「甘えないでよっ!!」
パシンと響く乾いた音。振り上げたままの右手がじんじんと痛い。
真夜中過ぎのマンションの地下駐車場には到底不釣合いな、暴力の音。
とても懐かしい、音だ。なんてぼんやり思う。
目の前にはコンクリートの柱に背中を預けて座り込んだまま、
もう紅くなり始めた左頬を押さえて私を見上げる若い女。
さっきまで私の向けていた、憎悪も殺気も萎え切って。青白い蛍光灯に照らされて、ただ唖然としている。
私なりの推理で、ここまで追い詰めた今回の事件の犯人。
うまれて初めて、本気で叩いた女の人、が。
「あんたが私の何を知ってるって言うのっ!?」
叫んだ言葉がぐわんぐわんとこだまする。
コンクリートの壁で覆われた空間に。
呆然と立ち尽くし、私達の動向を見守る人々の鼓膜に。
あの日以来、冷たい水で一杯に満たされた私の心に。
あぁ、私、ついにやらかしちゃったよ、ねぅ――
笹塚さん達が、呆れている。
そりゃそうだね。探偵が、折角追いつめた犯人に向かって本気のビンタを喰らわせた上
子どもの癇癪みたいなヒステリーを起こしている、なんて。
熱く叫べば叫ぶ程冷静に冷えていく頭の中で、そんな事を考えた。
ついでに、本当にどうでもいい未来の想像も。
『女子大生探偵、犯人に逆ギレ!!』
そんな馬鹿みたいな見出しの新聞や週刊誌が明日コンビニとかに並ぶんだろうな、とか。
少なくとも笹塚さんは今日のことのついて、何も漏らさないだろうな、とか。
あはは、色々我慢した挙句にこれかぁ―、何てあっけない最後だろう。
――何で今、あんたはここに居てくれないんだろうね。
理性の静止を振り切って。両手が、着ていたキャミソールの襟元をぐっと引っ張る。
ほんの僅か、外気に晒した胸上の皮膚。その上にあるのは獣の爪痕のような傷。
あいつが居なくなった後、初めて自分一人で解いた事件で、逆上した犯人に付けられて出来た。
私が本当に独りぼっちになってしまったという、証。
お風呂や着替えや体育の時など。見るたび私に語りかけてくる。
「ほら、お前はこんなにも無力なんだよ」と。
は、っ。息を飲む音がした。
見下ろした犯人は頬に添えていた手でもって口を押さえ、真っ青な顔で震えていた。
殺した恋人を追って、隠し持っていたカッターで自分の喉を裂こうとした、その人は。
『あなたみたいな子どもに、私の気持ちなんか分かる訳無いわ!』
顔を歪ませ、そう尊大に叫んだ人が。
致命傷とは程遠い(しかも自分のではない)たかだかナイフの切り傷に、馬鹿みたく怯えている。
それがちょっとだけ可笑しく思えて、心の中で声を出さずに笑う。
でも多分、それが正常な人間の反応なのだ。
多分あの日以来普通じゃない私には、分からないだけで。
こんなものみせられて気分のいい人なんて、まず滅多にいないだろう。
(それを証明するように、刑事さんの一人が息を飲んだ)
――だけどあいつなら喜びそうだ、と、こんな時でも考えてしまう。
もう充分だ。止めなくちゃ。そう思うのに回り出した口は止まってくれない。
コントロール不能な感情が、どこからかズルズルと溢れ出して来る。
ひたひたに水の溜まった心の水槽が、脈打つように、ゆれる。
搾り出した声は、知らずに涙声になっていた。
あぁ、泣きたくなんて、ないのにな。
頭で思う。でも心が、聞き入れてくれない。
もういいや……言ってしまおう。私の胸の内。届かなかった言葉を。
たった一人の不在だけで、身を切るような孤独を訴える、浅ましい私の本性を。
沢山の水で満たされていて、目の前で怯える人の不幸さえ受け入れてあげられない汚い心と
私だけが孤独で、私だけが不幸なんだと、いつでも叫ぶ声で出来た怪物を。
そしたら今度こそ全てを忘れて諦めて。『異常』を捨て去って、『普通』の中で生きて行こう。
――私の理性を縛っていた唯一のものは、もう帰って来ないのだから。
*
「先生っ、冗談はこの位で止めといて下さい」
ギュッと強く肩を掴まれ、後ろに引かれる。背中に何かがぶつかった。
そのまま見上げると、全然変わらないネウロがそこに居た。青白い蛍光灯が金色の髪を透かす。
その端正な顔には謎を見付けた時と同様心底愉快そうな笑顔が張り付いてて。
翡翠色の瞳は、今此処に無い、夜空の星みたいに輝いてて。
いつの間に?とか、今まで何処に?とか、今更何なの?とか、後に続く言葉は全て、声にならなかった。
膝から力が抜け、その場に座り込んでしまう。
コンクリートのザラザラと冷たい感触と温度が、じわりと剥き出しの脚に伝わって来る。
感情と身体が自分で統制できていないという状況は今も同じ。それでも、さっきまでとは明らかに違う。
私は呆然とネウロをただ見上げていた。
「……アンタ、今まで何処行ってたんだ?」
笹塚さんの声に、助手の笑顔を作って振り返る。
「いえ、一人で捜査していた事件が有りまして――」
頭の上で続く会話。ぼんやりそれを見上げる私。心配の視線を投げかける笹塚さん。
なんだろう、この状況は。
感情の爆発で麻痺した頭で思う。
「先生の手を煩わす程で無いと思ったんで、連絡しないで出掛けてしまいまして――」
「だからって三年は有り得ねぇだろ……弥子ちゃんに連絡の一つ位、してやれなかったのか?」
――笹塚さんは、こいつが居なくなってからいつも、私の事を心配してくれていた。
さっきは、ごめんなさい。また、勝手な事して迷惑かけてしまって……。
「いえ……実は余りに夢中になったせいで忘れてしまってて」
……やっぱり、久々に会おうが変わらない。こいつはこういう奴なのだ。
我が儘で自己中で……なのに何でか憎めない。
黙って居なくなった後も、私はこいつを完全には嫌いになれなくて。
……だから、苦しかったのだ。
精神と肉体に染み付いた「ネウロ」という情報や価値観を駆逐することができなくて。
笹塚さんは大分呆れてる様子だ。
そりゃそうだろう。正直な話、私だって呆れている。
「それより笹塚刑事、犯人を確保しなくていいんですか?」
「あ……」
その言葉に私も振り返り、犯人の方を見た。
あの女の人は、瞳孔を見開いてカタカタと震えている。
背後から聞こえた舌なめずり。私は横目でネウロを睨む。
……こいつ、いつの間に『喰った』んだろう?
笹塚さん達がそちらに行ったのを確認して、ネウロはまた私の方に近付いてきた。
「貴様は何年経っても進歩が無いな……」
そう言って、胸元をはだけたままの私の肩に、パサリと上着を掛けてくれた。
――そんな暴言さえも懐かしい。
なんて言ったら、あんたはどんな顔をする?
そんな嘘臭い一言。でも、それを言うネウロの瞳には、本気の色が宿っていた。
それだけで……たったそれだけの事で、涙が溢れて来た私を、
ネウロにしては珍しく、優しく頭を撫でて、抱きしめてくれた。
ずっと忘れていたネウロの感触……今まで水で一杯だった心が、涙になって押し出された水の代わりに、
別の温かな物で満たされて行くのを感じた。
――私がそれでも探偵を続けた理由。それは凄く簡単で単純な事なんだよ。
――ただね、もう一度会いたかったんだ。私の一番愛する人に。
ある時に見た夢の内容
(恋人と生き別れ、色々と世間の荒波に揉まれて来た女がこの度女優デビュー。
女は演技中にアドリブに見せかけ「あの人は私の事なんて覚えて無いだろうけど、
私はもう一度会いたかった!!ただそれだけの事なのよ」と仕事干される覚悟=自殺する覚悟で胸中を告白。
事情を知っている彼女の友人は号泣。そこへ偶然その恋人が来て……という話のアニメ)
が、何故か元になっています。
……それぞれの位置関係の矛盾は無視でお願いします。