螺旋に回る階段の下。本を片手に男が一人。
下から二番目の段に座り、手摺りに凭れて頬杖をついて本を読んでいる。
パラパラと、精密な機械のように一定のリズムでページを捲る黒皮の手袋。
時折本から顔を上げ、暗く翡翠色の瞳を潜めては背後に続く階段を見上げる。
「ちょっと着替えて来るから、待ってて!!」
少女がそれだけ言って、返事も聞かずに階段を上がっていってからは、大分時間が経っている。望む足音は未だ聞こえず、男は苛立ちを募らせていた。
玄関ホールから見える青空を、横切る二匹の蝶。戯れるようにじゃれあって、黄色い羽がひらりと揺れる。
平和でのどかな昼下がり。どこまでものっぺりと続く「退屈」と「空腹」の原風景。
男は欠伸を噛み殺し、窮屈に曲げていた体躯を伸ばし、両腕を持上げ軽く伸び、緩慢な仕草で腕を下ろした。
――途端、紙切れのように風に乗って空中に四散した、鮮やかな黄色い羽。
「ふむ……」
それを何の感慨も無く一瞥し、手の中の本に視線を落とす。
一度読んだその本を、もう一度読み返そうと再び開いた。その時。
カン、カンと軽やかに鳴る金属音が頭上から聞こえ、振り返った。
最初に見えたのは、ヒールの高いミュールと、スラリと伸びる華奢な脚。
更に目線を上げて見遣れば、膝上で揺れる柔らかな素材のスカート。
彼女が制服を纏うことが無くなり約数週間。
華奢な体躯に私服を纏った、見慣れた筈の、未だ見慣れぬ少女の姿に彼は思わず目を細める。
少女は蝶が羽を広げるが如く、彼に答えるかのようにゆるりと屈託なく笑った。
「待たせてゴメンねっ、ネウロっ」
しれっと歌うように囁かれた言葉には、反省の色は全く無い。腹立たしい程に。
「ヤコ……」
「なぁに?」
「我が輩を待たせるとは…貴様いつからそんな偉くなったのだ?」
軽く上げた右手でいつものように、ギリギリとその小さな頭を掴む。
「も〜謝ったじゃんっ、そんなに怒らないでよぉ〜っ」
口を尖らせそう言う弥子からは、普段より些か余裕が感じられる。
ネウロはそれが面白く無く、掴んでいた手をあっさり離した。
「…たまにはさ、レディ〜らしく振る舞ってやろうと思ったの」
普段よりもあっさり終わった攻撃に、弥子は驚きの表情を浮かべた後、
また振り上げられた右腕から頭を両手で庇い、拗ねたような口調で呟く。
「ほう」
それを呆れたような顔で聞いていたネウロは、ふと何かを思い付いたらしく、にぃっと人の悪い笑みを浮かべる。
「なっ……何よっ!?」
その笑みの示す所をよく知っている弥子は、更に身を硬くし、後ろに一歩後退る。カン、足元で鳴る金属。
魔人は階段から立ち上がり、冷たい翡翠色の目で怯える弥子を見下ろして。
「ひゃっ!!」
思わず目を閉じ顔を背けた弥子の足元にひざまずき、そっと右手を差し出した。
「お手をどうぞ、お嬢様」
「え……えぇっ!!」
そのまま顔を上げ、一人混乱する弥子をちらりと一瞥し、またさっきの笑み。
「笑わせるな。この程度の事で動揺して何が淑女だ」
冷笑と共に浴びせられた一言に、弥子は顔を歪める。
「うっ……解ったわよっ!!」
一体何処からこういうどうでもいい知識を吸収してくるのだろうか……。
弥子はため息を一つ吐き、昔見た外国の映画を思い出しつつ、膝を折り、
スカートの裾をぎこちなく摘み上げた。
「で…では、お願いしますわ……っ」
自身の吐いた言葉の違和感と羞恥に頬を染めるその様を、普段から猫を被りなれた彼は内心で笑って。
「はい、喜んで……」
そっと、右手を差し出した。
その時、いつもより優しく、階段の温度がうつってひんやりと冷えた黒手袋に包まれた右手の指先が
少しだけジンジンと痺れたのは……悔しいからずっと内緒にしておこう。
丁寧にピンクに塗った指先を、春の陽光に透かしながら、弥子はそう心に決めた。
あの時、恐る恐る差し出されたその細い指先とそれの持つ心地よく温い体温に、
手袋ごしではなく、直接触れてみたいなどと思った事は……この奴隷には絶対言うまい。
理由等、自分でもついぞ見当が付かないが。
未だ温かさの残る掌を見つめ、ネウロはなんとなくそう決めた。
ごっこ遊び第二段 (第一弾は「寝てる間に…」)。
ある日の夢(螺旋階段で暇そうに弥子を待っているネウロ)から着想。
この2人がこうしてしょっちゅう、子供のようなごっこ遊びしてたら笑えます。
大抵ネウロから始めて、弥子ちゃんが乗せられる感じだと尚良し。
ちなみに、この話の弥子ちゃんは大学生。多摩川の見えるアパートの707号室で叶絵ちゃんと二人で(ry
……勿論冗談です。