逃げ場無く、闇


某所に投下し損ねた物。

――敵う訳が、無い。


夕日が沈んで行く。
最後の閃光で校庭をえんじ色に染め、向かいに並ぶ無数の硝子窓に反射して、何もかもに目隠しをしながら。

そうしてえんじと黒が段々と空間を支配し、塗り潰して行って。

窓の向こうに何が有るのか、このL字型の箱の中に誰が潜んでいるのかが、完全に解らなくなって行く。

そうなれば、例え真後ろに誰が立とうが、その『誰か』によって背中に刃物を突き付けようが、すぐには分からない。

――真っ暗になったら、もう。



*

迫り来る夕闇に喚起された想像に弥子は思わず身を震わせた。
背を伝い落ちる汗の感触の気持ち悪さに、咄嗟に肘を引く。
その肘が、背後に立て掛けられていた箒の柄に軽く当たった。

  カンッ。

その僅かな音は、周囲の金属に反響して存外大きく響いた。
「ぁ……っッ」

思わず漏れそうになった悲鳴を両手で口を塞ぎ堪える。

残響が完全に消え、後に残ったのは相変わらずの静寂と、遮られ、限られた視界から見えるえんじ色の世界。
整然と並べられた机と椅子、鋭い夕日に塗り潰された窓の延々と並ぶ。
「は、ぁ−…っ!」

緊張が解け、思わず漏れた溜息を再び両手で押さえて飲み込む。

外の様子を確認する為ずっと、金属の扉に押し付けていた額を漸く離し、掃除用具の乱雑に詰められたロッカーの壁に身体を預けてずるずると、崩れるように座り込んだ。

一人がやっと納まる狭い空間で両膝を抱えて踞る。
足元では、先程まで自分が覗いていた隙間から射し込む光の中を反射し、埃が舞っていた。

何となく、掌までセーターの袖に引き込んだ右手をその中に翳してみる。段々と色彩の薄まっていく光を捉らえようとするかに延ばした指先は空を切る。何度も何度も。

何かを確認するかのようにそれを繰り返した後、弥子はようやく右手を下ろした。

強く、腹に押し付けるように両膝を抱え直して瞼を閉じる。
周囲が静かな分、頭はフルに働いて。余計な――明確な答えの無い自問自答ばかりが頭を過ぎる。

こんな逃げ場の無い場所に、飛び込んでしまったのは間違いだったろうか?

しかし、体育館のように用途の限られた場所にあのまま篭り続けていたなら、やがていつかは同じ状況になった筈だ。
同様に追い込まれるのなら、相手の隙をつき逃げられる可能性の有る、校舎のように広い場所の方がずっといい。

それに、特別授業用の教室は隠れ場所が多い分、凶器として使用出来る物が多いし、使い方によっては、簡単に人を殺せるような代物だって沢山、有るから――

縋るようにスカートを握っていた手に思わず力が篭った。
今しがた、脳を過ぎった最悪の想像を振り切る為にゆっくりと呼吸を重ねる。

ほぅら、やっぱり普通の教室が一番安全だ。

出入口が多くて、どこも同じ見た目をしていて。

虱潰しに全部の教室を回って行っても、カンを頼りに適当に探して行ったって、そう簡単に見つかる訳が無――

カツン、

微かに聞こえた音に、弥子はびくりと肩を震わせた。


*



カツン、

そっと目を開け、息を殺し、続いて聞こえた音に意識を集中する。

ガラッ、

……どこかで、引き戸の開いた音。

反響の余韻が消え、しばしの静寂。緊張に喉がヒリつき、ジンジンと耳鳴りがする。

こくん、唾液を飲み下した瞬間、ガシャンッ、と廊下全体にガラスの割れる音が大きく響いた。
一瞬だけ、シンと張り詰めた空間に、カツ、先程より少し大きな音。
ガララッ、またどこかの引き戸が開く。

この階に、教室は4つ。
今、弥子の隠れているこの場所は、廊下の両端に2つ有る階段の横――この階の、一番端に位置している。

今までの音は反対側から続けて二回。段々と、こちらに近づいている。

次に別の教室に入った時に走り出せば……!

駄目だ。
そんな事をしても、体力の差で簡単に捕まってしまう。

  ガシャン!また空気が震える。
  カツ、ガラッ……。   はぁ、はっ……。

自身の呼吸が妙に大きく聞こえる。耳元で鳴る心臓が煩い。視界は暗く狭まり、前が見えない。
外が見えないという事で、余計に恐怖を煽られる。
お守りのように両手の中に握り込んだ携帯。力を入れすぎて指の感覚がもう無い。

ガシャン、カツ。……ガラッ。

ぐぅっ、と喉が鳴りそうになる。周囲の空気の動く気配がし、音が入って来る。

カツン。カツ……。

脳裏に、先程頭に焼き付けた教室全体の光景が広がる。
カツ、コツ、カタン……。

入って来て、教卓の下を覗いて捜している。
……ガシャァン!!

机が一気に薙倒された。恐らく、見つからなかった腹いせで。一番前の列。
こちらに向かって一歩ずつ移動しながら、一つずつ蹴り倒して行く。

カツ、ガンっ!ガシャァん!!

こうしてわざわざ大袈裟な音を立てるのは、怖がらせ、炙り出すつもりだからだろう。
声を出したり、音を立てたらもう、終わり……だ。
気付かれたら。金属の檻と同じのここには、逃げ場が無い。から。

頭ではそう分かっているのに、呼吸は荒くなり、身体は際限無く震える。
酸素が、どんどん薄くなっていく。
なのに、生きる音だけは恐怖に煽られて大きくなる。死にたくないというように。

今までよりも更に強くなった閉塞感に、縋るように携帯を握りしめた時――こちらに向かっていた、破壊音が、消えた。

ぐっ、と更に詰まりかけた呼吸。破裂しそうに脈打つ心臓。
……視線を感じる。きっと、こっちを見ている。

血のように赤い夕焼けの下、振り上げた腕をそのままに。
視界を遮る金属の扉などものともせずに、無様に怯える弥子を観察するように、ただじっと。

極度の緊張に、強い吐き気が込み上げて来た。

カツン、

近付く足音。こちらに向かい、追い詰めるように一歩ずつ。

 頭の中に再生される幻影は、笑っている。
 口端を酷薄につりあげ、狩りの余韻を楽しむように。
 獲物を追い詰め切って、嬉しそうに。

追いつめられらた弥子には、終わりを意識し震える以外に、選択できる道はない。

カツン、カツ、カッ……。

突然、音が向きを変えて遠ざかった。
カ…ン、カッ……。

教室を出て、廊下を歩き、階段の方に遠ざかる。

まるで今までの軌道を逆回しに再生するかのように。
カ…ッ…ツ……――

やがて何も聞こえなくなり、残ったは再びの静寂。
それでも弥子は、暫く立ち上がるどころか携帯を握った掌と、膝に回した腕の力を解くことさえ出来なかった。
「はっ、ぁ……」

一つ呼吸をしてみると、金縛りから解けたかのように全身が弛緩した。

膝で這うように身を乗り出して、そっと、扉の隙間から外を除いてみる。
夕闇の中、机と椅子の散乱した教室に人影は無い。

前屈みに寄り掛かった体重で扉が開き、不安定な体制でもたれていた弥子は大きくバランスを崩し――ぺたり、と冷えた床に両手をついた。

呆然と見下ろすのは、滑らかに磨かれた白いリノリウム。
暗く景色を反射するそこに映っているのは、血の気が引き、笑える程に蒼白な色をした、自分自身の顔だった。
大きく見開かれた、うっすらと涙の滲んだ瞳、噛み締めていたせいで僅かに色の褪せた口唇、泣き笑いの表情。

それを視覚で認識した途端、膝から完全に力が抜け――弥子はぺたりと、その場に座り込んだ。
「ぁ、は……ハハハッ!」

乾いた喉から思わず零れた失笑につられ、どこまでも可笑しさが込み上げて来る。

 そうだ、いっその事笑い飛ばしてしまおう。さっきまでの恐怖を、情けなく怯え切っていた自分を。

抑えた反動で振り切れ、麻痺し始めた感情でそう決めて、弛緩し切った笑顔で天井を仰いだ。
見上げたロッカーの淵から逆さに顔を覗かせて口を歪めニヤリ、笑う男と目が…合った。


*

「さて、結果は僕の勝ちですね。……先生?」

ロッカーの上からから下りたネウロは、パンと手袋の埃を払いながら、無邪気な笑顔で自身の足元に未だ踞る弥子を見下ろし言った。
「……………」

先ほどのショックから漸く立ち直って身を起こし――しかしまだ、完全に立ち上がれる程には回復していない弥子は、座り込んだままで見下ろす男から視線を反らす。

心臓は、恐怖の余韻で未だドクドクと激しく鳴っていた。

全く、手の込んだ事しやがって! ていうかこいつ、この身長であんな狭い所一体どうやって納まってたってのよっ!? 猫か何かじゃあるまいし。

ぶつぶつと呪詛の吐き続ける弥子に、ネウロは屈み込んで視線を合わせてきた。
「こちらのルールに従うのならば、次は先生が鬼ですが……どうします?  もう一勝負、やりますか?」

期待の入り交じった無邪気な笑みに、弥子の何かが遂にぶつりと切れた。
「絶ええぇっ対に嫌っ! だって、私は元々やりたく無かったのに、あんたが教えてくれって言って無理矢理っ……ってか、リアルな命のやり取りが含まれてる時点で、もうコレ『かくれんぼ』なんて生易しいモンじゃないからっ!!」<

今更ながら押し寄せた混乱と怒りに任せ、一気にまくし立てる弥子に対し、あくまで助手の態度を崩さないままで、ネウロはきょとんと首を傾げる。
「えぇ――、この前観た映画でやっていた『かくれんぼ』というのははこんな感じでしたよ。なので、てっきりコレが正しいのだと……」

ある意味では自然すぎる程のわざとらしさに、弥子は肩から一気に力が抜けるのを感じた。自然と口から漏れる溜息。
「……それってさぁ、もしかしなくともホラー映画でしょ? しかも結構B級な方面の」
「……まぁ、な」

此方の反応を見越していたかのようにがらりと急変した横柄な態度に、弥子の中で芽生えていた予感は確信へと変化した。

やっぱりこいつ、自分の知識が間違ってるの知っててやってたんだ……。

恐らく、ネウロがこの小学校付近で多発していた通り魔事件にわざわざ興味を持ち始めたのも、時間と労力の無駄を嫌うこの魔人にしては珍しい「一度現場を確認しておきたい」という発言も。

きっと全ては綿密に練られたであろう計算の一旦に過ぎなかったのだろう。
「無人の校舎」という、ネウロの望む形式の『かくれんぼ』を行うのに最も適したフィールドに、自然と弥子を引っ張り込む為の。
「……あぁっ、何か最近幼い頃の思い出が、どんどんあんたに汚されていってる気がするよ……」

魔界流の「花一文目」はパーツ単位での等価交換なんだとか、「けいどろ」には特例で射殺許可が下りる時が有るのだとか、今までに事あるごとに吹き込まれたろくでもない知識を思いだし、弥子は更に泣きたい気分になった。

ネウロはふむ、と一つ頷いた後にしばし考える素振りを見せ、やがて独り言のように小さく呟いた。
「……しかしな、貴様も悪いのだ…」
「はぁっ! 何がっ!?」

非なんて有るものか! 絶対誰が見たって、こっちが百パーセントの被害者だっつ―の。
しかも、あとちょっと間違えていたら確実に、物言わぬ死体へとなり下がっていた所だったってのに。

理不尽な発言による怒りに強く唇を噛み締めて。顔を上げた弥子の視線を先ほどより更に近い位置で捉え――ゆるり、細められる翠色。
「……当初はな、さっさと貴様を見付けて鬼を押し付け、適当な所で我輩は帰るつもりだったのだ。勿論、不審者がいると警備会社なりに通報してからだが……」
「何、さらっと外道な発言かましてくれちゃってるのよ……」
「しかしな…貴様が無い知恵を絞って逃げ惑い、縮こまって怯える様を見て、我が輩、変わったのだ」

どれもこれも傑作だった。そう言ってネウロは喉を鳴らしくつくつと愉快そうに笑う。
「愉しくて、つい我を忘れて夢中になってしまった」

恍惚の表情を浮かべてくれちゃってるんじゃねぇよ、このドSが!

こみ上げる情けなさと悔しさの余りに両の拳を握りしめ。そんな事を考えた矢先、弥子はネウロの示す言葉の示唆する所に気付き、声を荒げる。
「って……ちょっと待って! って事はさはあんた、最初っから、私がどこ隠れているか――」
「勿論知っていたが?」

あくまでも、しれっと言う。

と、いうことは。

体育倉庫でマットの影に隠れていた時、ふらりとやってきたネウロが、足元に落ちていた金属バットをおもむろに拾い上げ、
弥子の隠れていたのとは別の束に向かい、魔人の持ち得る力でフルスイングをかまし、ふん、と鼻を鳴らして出て行ったのも、

その後、黒い厚手の布をかけ、舞台の隅に置かれていたグランドピアノの足元に無理矢理潜り込んでいた時に、そのまぢかに紐で束ねられていた、舞台用の幕らしきビロードカーテンを鋭い爪で原形を留めない位まで引き裂き、
最後には回し蹴りまでかまして床に叩き落とした挙げ句に、「ここにもいないか……」 などと溜息混じりに呟いたのも。
「……全部が全部、分かってやってた、の?」

そんな事、わざわざこうして聞くまでもない。
猫のように眇められた瞳と、三角に歪んだ口から覗く牙が肯定の意を示している。
「おかげで、本気で楽しめただろ?」
「……おかげで、命の大切さを身にしみて実感出来たよ!! ……もういい。あんたなんか知らないっ! 帰るっ!!」

勢いに任せ立ち上がろうと床に強く両手を付き、弥子は青ざめた。
「う…んんっ、あれぇ、何っ、で……?」

両手に体重をかけることで身体を少し浮かせても、すぐにまた、ぺたりとへたり込んでしまう。
焦り、ぐいぐい何度も床を押してみるも、下半身には全く力が入らない。
「どうした? まさか、この程度の恐怖で腰が抜けたのか?」
「煩いっ! そんな訳っ……う、んんっ、くはぁ……!」

体重を支えられなくなった両腕が震え、とうとう力がぬけた。床に倒れ込む瞬間、ぐいと襟首を捕まれて身体を支えられ――そのまま、子猫を扱うかののように吊り上げられて、ひょいと肩に担がれた。
「全く……先生は本当に、何から何まで手間がかかる」
「てかさ、こうなったの、元々…誰の、せいよ……」

抵抗する気力も失せ、ケホケホと咳込む弥子の背を摩り、ネウロは満足気に笑った。

その後、この学校の生徒の間で「女の死体を担ぐ男」の怪談がまことしやかに囁かれることになる事を二人は知る由も無い。


 弥子ちゃん支援、第2弾!(またの名を出し損ね)。そして一応、「ごっこ遊び」シリーズ。
ヒロインが最も輝くのはホラーだろうと、勝手に勘違いした結果の産物。
推敲等の関係で後に回していたら、出す前に企画自体が終わってしまいました…。
 タイトルと煽り(?)にB級学園ホラーっぽさを演出した…つもり。
……その結果、擬音表現でしか緊張感を出せない(しかもあまり出せて無い)という、自分のマズさを再確認orz


date:2007.02.17



Text by 烏(karasu)