先生と僕


チャラい生徒ネウロと、新人国語教師弥子のパラレル。
ちょっとお色気風味。とりあえず下品

1、先生のイメチェン


「みんな座って。じゃ、授業始めるよー」

 本鈴と同時に、ガラリとガラス戸を引いて彼女はいつもの通り教室に現れた。
 途端、彼ら生徒の目は彼女――現国担当の女教師、桂木弥子へと向かい、そして、向かった視線の殆ど全てがそのまま釘付けとなった。
 いや、正確には、彼女自身というよりも、まず最初に、上靴代わりのサンダルから延びるすらっとした脚に、だ。
 何故なら、彼女がこのクラスの担当となってから数日、今までその脚を人目に晒した事がなかったからだ。
 一割は物珍しさ故に、残り殆どは、その本能故に。
 なので、注視せざるを得なくなった有象無象の視線の八割近くが、その黒タイツに包まれた二対の軌跡を追いながらも、上へ上へと移動することは、全く仕方のないことだろう。
 人類の種類の内半分、このクラスの全てを占める、男という性にカテゴライズされる者にとっては。
 ――故に、有象無象の中の一人、脳噛ネウロは静観を続けることにした。
 椅子の背にだらしなく凭れかかり、腹の上に組んだ手を置いた、いつものやる気の無く気だるい風の振る舞いのままで。

 丸い膝の皿に突き当たった目線は、そこから腰の曲線にフィットした、グレーのタイトスカートの逆三角形のラインを。
 上半身にフィットした白いブラウスは長袖ながら、肉が薄くも女性らしく丸い肩と、少ないが確実にある二つの起伏をなぞりあげる。
 そんな浅ましく飢えた我々、有象無象の男どもは。

「じゃ、出席取るよー」

 その声にハッとし、第一ボタンが外されたスキッパーブラウスの襟元から覗く鎖骨の白さから顔を上げた。
 それが特にあからさまだった隣の一人に、教師に見えぬ角度で冷笑を浴びせた時。
 教師は、既に教壇に向かい、出席簿を広げた教壇に両手を置き、軽く首を傾げて我々を見回していた。
 やや高い位置にある教壇に突いた両手は、身長が足りずつま先立ちになっている分の体重がプラスされてか、細い二の腕が時折ぷるぷると震えている。
 そのくせ、薄桃色の唇は授業を持って数日とは思えない程に落ち着いた笑みを浮かべ、赤いフレームの眼鏡の下の栗色の瞳の色も穏やかだ。
 しかし、そうした所に年上の余裕を滲ませながらも、何処か張り切った様子に力の入った肩。
 我々の側の幼なさと、指導者側の大人らしさを斑に混ぜ合わせたようなその所作自体は三日前と同じ。
 全てが全て、この教師に最後にあった、金曜日の五限眼と全く変わらない。
 ただ、その時は膝下のフレアスカートにベストと柔らかな白ブラウスだった服装が、膝上のタイトスカートと黒ブラウスになったという変化はあるが。
 それによって、身体のラインがはっきりと出た、活動的な装いになった。ただそれだけのこと。
 言うならば我々の私服が制服になっただけ。ただそれだけ。なのに。

「――くん」

 未だぎこちなく、だが、ゆっくりと、ちゃんと全員と目を合わせて呼ばれる名前の響き。

「はい、今日もいいお返事ありがとう」

 名を呼ぶ度に生徒のソレと合わせられ、無意識の癖なのか、こっくりと、返事に頷く度に伏せられる、赤いフレームの奥の胡桃色の瞳。

「今日は、ちゃんと授業聞いてよね」

 同時に、全員に掛けられる、ちゃんと個々を見てバリエーションを持たせた一言。
 それさえも、何故、昨日と違った物のように見えるのだろうか。

 などと、気づけば頬杖をついて教卓を見上げて思索していた自事にネウロが気づいたのは、その焦点がじっとこちらに合った瞬間だった。
 何故だか、居たたまれなくなり、ふいと窓の外に視線を逃がす。

「――くんは……あれ、どうしたの? 何か顔赤いよ?」
「な、何でもないです!」

 だが、呼ばれて立ち上がったの隣の、先ほどの間抜けだった。
 それに、ほっと内心で胸をなで下ろすと同時に、この動揺とも混乱とも興奮とも付かない物を抱いているのが自分だけではないことに気づいた。
 意識して見回してみれば、いつぎなく、教室中の空気がが僅かに浮ついているように感じる。
 不本意ながら、チラチラと貧相な二の腕を晒す目の前の教師に集中していた為、に全く気づかなかったが。
 全くもって……不本意ながら。

「もーっ。静かにしてよ。――君」
「はーい!」

 ほんの一時呆然とするもの、ニヤニヤと下種に教卓を見上げる者と様々だが。
 男ばかり二十人近く集まったこのクラスに、均等に、波紋を広げるよう広がっているようだ。
 ザワザワと交わされる声の静かなさざ波に乗って広がっていく動揺の混じった興奮。
 自他ともに認める感情に疎い自分でさえ手に取るように容易に分かるその波紋が、何故か腹立たしく疎ましい。
 後でどさくさに見せてヘッドロックでも掛けてやろうか……そう思っていたせいで。

「じゃ次、脳噛君。そろそろ、ちゃんと座ってちょうだい」
「……はい」

 自分の名前が呼ばれてもやや反応が遅れ、更に、咄嗟に首を教師の逆側に曲げ、瞑目してしまった。
 彼女が恐らく、生徒と目線の合わなかったことにやや寂しげに顔を伏せたことだろうと知りながら。
 最後の生徒の名前が呼ばれたのを聞き、椅子に深く座り直し、目を開ける。

「えぇと……じゃ、今日は全員出席かな?」

 おや。昨日は静かに閉じた出席簿を、今日はバタンと大げさに閉じた。
 恐らく、同僚のベテラン教師やらにメリハリを付ける為になどと言って指導されたのだろう。
 お茶など飲みながら、自慢げに話されている姿が目に浮かぶようだ。
 ネウロは、入学以来貫いている「些かラフな格好」で欠いた分を帳消しにする為の点数稼ぎによく職員室に顔を出す。
 そしてその度に目で追えば、この桂木弥子という教師は、大抵他の教師とお茶をしていたり説教を受けていたりする。
 昨今事情に漏れず、教師の平均年齢が高いこの職場に於いて、久々の新卒教師は教え子も同然のようだ。
 まぁ、中にはそれ以上を求める様子の者も何人か居る様子だが……。

「ねー、桂木先生イメチェン? もしかして彼氏でもできた?」

 出席簿が閉じられると同時、タイミングを計ったようにすかさずそう聞く生徒が居た。
 最前列に座すそいつは、机に肘をついてぐいと身を乗り出し、ニヤニヤと教卓を見上げている。

「そうねぇ……」

 何故そいつが立ち上がらず、且つわざわざそんな体制を取ったのか、この場のほとんどは即座に気づいた。

「余り話したくないんだけど……言わなきゃだめ?」

 そして、唯一人気づかない女教師は相手の思惑通り。
 相手のその姿勢に合わせ、両肘を軸にぐっと教壇から身を乗り出して応えた。
 こら、この豆腐教師。何だその無防備で怠惰な応対は。立て、せめて教壇を回り込め馬鹿者が。
 開襟のシャツでその角度では確実に見えるだろうが。着なれない物をわざわざ着るからだ。
 おぉとかはぁとか周囲で漏れている声に気付け。自分がどんな目で見られてるか自覚しろ。

「えー、何々? せんせってばナニもったいぶってんの?」

 ほら、次にはわざと顎を上げたぞ。その内側の物をのぞき込まれているのに気付け早く。

「なぁ、アンタも知りたいよなー?」
「……おう」

 おい、隣の奴まで加わったぞ。いい加減にしろ、この淫乱教師。わかった、実はわざとやっているのだろう。
 色気が無いとか言われた事を根に持ったりしているんだろう。
 わかったぞ、そうやって、生徒を弄んで家で楽しんでいるのだろう、このアバズレ崩れが。
 その手に乗るか。一度痛い目でも見るがよい。

「ちゃんと座ったら答えたげてもいいよ。あと、今更は余計ね」
「あーい……ちぇっ、桂木せんせーったらつまんねーの。俺は好きだけど」
「はいはい、つまんなくて結構です。あと、一応ありがと」

 クスクスと笑いながら、相手が座ったのを確認し、教師もぐっと身を起こし、黒板の方へと一歩下がる。
 変な体重の掛け方をして捻ったのか、さりげなく片腕をさすっている。
 全く……高さが足りないなら教壇など物を置く用途以外に使う必要などないというのに。
 それでも、わざわざそこまでして生徒に向かう所が彼女らしい。
 と、やや口元の緩みそうになったところを袖口で押さえた所で、彼女は小さく咳払いをし、照れた様子でブラウスの袖を引っ張った。

「余り誉められた話じゃないんだけどさ……」

 まとめれば、先週までのあの野暮ったい格好を、やい色気が無いの、子どもっぽいのと生徒に囃し立てられたのがきっかけなのだという。
 ふむ、なるほど!
 こ度の戦犯はそいつらか。一体どこのどいつだ。後で制裁でも加えてやらねば。
 あぁ、そういえば、このクラスで同じ話題が盛り上がった時、陰で煽り立てたのは我が輩だった。
 クラス一のお調子者にさりげなくタイミングを指示し、どさくさに紛れて「貧乳」の手拍子まで入れた気がする。
 いや、善良な自分を仲間に引き込んだ奴が悪い。というか、他のクラスの奴が更に苛烈な事をやったに違いない
 仕方ない、後で制裁を加えに――。

「まぁ、それはきっかけの一つで、学年主任に、ならスーツを着なさいって言われたから、ちょうどいいからと思って」

 溜息と共にはぁと肩を落としたその姿に既視感を覚えると共に、思い当たる事があった。
 確か先週の放課後、学年主任のあのチビ眼鏡に何やらどやされながら、こんな風に肩を落としていた。
 その、普段はこちらに隙を見せぬようにと凛と張った背中の丸まった小ささが面白くてそのまま静観したが……。
 これなら、何かしら理由を付けて逃がしてやるべきだったな。

「でもさー、何か所々せんせのセンスじゃない気がするんだけど……」
「あぁ、それは友達に選んで貰ったから。リクルートスーツでいいって言ったのに、何か張り切っちゃって……ストッキングは、勝手にタイツにしちゃったけど」

 と、はにかみながら、黒いタイツの膝元など、ぱちんと引っ張ってみせる。
 やや薄くなったタイツはうっすらと内側の白い大腿を映し、再び細いシルエットの形に戻る。
 ――だから、それが一々いけないのだと……もういい、心の中とはいえ、突っ込む事にさえもう疲れた。

「私のことはもーいいでしょっ。それより、はい授業始めっ」

 そうして、力無く頭を降る我が輩と好奇の視線を注ぐその他の前で、現国教師は板書を始めるのであった。
 こらこらっ、いくら縦書きがデフォとはいえ、背が足りないのに何で黒板の上から板書しようとするのだ。
 見えるだろう馬鹿教師め。

2、先生と服装


 
 からかいにムキになり、背伸びした結果だろうと思われた、教師桂木弥子の、ストイックでありながら妙に身体のラインを強調したスーツ姿。
 彼女のその格好は、四日目を迎えていた。
 どうせ、明日か明後日には元に戻ることだろうという、彼女をナメている生徒も、彼女を教え子のように扱う教師らの予想を裏切って。

「ふぅん、そんな事思われてたんだ……」

 その四日目の放課後、現国が最後の授業だった為、教室の整備に勤しむ教師は窓枠に手を掛け、がくりと肩を落とした。

「まぁまさか、先生のような方が、男の目を気になさるとは以外でしたけどね」

 そうして気を取り直した様子でカーテンを引いた、黒いブラウスからも分かるそのすらりとした背中に、ネウロは最後にそう付け加えた。
 こちらとしては、似合ってないのでやめろと、遠回しに言ったつもりなのだが。

「だってさ、慣れたらこっちの方が楽なんだもん。私からしたら、あっちのがよっぽど背伸びだよ!」

 夕日の色を映し出した西日を真っ白なカーテンで遮った教師は、くいっとカーテンの端を握ったまま、教室の中央に座すこちらを振って、事も無げにそう言ってのけた。

「それに、こういう動きやすい方が私らしいし」
「まぁ……確かに……」

 薄い茜色に染まったカーテンを、後ろ手に掴んでたぐり寄せ、ちろりと赤い舌を出して見せる。
 他の人間なら作意的にさえ見えるそうした仕草も、この教師に於いては、素でやっているのだろうと分かる。
 分かっているのに、こちらの気を引こうとあざとく媚びを売られるよりも何故か腹立たしい。

「あのお嬢様風のビジネスカジュアルは、服に着られてる感じでしたもんね」

 そう言い、わざとらしく溜息を付くと、教師はむっと頬をふくらませ、ボリュームの足りないラインを露わにしたタイトスカートの腰に両手を当てた。

「ふーんだ、ネウロ君にだけは服装のこと言われたくないよっ!」

 無意識にか、明らかに上背のあるこちらより自分を大きく見せようと懸命に背を伸ばす姿がいじましい。

「確かに僕は、服装検査の検査違反の常連ですからね」
「ったく、ろくに検査もされずに顔パスで捕まる生徒なんて初めて見たよ……あ、誉めてないから!」

 いくら張っても、全く張らない胸元からふいと目を逸らすと、相手は一瞬面食らった様子を見せたものの、またいつもの調子に戻り、憮然とした表情を作る。

「……それに、机に座っちゃだめって前も言ったでしょ?」
「はいはい……あ、先生も、窓枠が痛むので寄りかかるのやめた方がいいですよ?」
「うーっ……あぁ言えばこう言う……」

 腰を預けていた机から離れてリノリウムの床に直立してそう言うと、教師はしぶしぶといった風に窓から離れ、とてとてと机の間をこちらに歩み寄った。
 ネウロの正面に回り込んだ身体は、上履き用のサンダル履き、しかも教壇から降りている状態では、結構な身長差がある。
 丁度、見ているこちら首が疲れそうな角度で無理矢理見上げてくる頭のてっぺんが顎に届くくらい。
 カーテンの隙間から射す茜色の光線に、深紅のフレームの縁が火を灯したように赤く染まる。
 このままこちらの顎先を見上げているのは辛かろうと、やや顎を引けば、薄い胸の形を浮かばせた黒いシャツの合わせ目と白い項とのコントラストが目に入り、咄嗟に窓に目線を逃がす。

「桂木先生」
「ん?」

 うっかり、その交差点まで視線を落としそうになったのは年齢による性というものなので見逃してほしい所だ。

「お互い、余り服装のことには振れないことにしませんか?」
「あー。うん、そうだね……」

 あからさまに逸らされた視線に何を思ったか――恐らく、こちらの痛い所を突いてしまったとでも勝手に思ったのだろうが。
 教師は曖昧な相づちと共に頷き、ふいっと気まずげに目を伏せた。
 思わず吹き出し、話す視線を合わせる為に机に体重を預けようとして――思い直して、スラックスのポケットに両手を入れてやや背を曲げる。

「いいですよ、別に、気にしてませんから」

 実際そうであるし、何か重要な理由もなく、特に無理をしているつもりはない。
 元々は、緑がかった金色に前髪だけ黒い地毛を染めていると疑われたことが発端だが、近頃はただ楽だからやっている。
 肩口までの髪も、鎖骨の辺りまで緩めたタイも、第二ボタンまではずしたシャツも。
 生活指導が言うように、「ガキの癖に色気付いている」訳でもなく、このクラスで机を並べる女に飢えた奴らの言うように「女に気に入られようとしている」訳ではない。 なんとなく着崩した制服の何かが、同い年の少女達の何かに影響を与えているのは確かなようだが。
 鎖骨の上で装飾品の跳ねただけで、髪を結い直しただけで一々肌に伝わる何かが、この男ばかりの教室でさえあるのだから。
 だがそれも、中身が我々と大差ないような、この女教師に微塵も影響を与えて居ない様子を見ると、たかが知れているのではないかと思う。
 黒いタイツにラッピングされ、後ろ手に机に両手を突いて投げ出されたこの両脚の持つ、『謎』の何かに比べたら。

「私は、服装とか余り気にしないし。それにコレも、かわいいと思うんだけどなぁ……」

 と、ふいっと頬の横から伸びた手のひらが、ぽんぽんとネウロの頭を――肩に掛かるくらいの長さが邪魔で、ヘアゴムで頭の上に結い上げている前髪を撫でる。

「私も同じくらい長いけど、ネウロ君みたく美味く結べないし、それに可愛くならないし」
「………」

 止めさせる為に声を出そうと思ったが、まるでじゃれる猫の子のような表情に何もいえなくなってしまう。

「本当、不思議な色だよね。綺麗」

 すると、細い指先はそれこそ猫の子にするように、黒い前髪と薄い色の後ろ髪との境をかしかしと引っかき始めた。
 綺麗、きれい、きれぇ。
 舌先で飴を転がすように、その発音をまね、何となく口の中で反芻する。
 世辞としても賞賛としても聞き飽きたその言葉を、何故か、生まれて初めて聞いたように感じて。

 国語の教師として意識して補正しているのか、この教師には普通と比べ、発音の癖というものが余りないように思う。
 その代わり、はきはきとした発音は喜怒哀楽を雄弁に伝え、こちらの耳に入ってくる。
 授業の朗読を聞く度に、聞き慣れた単語が初めて聞いた物のように新鮮に感じるのだ。

「ん。そう。綺麗」

 僅かに動いた喉の動きでか、こちらの声を敏感に聞きつけ、教師がふっと笑みを漏らした。
 そして、何を思ったのか、自分の漏らした形容詞の数々を反芻して行く。
 まるで、高校生でさえない、子どもに物を教えるように。
 真逆の体格差にも関わらず、こちらを完全に無害な子どもと認識しているかのように。

「……せんせ」

 ハァとわざとらしく大げさな溜息を吐き、相変わらず結った前髪を弄ぶ頭の上の手に伸ばそうと持ち上げた。
 なでつけられる感触も、時折、それこそ猫の子にやるように頭皮をかりかりと引っかく爪の感触も名残惜しかったものの。
 いくら何でも、それくらい知っている。子ども扱いにも程があると、そう言ってやろうと思った。
 だが、その時に。

「それで、可愛い。きもちがいい」

 どこか楽しそうな顔で、溜息のように発せられたその二語が、ぞくっと首筋を伝って背を撫でた。
 かわいい、きもちがいい。

「ッ!」

 耳元で吐息混じりに再生されたような、そんな悪寒とも何とも付かないものに止めを刺されて。
 頭上に延ばしかけた手でぱしんと、咄嗟に自分の
右耳を覆っていた。
 じんじんと耳の中で響く音に顔をしかめると同時に、頭の上の手がぴたと止まったのに気づいた。

「ネウロくん?」
「……いえ、ちょっと虫が居たもので」
「ふぅん?」

 こくりと首が傾げられ、呆然としたまま何かいいたげに開いた口が、次の言葉が発せられるより早く。
 本人が言う通り、こちらとほぼ同じ長さの蜂蜜色の前髪を捕まえて軽くくしゃっとなぜた。

「先生の薄い色の猫っ毛と、このヘアピンも、僕は可愛らしいと思います。あと、綺麗だと」

 片側の前髪を止めている、眼鏡のフレームと同じ金属質の赤い半月のヘアピンを指先でコンコンと叩く。

「あは、ありがと」

 あまり上手い手とは言えないが、これで一応は誤魔化せたようだ。
 それに安堵したその時。ヘアピンに触れた手の上に、こちらの前髪を弄んでいた白い手が重なり、ほんの一瞬だけ、指が震えて止まる。
 気取られただろうか。見下ろした教師の笑顔に緩んだ頬が僅かに赤い。西日のせいだろうか。

「子どもっぽいから外せって言われたんだけどね……」
「それって――」
「そ。この服選んでくれた友達。アパレル勤務だから売り上げに貢献しろって……」

 ふんにゃりと笑みの形に緩んだその小さな唇の間から、男の名前が出て来るのでは無いか。一瞬、そう思っていた自分に気づいたのは、当たり前のようにそう言われた後だった。

「はぁ」

 この一週間ずっとそうだったように、自分でもコントロール出来ない思考のノイズ。思春期とかお年頃とかいう一語に包括されるそれ。
 それに居たたまれなくなり、見上げて来る教師から手を離し、そして半歩後ろに下がる。

「……ところで、僕をわざわざ居残りさせた理由をまだ伺っていませんが?」

 今まで忘れていた本題を切り出した。

「あ……あっ」

 必然、こちらの頭から離れた手は一時空を掴み、左手と共にタイトスカートの上に落ちた。
 だから、そう残念そうな声を上げるのを止めてほしい。

「まさか、わざわざ僕の前髪を弄んだり、服装について小言を言う為だけに待たせていた訳じゃないんでしょう?」

 続けていつもの軽口を叩けば、教師は――恐らく、無意識の癖なのだろう――右手でタイトスカートの端をぎゅっと握った。

先生と青少年



 正直、これも止めてほしい癖だと思いながら、視線を無意識に向けていた大腿と布との境から引き上げる、と。

「あぁ、うん……」

 普段から何事もはきはきとしたこの教師に珍しく、やや気まずげに泳がせた視線と、非常に歯切れの悪い答えがかえってきた。

「服装は折りを見て言っといてって、担任の笹塚先生に頼まれたからで……」
「っ……あぁ、すみません」

 教師の口から漏れた担任の名に、思わず舌打ちしそうになり、あくびを堪える風を装い口を覆う。
 担任の笹塚は、正直あまり得意ではない部類の人間だからというのもあるが、理由がそれだけじゃない事も自分で知っている。

「で、本題は何なんですか?」

 これ以上その名前をこの教師に呼ばせたくない。そんな下らない事から生じた不機嫌を隠さず、低めた声で話を促す。

「あ。ごめん、そういえばさっき、お互いに服の話はナシにしようって言ったばっかだったね」

 何も知らない女教師は軽く頭を掻き、あっけらかんと笑った後、ふいっと、既に人気のない廊下に視線を走らせた。

「今ので片づけも終わったし、良かったら、私の部屋に来る? あそこならお菓子とかお茶も出せるし」

 誤解の無いように一応の説明を入れれば、この場合の部屋とは、職員室とは別に、教員に与えられている私室のことである。
 授業の準備や、生徒指導、資料整理などを円滑に進める為……という名目で与えられているが。
 この現国教師の場合はその天性の食欲と、妙に厚い信頼とのせいで菓子に溢れ、ひっきりなしに人が訪ねて来る。
 故に、生徒の溜まり場兼、女生徒や一部男子生徒の簡易カウンセリングルームのようになっている。
 そして、あえてそこで話をしようと言い出したのは、こちらにお茶を進めるつもりではないのだろう。
 恐らく、こちらに気を遣っている。今から自分が出す話題が、こちからからすれば聞かれたくないものなのではないかと。
 その気遣いに気づいたネウロに起こったのは不愉快でも感謝でもなく、奇妙なことに苛立ちだった。

「いえ……ここで結構です」

 なので、その場で適当な机の椅子を引き、さっさと腰掛けてやった。
 ポケットに両手を入れ、背の半分までしか届かないように作ってあるもたれに、肩まで預けられるくらいに浅く座る。

「先生、話すなら早く」
「あ、うん」

 いかにもわざとらしく、不機嫌を露わにした態度で見上げ、そう促すが、やはり動じない。
 そしてやや迷った様子で視線を巡らせた挙げ句――なぜか、左隣の席から椅子を引き、そして、こちらを向くように座った。

「せんせ……」
「ん?」

 背もたれに預けた首を傾け、呆れを露わに半眼で睨めば、窓の向こうの西日にか、細められた茶色の瞳がその視線を受け止めた。
 ついでに、軽く組まれた脚と脚の付け根に生じた闇も。
 えぇと、脚を組むこととその深さは相手の話への興味に比例するとか……いう豆知識はおいておき。

「……何で、わざわざ僕の隣に座るんですか?」
「ん。なんとなく。向かいに座るより、この方が話しやすいかなと思って。嫌?」
「……お好きに、どうぞ」

 何ともいえない脱力感に、そのまま溜息と共にずるずると、一層深く椅子に沈み込み、軽く瞑目する。
 本日何度目かに、ちりちりと熱を持つような錯覚を覚え始めた眼底と、そこから下腹部まで下る線を断ち切るように。
 さらに、意識して深い呼吸を何度も繰り返す
 本当に、何でこう、この教師はどこまでも愚かなまでに無防備なのだろうか。
 幾つも年が離れている中年の教師に色目を遣われるのも屈辱だが、これはこれで中々に堪える。
 6つか7つ年下というだけで、男として終わっているのだろうか。
 この教師には、この教室で自分の脚に胸に、食い入るように注視する頭一つ背の高い雄の群も、たかだか一桁の年齢差があるだけで、可愛い男の子に見えているのだろうか。
 この教室の全員が、飢えた狼どころか、純朴な子羊にでも見えているんだろうか。
 毎日、タイツが、尻が、胸が、彼女がグラビアがと、涎を垂らし牙を剥き、面白おかしく語らう羊の群……。

「うぅ……」

 瞑目したまま、項を椅子に押しつけるように軽く左右に頭を振る。と、左の耳に、密やか溜息と、こちらに話しかける、例のはきかきした声が聞こえた。

「ねぇ、ネウロ君ってもしかして、私の事が嫌い? っていうか、嫌いになった?」
「……は?」

 思ってもみなかった方向からの質問に、思わず飛び起き、先ほどと違い、身体ごと教師に向いた。
 その教師はというと――真剣だった。いつの間にか、解いた膝の上に両手を突いて、椅子の上からこちらをのぞき込むように身を乗り出していた。

「いえ……別にそんなことは……」
「嘘」

 自然、貧相故に重力でかぱっと大胆に開いた胸元から目を逸らし、廊下側の壁に視線を止めながら答えれば、まっすぐ身を起こした教師はふっと寂しそうに目を伏せた。

「月曜くらいからかな。ネウロ君、出席の返事する時にわざと目を伏せるし、たまに返事してくれない」

 確かに、言われた事の殆どに心当たりがある。教師がこの格好をするようになってから、視線の置き場に困る事が時折ある。
 これが、目のやり場に困ると言う言葉の意味なのだろうと判断した訳だが。
 しかし、たったそれだけの些細な変化に、いくら目敏い性質とはいえ、相手が気づいているとは思わなかった。

「せんせが……自意識過剰なだけじゃ、ないですか?」

 だが、普通なら気づいても、こう判断するだろう。
 または、生徒にそんな目で見られている自分、生徒をそんな目で見ている自分に恥じ入り、口を閉ざすか。
 それを、生徒を呼んでわざわざ言うからには、何かしらの根拠があるのだろう。
 それを問おうと再び口を開こうとして、教師が、じっと自分を見ていることに気づいた。

「せんせ……?」

 口から漏れた呼びかけに、言葉は返らない。
 膝の上で強く両手を握り、きゅっと口を真一文字に閉じ。
 こちらの上靴の先から、スラックスの上を舐めるように上がり、腹筋の上、タイの結び目、喉元。
 視線が、視線のはずなのに、熱を帯びて全身を撫でて行くように、その軌道が身体の上に伝わる。

「は、っ……」

 そうして、最後に目と目が合った時、その西日に琥珀のように輝く瞳の温度が、全身を焼いたような気がした。
 身体から力が抜ける。ずぐんと、胸の奥と、下腹で脈動と、きゅうと締め付けるような痛みが起こる。

「……こういう目、してる」
「え……?」

 椅子の上で背を丸め、無意識に左胸を押さえた時、はきはきとした発音がそう言った。
 顔を上げると、教師は、相変わらず真剣な眼差しと表情で、膝の上で拳を丸めていた。

「こういう目で、ネウロ君はいっつも私を見てる。目を合わせてくれないし、態度もよそよそしいのに。背中を向けると、肩や、脚や、背中や……いっつも、ネウロ君の視線が私の身体をたどってく」
「フハ……」

 力無く、思わず漏らした笑いに、教師の真剣な顔がやや崩れる。それを見て、一層に笑いがこみ上げて来た。

「……ハハハハハ!」
「なっ、何よっ! そんなに笑わなくてもいいじゃんか!!」

 笑いはどこまでもこぼれて来て、笑いすぎて流れた涙で滲んだ視界で教師が顔を真っ赤にしてわたわたと両手を振る。

「それこそ、先生の自意識過剰という奴ですよ!! 先生て以外と恥ずかしい人ですね!!」
「うぅっ……」

 そこまで分かっていて、何故、それが何なのか分からない?
 何故、そこまで分かった上で、それでもこちらと向かい合っていられる?
 何で、そんなまっすぐと生徒に接することが出来る?
 滑稽で笑えてくる。この教師も、自分も。

「き、気のせいなら別にいいんだよっ!」

 羞恥で真っ赤に染まったを押さえ、教師が叫ぶ。

「わ、私はてっきり……」
「てっきり?」

 笑いをおさめ、指先で滲んだ涙を拭いながら、鸚鵡返しで聞き返すと、ぷいっと顔を背ける。
「こ、この格好、そんなに変かな? 似合わないかなって、気になって……」

 その手が、頬に溜まった熱を流す為、恐らく無意識に。自分のブラウスの胸元に指を掛け、ぐいっと手前に引っ張った。
 ほんの一瞬だけ、だけれど確実に。黒いブラウスからより多い面積の白い肌がのぞき、身体を傾けていた為に。
 その奥に、白い肌に浮き出た鎖骨と丸い肩の骨との交差点に、水色の紐が見えた。白い肌の上で、鮮やかに。

「あれ? ネウロ君どうしたの?」

 ぱたぱたと胸元を仰がせながら、急に言葉を止めたこちらを、教師が、きょとんと首を傾げてのぞき込む。

「あ……」

 何か言おうと思うのに、言葉が見つからない。胸元から、その肩口と鎖骨の白さから、目が離せなくなる。さっきのように、目を逸らすことが出来ない。

「あーっ!」
 不意に、ひんやりとした手が無遠慮に両頬を包んだ。こつんと、額に額が当たる、イタズラに笑う目が近い。
 あと、鼻先に掛かる笑いを含んだ吐息も、黒い布地から覗く白も。

「もしかして、お年頃っていう奴?」

 かっと、頭の芯に熱が点ったような気がした。

「まぁ、こんな色気ないのに今更どうってことも……おわっ」

 そうして、気づけば、無言のまま。その痩身をだんと、軽く、突き飛ばしていた。

3、先生と青年



 本当に軽く、肩を押したつもりだったが、教師はバランスを崩して先ほどまで腰掛けていた椅子にぶつかる。

「……れ?」

 ぎぎっと不愉快に鳴った椅子に背を預けるように倒れ込んだ教師は、椅子とこちらの膝との間にぺたんと座り込んだまま、呆けた顔でこちらを見上げる。
 逆光のせいか近眼のせいか、ぱちばちと何度も瞬きを繰り返す目。。
 いきなり生徒に突き飛ばされ、更にほぼこちらの脚の間からこちらを見上げて。
 なのにその態度は無防備過ぎるほどに無防備で。

「――分かりませんか?」

 それが苛立ちに更に輪を掛け――勝手に、唇が笑みの形を作る。

「僕が、先生をそんなやらしい目で見ているのは……」

 奴隷のように足下にひざまずく相手の眼鏡のフレームに反射する自分は、さて、どんな顔をしているのだろう。

「それはね、先生を使う為ですよ」

 ぼーっと、うかされたように自分を見上げる教師を更に見下ろす為、次の言葉を紡ぐ為、すぅと息を吸った口元の笑みが更に深くなる。

「家に帰ってから、頭の中で先生に、いやらしい事をするためですよ」

 あぁ――きっと、相手を見下しきった顔をしているに違いない。

「頭の中で先生を今のようにひざまづかせて、淫らなことに『使う』為に」

 性欲処理の為の、使いなれた汚い道具を見下ろす視線。 一瞬、教師は相変わらずこちらを見上げたまま、言葉の意味を考えるかのように目を眇めた。
 しかし、さっとその顔が曇り、眼鏡の向こうの目は大きく見開かれた。
 無防備だが、子供のように無邪気な教師が、普段は絶対に生徒に見せないだろうその表情。異性に対する本能的な恐れ。

「先生のような子供にも分かるように、いつも僕がどんな風に先生のお世話になっているか逐一お話しましょうか?」

 顔を強ばらせた教師の、反った白い喉がごくっと小さく鳴った。
 あぁ、丸い肩を、椅子の天版に後頭部が付くほどにぐいと反らされた細い喉を、透けるように白い肌を、鎖骨の下の薄い膨らみを、起伏のない肩を、張りの少ない腰を、床に投げ出された棒のような脚を、震える肩を、掴んだその肩の熱量を。

「ねぇ……先生?」
「ぅ……あ……」

 そうしたものを全て、その怯えきった顔と一緒に、自分の為だけに保存してしまいたい。
 初めて生徒を一人の男として意識させられた教師の顔を。女としての本能で怯える若い教師を
 他の誰でもない、別の男ではない自分の手によって。
 いっそ、コレ自体を、表情から体躯まで全てを誰にも見せないように囲ってしまえたら。
 手のひら一つで掴み上げられる肩の、腕一本で押さえ付けられる身体を見下ろす目は。
 きっと、先ほどこの教師が実践して示してみせた、今まで自覚のなかった目の色だろう。
 教師ではなく、女ではなく、欲求の対象を――哀れな贄を見下ろす、人を人と思っていないような即物的な目。
 乾いた唇を舐め、椅子から立ち上がる。びくんと震えた肩を一層強く掴み、引く。

「いただきます」

 その言葉通り、頬を撫でるように髪を梳き、露わにさせた赤くなった耳に、白い項に、噛み付いてしまえたら。

「うっ……そ……」

 怯えきったその呟きさえもが背骨を落ち、あぁっと、知らず小さく声を漏らす。
 頬と頬が触れ合いそうな、相手の熱を感じる距離で殊更ゆっくりと深呼吸し。

「なぁんて言ったら、怒りますか?」

 そうあっさり言い、押さえ込んでいた肩から手を離す。それと同時に、その華奢な腕を掴むと、びくんっと身体全体が震えた。

「もー。なに生徒の言うこと本気にしてるんですかせんせってばっ!!」
「い、言われなくたって立つわいっ!!」

 腕を引いて起立を促しながらクスクスと笑えば、教師はこちらの腕を掴み返した。
 そのまま、こちらに体重を預けて立ち上がろうとした――ので、ぱっと手を離した。

「ぎゃうっ!」

 蹴られた子犬のようなが悲鳴と、ららんっと今度は大げさな音を立て、椅子におもいっきり頭をぶつけて後ろにころげる。

「いったぁ……」

 ぶつけた後頭部を押さえながら、両膝を立てて仰向けになった薄い身体はじたばたと痛みに七転八倒する。
 ぜいぜいという荒い呼吸に合わせて上下する肋骨の線。 堪える痛みに身悶え、ずり、ずりとリノリウムの床を蹴り上げる脚の内題の緊張する様。ずり上がったタイトスカート。

「ちょっと……なに笑ってるのよ」

 やっとそれらから目を逸らせられたのは、涙を湛え、仰向けに天井を見上げる瞳に呼び止められたからに他ならない。

「ククク……すみません、先生が余りに面白かったものですから」
「……ごめんね、面白くて」
「いえいえ、いつも楽しませて貰ってます」

 眼鏡を額にずらして両手で乱暴に目を拭い、手で赤くなった顔を覆いながら答えた教師は、しかし今度は一向に動かない。
 悶えるでもなく、恐らく指の間から天井を見つめたまま、何かを考えている様子で、あーとか、うーとか、時折唸るように口が動く。

「先生?」
「……」

 返事は、返らない。
 冗談のつもりだったが、これは本格的に打ち所が悪かったのではないか。
 そう思い、背後の椅子を蹴倒し、その華奢な身体を挟み込むように手を突いて、覆い被さるようにして、耳を近づけ呼吸を伺う。

「……ぃ」

 ぜぇと、僅かに開いた唇の間から、魘された譫言のような吐息が漏れたのを聞いたら、もう役得だとか何だとは言っていられない。

「せんせ、先生っ!?」

 小刻み震える身体にのし掛かり、ぐいと顔を覆う腕を引いてのぞき込めば、その下にあったのは――

「うへへ、おかえし!」

 涙目で頬と鼻先を赤くして、笑いすぎてけほけほと咳を漏らす、女教師のしたり顔。

「………っ」
「ちょっ、どいてっ、ネウロ君重いぃ!」

 思わず脱力して腕の力を抜いたことで、今度こそ押し倒す形になってると気づいたのは、じたばたと抵抗する四肢が目に入った時だった。
 腰骨に当たる大腿の感触に盛大な溜息。大人しく退くついでにタイツから透けてる下着を指摘してやれば、体育座りになって、むっとむくれる教師。
 せめて照れるとか赤くなるとか無いのだろうか。つい今し方、半ば事故とはいえ、自分を押し倒した相手に対して。

「先生って……ほんとに子供ですね」
「あんたには、言われたくない」

 今回は一つ、この教師に教えられた。
 結果の伴わない過剰サービスは、ただの暴力であると。それもかなりの。
 立ち上がり、スカートの裾を直した教師は、何でもない様子で立ち上がる。

「じゃ、気をつけて帰ってねネウロ君。私、ちょっと部屋に寄る用事があるから」
「あぁ、はい……」

 その、いつも通りの笑顔と、一語一語のはきはきとした発音の声に、夢から冷めたような心地で自分も渋々と立ち上がる。
 じゃまた月曜日ね、と曖昧に笑う教師は週明け、やはりこの格好なんだろうかと旋毛を見下ろしながら思って気づく。

「あぁそういえば先生……」
「ん、なぁに?」
「結局、何も聞かないんですね?」

 そう問えば、何が?、と言いながら傾げられ、蜜色の髪の掛かった首から、何故か目を逸らす。

「僕が……先生によそよそしいとか、何とか」

 結局答えをはぐらされた事に、この、さほど賢くはないものの、人の言葉やら表情やらに妙に聡い教師が気づいてない訳がない。
 なら、何故に追求して来ないのか。そう思って聞けば、教師はあぁ、うんと歯切れ悪い返事と共に目を泳がせ。

「もう、聞いたから、まぁいいかなぁって……」

 と、これまた歯切れの悪い答えと共に苦笑し、くるりとこちらに背を向ける。

「じゃ、今度こそ。また来週ね?」
「はい。あ、先生、最後にもう一つ」
「ん?」

 引き戸の前まで来た教師はそこで手を突いて、半身でこちらを振り向いた。

「さっき……床に米俵みたく転がって居たとき、せんせ、何か言いませんでしたか?」
 教師は、少し困った様子で自分の前髪を弄びながらしどろもどろと言葉を発し、うろうろと目を泳がせ。
「あっ、あれは、えっと……深い意味とか無くてカンで。ちょっと思った事がそのまま口からでたってか……その」
「いいから、さっさと言って下さい。ほら、さっさと」

 そして、スカートの裾を握りしめ、長い前髪がばさりと顔に掛かるほどに俯いた。

「う、うそつき……って言っただけっ」

 いつものはきはきとした音声ではなく、呟くような声。それが言う言葉の意味をぼうと考え、至った答えに大きく目を見開いた瞬間。

「じゃ、じゃあねネウロくん」

 その背は、ぱっと扉の向こうに飛び出し、後にはぱたぱたと走り去る足音だけ。

「……っ」

 その音がやがて完全に消えたのに気づき、急に脱力し、その場にあった机の天版に腰を下ろした。

「はーあぁぁ」

 溜息と共に俯き、無意識に顔に掛かる髪を掻きあげようとして、その手に、前髪を結った結び目が触れた。

「……」

 何となくその毛先を指先で弄び、思い出されたのはつい先ほど、好き好きと無邪気に笑っていた教師の顔。
 そして、先ほどの真っ赤に染まった顔。子供でも
なく、人に教える立場でもない。あれはたぶん間違いなく、異性を意識した女の顔。
 恐らく、この学校で誰かに見せたことのない。

「ククク……」

 沸いた苛立ちとも高揚とも乱暴に引いたヘアゴムが解け、ばさりと顔に落ちる。
 ぶるりと乱暴に頭を振り、落ちた前髪もまとめて掻き上げる。

「あの、小悪魔が……」

 無自覚に色気を振りまく色気無い教師に、人知れず宣戦布告した瞬間だった。


キスや愛撫は一切ないのにエロいみたいな、ちょっとエッチなラブコメのよな物を書きたかったのです。
萌え滾ったシチュエーションを全部乗せにし、無駄に何日も掛けて書いた為、本題が迷子になりつつ……。
弥子先生が、自分の事になるとてんでだらしなくて、押しかけ兼業主夫ネウロ君が楽しく世話を焼いている、
足下に跪いてストッキング穿かせるとか、ベッドの上でワイシャツ一枚でぼーっとされて目のやり場に困るとかも考えました。
それは多分、本当にギリギリになりそうなので投下場所にそぐわないかなぁと今回は却下。

外ではバリバリ仕事出来る人が家で男物のワイシャツ一枚で寝てて朝にもの凄く弱いとか凄い萌える方ですw


date:2010.12.23



Text by 烏(karasu)