濡れた瞳


実験と思わぬ収穫


夕方、夕食時にはまだ早い時刻、客もまばらなファミレス。窓際、一番奥の席での一幕。

「あのさ……何なの、これ?」

顔を引き攣らせ、テーブルの上を凝視してそう訪ねる弥子の
声に負けない程震える指先が差す先。そこにはグラタンが一皿置かれている。
「なに、貴様の代わりに味付けをしてやっただけだ」

テーブルに肩肘を付き、悪びれも無くそう答えるネウロが空いた片手での長い指で弄んでいるのは、
ビン口を、まるで鋭い刃物でも使ったかのようにすっぱりと切り取られたタバスコの空き瓶。
翡翠色の目を猫のように細め、弥子の期待通りすぎる反応にニヤニヤと笑う。
「……こんなの最早グラタンじゃ無いやいっ!」


おかしいと思ったのだ。あのネウロが自主的に「おごってやる」と言い出すだなんて。
しかしそこまで予想できていても、食欲に負けてうんうん素直に頷いてしまった弥子。
下手に気の変わる前に……と、事務所から程近いこのファミレスを選んだ。
ついでに下手に大量注文して急に前言撤回されては堪らない。と、様子見にグラタン一皿だけを注文した。
そしてそれが届いた途端、ネウロは遊んでいたタバスコの瓶口を刃物状に変形させた指で一刀両断切り落とし、
驚き咄嗟に身を乗り出した弥子の手が、指先一ミリ届く間も無く――ビチャビチャとぶちまけられた赤。
まざまざと、脳裏に思い出された悲劇の瞬間。怒りと悔しさにスカートを握り締めた手が思わず震える。

(たまに素直に感謝したら……この仕打ち…!)
背中を丸めて一つ溜息を吐き、意を決して傍らのスプーンを取り上げる。
瞳を眇め睨むのは、目前に置かれた『グラタンだった』食べ物。
瓶一つ分のタバスコがかかった表面は窓の外で沈み始めた夕日よりも赤い。
まだ熱いせいで、表面のチーズらしき泡ががグツグツと小さく鳴っている。

いっそ禍々しいその姿は、どう贔屓目に見ても食べ物なんかには見えない。流石の弥子でさえ。
そりゃぁ、食べられるのなら今すぐ食べたい。先ほどの狂乱騒ぎも相俟って、今は十分空腹だ。
だが、そんな意識より奥の――本能が、胃袋が。この後の事態を予想して全力で拒否を叫ぶ。
「ハァ―っ……」
「何だ、喰わぬのか?」

再び溜息を吐き、そっとスプーンを下ろした弥子を、興味深いという風にネウロは眺める。
俯いたまま視線だけで睨みつけても、その余裕の笑みが崩れることもなく。
(……はたから見れば、付き合い始めた彼氏彼女の初々しい食事風景に見えちゃったりするのかなぁ。
その足がテーブルの下で、さっきから「彼女」の足を踏んでいることをのぞけば――って!
痛い痛いっマジで痛いっ!)

とんでもない方向へと思考を逃し、現実逃避を始めた弥子を追い詰めるかの如く、
ローファーの上からギリギリ加えられ始めた圧力。 『さっさと喰わぬとどうなるか分かるだろう?』
聞こえる筈の無い声さえ、はっきり聞こえてきそうな程に。
「分かったわよっ!!食べればいいんでしょ!?」
ジンジンと痛む片足とジリジリとかかる無言のプレッシャーにそう叫び、弥子は再びスプーンを拾った。

一口分を掬い、少し逡巡した後に、意を決して口元に持って行く。
途端に香るタバスコ特有の甘い匂が、この後の衝撃を容易に想像させる。
クレームを叫ぶ胃袋。空腹でなく、口腔内に溢れる唾液。
無意識に喉が鳴り、背中を冷や汗が伝った。
(お母さんの料理よりマシ。死ぬよりは……よっぽどマシ……)

幼い弥子の偏食をことごとく克服させた魔法の呪文も、今だけは効きそうに無い。
絶望的な気分で再びスプーンを眺める。
たかが一口。されど、一口……。食べ物に対してこんな絶望的な気分になるのは、一体何年ぶりだろうか。

そうして弥子が覚悟を決める間、ネウロは一々変わる表情を、ニヤニヤ笑って観察していた。
しかしそれにも少し飽き、そろそろもう一度急かしてやろうかと思った時、
(む?)
弥子はふと、眼を閉じた。そしてそのまま背筋を延ばし、一度深く深呼吸。直後。
「いただきますっ!!」
その一言と共にスプーンを口に含む。ごくんと飲み下した途端、弥子の動きがピタと止まる。
頬に熱が集まり、汗が伝う。瞬間、テーブルの上を鋭くさまよう視線。
「探しているのはコレか?」
心底愉快そうな声色でそう言うネウロの手には、水の入ったコップが一つ。
弥子は勢い良く立ち上がり、コップ奪い返そうとネウロの胸倉に掴みかかる。
「このやろ―…っ!!」
口を開いた途端にボロボロと溢れる涙。呼吸する度に口の中と鼻が痛い。
ネウロはされるがままになりながら、そんな弥子をあざ笑い、コップを持つ片手の力を抜いた。

カシャン、店内に突如響いた鋭い音を聞き、条件反射的に音のする方向を見遣った客が見た物は、
「先生。ほら、他の方の迷惑になりますから……ね?」
「ふえっ、え…っぐ……!」
少女に抱きつかれ、その背を撫でながら状態困惑顔でそう言う青年と、
その肩に頭を預け、その大きな瞳からボロボロと涙をこぼす、頬と目じりを赤く染めた少女の姿だったとか。


……強制的に閉幕。


とりあえず、ギャグだと言い張ってみる。
「↑HIGH-LOWS↓」のラストアルバムのCMを見ながら考えたネームが元。
なので最初は「事務所でテレビを観ていたら食事に誘われ…」な内容でした。
他に、「グラスを片づけに来た店員の前で弥子がネウロにキス→弥子「辛さで死んじゃえ馬鹿ぁ──」」
と言うオチを考えたこともありましたが、別の話とカブってたのでやめました。


date:2006.03.27



Text by 烏(karasu)