朝日の色


*第82話時点での妄想。
そして流血有り。


昔――

英知を司る北欧神話の神オーディンはその身を槍で貫いて木に吊し、
自身の躯を自身への供物として捧げたという。己の知を極める為に。
またある時、
救世主と呼ばれたキリストは謂れの無い罪を甘んじて受け入れ、十字架にかけられた。
自身の理想とする世界を造らんが為に。



げほっ、重い音が響く。

気管にでも入り込んだのか、苦しそうに咳込む。痙攣する咽。ネウロの頬が接する床に少量ずつ赤が溢れて行く。
長い手足を丸めた躯は数瞬前から力なく弥子の足元に転がっている。
突然の事に状況の飲み込めず、弥子は驚愕に見開いた瞳でそれを見下ろし続ける。

げほ、げほっ……。

音は止まない。苦しい音。それに覚えるべき感情が、恐怖か、安堵か、分からない。
このまま死んでしまうかもしれない。それがとても怖い。
まだちゃんと生きている。それだけで安堵し、涙が溢れ、力を抜けば、そのまま崩れ落ちてしまいそうだ。

  ゲホッ、カハッ、ぐっ……――

苦しそうな喘ぎを耳にし、ようやく戻って来たのは正気。
やっと正常に認知できた状況に、華奢な肩がひくりと一度震え、魔人の傍らに崩れるようにしゃがみ込む。
そのまま両手を伸ばす。反射的に。
首の後ろに手を回し唇を重ねる。空いた手は背を撫でる。
呼吸が少しでも楽になればと。舌を絡めて、咽に絡まった物を飲み下して。

  口一杯に鉄錆の味。
  すごく、苦しい。
  でもきっと、ネウロはもっと苦しい。
  私が無力に甘んじて背中に隠れていた間から、ずっと。
  なのに見捨ててしまわなかったのは。
  それはきっと信じてくれていたから。
  心から期待していた。だから。
  自身が弱って、別の生き物に変化しつつあったのも厭わずに。


唇を離す。喘ぎ、吸った空気とともに一層鮮明になった血の味の気持ち悪さに激しく咳込む。
それでも弥子は抱えたネウロの躯を離さず、強く抱き寄せ、胸に耳を寄せる。

 心音と共にぜいぜいと。
雑音混じりの、それでも先程よりは落ち着いた呼吸音に、ほんの少しの安堵を覚え。
「ぁ……」
途端零れた涙。留めようとすれば更に溢れる。

    今は泣いている場合じゃない、のに。
  何でだろう?血の飛んだスカーフが濡れていく。
  青い上着に所々濃い色の斑点が出来て行って。
  ……視界が、どこまでも滲む。

「ぅぇ……ひっ、く、ぁ…」
 無様な鳴咽に喉が引きつる度、溢れる血の味。
安全な背中に縋って何時でも嗅いでいた忘れられないにおい、死のあじ。
死――?死んじゃう、の?、また。
ねぇ答えてよ…っ、ねぇっ!!
「……煩い」
ひょいと掴み上げられて、縋っていた胸から剥がされる。いつもの、しかし少しだけ弱々しい感触。
「ぶざまな声で…鳴くな、虫ケラ」
形の良い唇が言う。普段より白い肌。口元を朱で染めた魔人。
何だか、紅を引いたようで、綺麗だな――

呆け、真っ白になった頭が一瞬、ずれた事を考える。

そんな場合じゃない、と。沢山のノイズを打ち消す為に一度目を閉じた。
訪れる刹那の暗闇は、その一言にそれだけ自分が安堵したか、などという情けない情報までもを伝えてきた。
押し出された涙。再び茶色の瞳が開く。瞬間――

頭に置かれたままだった手からは力が抜け、朝日にけぶる蜂蜜色の髪を撫ぜるように滑り落ち、
ぺたん、赤くなった頬に掌が当てられる。
いつもより余計に冷たく感じるのは、泣いて火照った頬の所為だけではないのだろう。
水分でぺたりと吸い付いた滑らかな革の感触に、覚えるのは戦慄と安心。
相対する感情に狼狽し涙を止めた弥子に向けられた翡翠の瞳。
鷹揚と、満足そうに細められ、弥子が言葉を搾り出す前に――スッと閉じた。

「ねうっ…!」
僅かに聞こえた規則的な寝息に、出しかけた声は喉に張り付く。
その反動でケホケホと軽くむせながら、呆れて見下ろした顔は無表情。
安息も苦痛も浮かんでいない、仮面のように整った。
まるで人形のような、死体のような――

連想とともに背筋を這う悪寒。再び胸に押し付けた耳。僅か聞こえた心臓の音に小さく嘆息する。
「全く……寝るなら寝るって、それ位言えばいいのに……」
焦った事が情けなくて、苦し紛れにもごもごと。
呟いた言葉は行き場無く彷徨う。

もう、気付いていた。
動揺を収めるので精一杯。本当はきっと、目を開けるのさえ苦痛だったろうこと。
弥子の不安を取り除く為に一言言付ける。そんな余裕さえも無かったのだということも。

「……いつも、変な所で抜けてる、よね、あんたって」
そのまま胸元に顔を埋め、弥子は拗ねた口調で呟く。
いつだかこうして拗ねて見せ、からかわれた時より余計に不細工さを増した顔。
走った時のように不規則になる呼吸。
震えて濡れた声に、気付かれない事を、願いながら。


キリストには、彼の思想を伝える使徒に、遺体によりそい奇跡を信じた人々。
オーディンには娘ヴァリキーなど、幾多の神々が。
神――つまりは人外が一人で死地に赴くとき、
どんな世界や時代の伝説でも、彼らの帰りを待つ存在は、ちゃんと用意されていた。

待つ役目を負った存在は、時に果敢に戦い、時に精一杯考え。
そうして、自分に出来る事をやり続けたに違いない。
神話には書かれていなくとも
だから神も神の子も、元の場所へと帰って来た。

糧の為に多大な自己犠牲を払った魔人。今は疲れて眠っている。
側にいるのは一人の少女。待つ事を運命付けられた。

彼女は願う。神話を紡ぐように、祈りを捧げるように。
きっと、すぐに帰って来るに違いない、と。だからそれまで。
「出来る事、頑張る……から、ね」

一生懸命に考え、戦い、犠牲の後の望みが叶うように。
痛みを、飲み下した血の味を、無駄にしないように。

朝日の下、顔を上げて瞼を拭った少女の瞳。
そこに滲んだ決意の色を、眠りの底の、人外は知らない。


BGM:「PRIDE」(HIGH and MIGHTY COLOR)、……加筆&推敲中はムックの何か。
参考?図書「世界の神々がよくわかる本」(PHP文庫)。北欧神話の項を読んでいる時に浮かんだ話です。
甘くも苦くもないどっちつかずなのが心苦しいです……。
そして咳き込む人の気管を塞ぐのは多分、手当ての方法として間違ってるよ、弥子ちゃん(人の所為かよ)

date:2006.10.29



Text by 烏(karasu)