みえるもの


ネウヤコで、二人に子どものいる設定。
苦手な方はご注意下さい!

それぞれが必要で――


明かりを消され、窓からの街灯りに薄暗く浮かび上がる部屋の中、ベッドの端に腰掛けた弥子の膝に座った我が子はただただ、声を上げて泣いていた。

ひっく、えぐ、と、無様にえづきながら震える小さな背と、それを宥めるように抱き寄せ撫で上げる弥子を、
二人の横に腰掛けたネウロはただ、無言で見下ろしている。

「転んだ」のだとというならば抱き上げて。
「犬に噛まれた」というのなら、例えこの手でもってその生物の喉笛を引き裂くことになろうとも。
我が子が目前で、そうした形の有る事象に脅かされているのであったのなら、ネウロにも対処法がいくらでも有った。だが、

「部屋で揺れるカーテンが、お化けみたいに見えて怖い」

そんな、幼子特有の、自身の頭にのみ存在する想像の世界で怯える我が子を宥める方法を――どころか理解する術さえも、
以前と比べ、多少は理解が及ぶようになったとはいえ、未だ人の心を完全に解せない魔人は持ち得ない。

なのでそうした事は必然的に弥子の役目となり、その場合、今のようにネウロが完全な部外者となることも希ではなかった。

泣き縋る幼子とそれを優しくなだめて慈しむ母親を、ネウロはただ成す術も無く静観する。
相変わらずに頼りなく、華奢な身体に抱きしめられる、それよりも更に頼りなく何回りも小さな身体。
薄暗い部屋の中、隣の二人はこの腕の中に容易く引き寄せられる程近く、なのにとても遠いものに感じる。

この疎外感に似た無力さを、魔人は子どもの産まれる以前にも感じた事があった。

一体いつの事だったろうかと手持ち無沙汰に過去の記憶を辿り――そうして思い出したのは、
華奢な背に、細く頼りない腕をしっかりと回し、母親の腹に縋り付く小さな個体がその中に溶け、まだ内包されていた頃の事だった。

その頃の弥子は細い身体に見合わず不恰好に膨らんだ腹を撫で、よく、今のように慈しむような笑みを浮かべていた。

今まで魔人に見せた事のなかった表情と、初めて知った、身も心も手中に収めたと思っていた女の中の、
触れることの叶わない世界。

彼女と密に繋がる、内臓に近い場所にある。一つの、「生き物」という名の。

物理的な接触は何一つ届かない、出来ることなど何もないし、する必要もない、完結した世界。
情緒的な場面以外にも、自分には不自由や不可能があるのだということを改めて思い知らされた時期の記憶に、
魔人は翡翠の瞳を細め、内心で自嘲する。

「ねぇ、いいことを教えてあげようか」

胸元に顔を埋めたまま、ようやく呼吸を整え始めた娘の背をトン、トンと優しく叩きながら、
弥子が歌うように囁いたその声に、ネウロと子どもは同時に視線を横に向けた。

「んん……なぁっ、に?」

娘に額を寄せるようにして伏せていた顔を上げ、しゃくり上げながら見上げる娘の視線を受け、
弥子はにっと微笑む。
それは先ほどまでの「母親の顔」とは違い、他愛ない悪戯を思いついたような子どものような表情だった。

そのまま、身体ごと子どもを抱き込むように背を丸め、その小さな耳元に口を寄せる。

「お化けはね、信じている人にしか見えなんだよ」
「……ほんとう?」

先ほどまでの涙をおさめ、こそばゆさにかクスクスと喉を鳴らす娘に弥子は小さく囁きを返す。

「そ、見えないと思い込んでしまったら、もう見えなくなるの。何でもそうなんだよ」

膝に乗ったまま、きょとんと首を傾げて見上げてくる我が子を見返して、弥子は一瞬何事かを思案するようにその栗色の目を伏せた。

「自分と違う物を、見せるのも見えなくさせるのも怖がらせるのも――
お化けじゃなくて、その人自身だったりするんだよ」
「……よく、わかんない」
「ん。あんたには、まだちょっとむずかしかったね」

困惑した表情の娘に弥子は照れ笑いを浮かべ――また、視線を上げる。

「とにかくね、『もう見えないんだ』って思い込んでしまいなさい。それでもっと大きくなって――
怖くなくなったら、『見たい』と強く願ってごらん。そうしたら、きっとまた見えるようになる筈だよ!」
「……こわいから、もぉ、みたくない。それに、みえなくなったらもうみえないよ!!」

ぎゅっと、弥子のパジャマの裾を握った手に力を込め、娘は暗い中でも分かる位に紅潮した頬を膨らませ、
拗ねたように呟く。
弥子は笑い、その小さな頭に手を添えて、細い髪を指先に絡ませて梳く。

「ちゃんと見えるし、いつか怖くなく見れるようになるよ。
 ――だってあんた、お父さんが怖くないし、寧ろ私より好きじゃない?」
「……? うん!」
「だから、大丈夫! ねぇ、そうでしょ? ネウロ」
「そーなの?」

不意に自分に向いた、二対のそっくりな光を湛えた瞳。
唐突に水を向けられ、一瞬だけ目を見開いたネウロにあざとく気づき、幼い子どものように笑う妻と、つられて無邪気に微笑む娘。

「……さぁ、どうだろうか」

翡翠の眼を細めて呟かれた答えに、娘はきょとんと眼を見開き、弥子は小さく笑いを零した。

+

「で、貴様は信じているのか?」
「え? あぁ、そりゃあね。……じゃなきゃ、まず今、あんたと一緒にいなかったろうし」

俯せ、布団から顔を出した弥子はそう答えて笑ってみせる。

あの後、「今日は一緒に寝ようか?」という弥子の問いを「もうだいじょうぶ」と突っぱねて、
幼い娘は自室へと戻った。
その様子に安心した弥子が再び布団に戻り、そうして始まった、とりとめのない会話。

「あんたはさ、凄いよね……」
「ム、何がだ?」
「だって、出来ないことも仕方ないことも、偏見も何も何も持たないで全部有るままの形で受け入れて行くじゃん。
 人間との認識の違いサイだってシックスだって。それが何であるかさえ分かれば、『あり得ない』なんて口にしないで違和感なく!」

それがたまに羨ましいのだと、弥子は呟き、頭から布団をかぶる。
「……貴様も持っている能力だろう? しかも我が輩と違い、そうして認識した差異を、経験として自身の中に取り込んで進化して行ける」
「私がどれだけ苦労したか知らないからそんな事言えるんだよ!」

先ほどの毅然とした態度はどこへやら。
幼い子どものように拗ねてみせる様子にくつくつと喉を鳴らし、手を伸ばす。
布団越しに、弥子の華奢な肩へ、ポスンと軽く置かれた掌。
その感触に振り返るより先に――素肌へと触れた指先に下から上へ首筋をするりと撫でられ、その仕草にこもった嫌な予感と感触に総毛立つ。

「いゃ……いやいやいやっ!!」
「嫌なのか?」
「っ……つーか、子ども起きるから! 折角寝かし付けたのにさっ……」 「そうか」
「? うぎゃっ!?」

布団を剥がれ、瞬間入り込んだ冷気に間抜けな悲鳴を上げた弥子の、見上げた先には天井と、
両手足の自由を奪うような姿勢でのしかかるり、自身を見下ろすネウロの顔があった。

「まぁ――知った事では、ないがな」
「あ―、やっぱり、こうなるんだ……」

薄暗い室内でもぎらりとした光を失わない瞳と、笑みの形に釣り上げた口角、そして自身の上に乗る体重に、弥子は抵抗を諦め、小さく嘆息した。

――翌日、疲れ切った様子の弥子が「どうしたの?」という娘の問いに、
「あの後、化け物に襲われたの……」と力なく答え。

憔悴しきった表情の妻と驚きに眼を見開いた娘を広げた新聞の影から眺め、ネウロがにやりと笑ったのはまた別の話であり。


子ども系の話を書く時にいつも使っている子どもの名前に直そうかとも思いましたが、上手くぼかせたのでそのままに。
タイトルも勢いで付けたそのままに。少しでもまったりして頂けたのなら感謝!
作者がヘタレ故に、エロが脳内式ですみません。


date:2007.03.01



Text by 烏(karasu)