以上、非常に回りくどい人工呼吸の図。
某所某スレの次回ネウヤコ予想で、「ネウロが無理矢理溺れさせた弥子を助ける(意訳)」というのを見て、
「それが逆だったら美味しいんではないか!?」という妄想の勢いとパッションだけで一気に書き上げました。


date:2008.06.28



Text by 烏(karasu)