モカ珈琲はかくまで苦し。


思い知らされる苦さは、珈琲のソレに似ている。


白い指はビッと音を立て、コーヒークリームの蓋を半分まで剥がす。
それをそのまま下に傾け、珈琲の入ったカップに注ぎ込んで行く。
プラスチックのカップから、トロトロとリボンのように垂れたクリームは、
ぐるんぐるんと、大げさな渦を巻いて、段々と黒い水面を侵して行く。
「何だか他人事で無いなぁ……」

俺の向かいに座る上司。桂木弥子はそう小さく呟いた後に
白いクリームの付着した右手の指をペロリと舐めた。
「んっ、やっぱりあまり美味しく無いや」

そう言って首を傾げ、正面の俺に向かって笑う。
そりゃそうだ。ただのコーヒークリームなんだから、勿論砂糖なんか入って無い。
俺みたいな奴でも知っているよーな事を、何で一々確認してるのか……。

カップの中の渦は段々混じり合い、黒や白とは全く違う、別の色になって行く。
それの何が面白いのか俺には分からないが、目の前のこいつは茶色い瞳を見開いて
未だにカップを凝視している。何かを見落とさねーようにしているかのように。

その沈黙が何だか気まずく感じて、なんとなく、頭上で回る換気扇のファンに視線を移した。
それは灰色の羽を回し、店内の淀んだ空気をゆっくりと掻き回す。
さっきからこいつが見ている水面のように。綺麗な物と澱んだ物とを掛け合わすような動き。
ぐるり、ぐるりと……。

「ねぇ、吾代さんっ」
ぼうっとしていた意識を、凜とした声が不意に呼び戻す。
「……コーヒー占いって、有るじゃないですか?」
視線を再び正面に向けると、弥子の目線は未だカップに注がれていた。
「あぁ、あれだろ?垂らしたクリームが何の模様に見えるかで占う奴」

詳しいことは知らねーが、昔誰かに聞いた事が有った。
どっかの女だか偶然会った同業者だか……とにかく、顔と声の無い、誰かの影絵。
そいつはもしかしてこいつと大して変わらない位の歳の、女だったんじゃねーか?なんて、
一瞬とはいえ気持ちわりィ想像を展開してしまった自分に腹が立つ。
「あのさ、動物の目が見えるのは、何の暗示だと思う……?」
はぁ?そんなの俺が知る訳ね―だろ!?と、いってやろうかと思ったが……やめた。

じっと俺を見るその目が、明るい口調とは裏腹に、妙に真剣だったからだ。
何だか無性に胸が苦しくなって、それを吐き出したくなった。煙草を咥えて火を付ける。
上る紫煙が淡く渦を巻く。くるり、くるりと。

コーヒーに垂らされたクリームのように。あの化け物の澱んだ瞳のように。
複雑な螺旋を描いて消えて行く。綺麗な空気を侵して、黒い水面に映り込んだ、あどけない女の顔を侵して――。

「さぁな、テメーが飲まれるべき、未来の暗示じゃね―の?」

少し間を持たせた後、煙と共にその一言を吐き出した。適当な上、臭い事言ったが、多分外れてはねぇと思う。
弥子は、驚いたように一瞬目を見開いた後、クスクスと笑い出した。
「吾代さんは物知りですね――」
……相変わらず、一々腹の立つ笑い方だ。俺の出す答えを予め知っていたかのような。
「物知りついでにもう一つ当ててやるよ」
俺は灰皿に煙草を押し付け、意地悪く笑ってやった。あの化け物助手ぐらい厭らしく唇を歪めて。
「てめ―に見えたのは動物の目じゃなくて――」
ここで一回言葉を切って、きょとんとする少女の顔をじっと凝視する。
「――あの化け物の目、だろ?」
きょとんとしてた弥子は、ゆっくり俺に視線を合わせると、プッと盛大に吹き出した。
「…ぁんだよ!?」
「本当にすごいね吾代さんは。うん、全部当たりっ!!」
そう言って、きゃっきゃと無邪気に笑う。俺は何だか気恥ずかしくなって、弥子から目を反らした。

「……でも、一つだけ外れ」
突然声の調子が変わる。カチャカチャと、カップにスプーンの当たる音が響く。
「未来は占うまでも無く、もう、見えてるんです」
カチャンと、ソーサーにスプーンが置かれる。
弥子はカップを持ち上げて、中の液体をぐっと一気に飲み干した。
「……まぁ、素直にその通りになるつもりは……無いんですけどねっ」
にっと笑った弥子の唇の端をつ―、と液体が伝い、それを紅い舌がペロリと嘗め取る。
その表情は実際の年齢よりも大人びていて、酷く艶やかに見えた。
「あ……」
俺が声を出そうとした時、タイミングを計ったかのように、テーブルに置かれた弥子のケータイが鳴った。
弥子は素早くそれを持ち上げ、俯いて画面を開く。
「あ―呼び出しだ……」
そう呟いて上げた顔は、いつものあどけない表情に戻っていた。
「んじゃ、帰りますね。あ、コーヒご馳走様でした」
そう言い立ち上がると、横に置いていたカバンを掴み、走り出す。
「あ、おいっ!!」
咄嗟に呼び止めると、ぴたりと立ち止まり、淡い色の髪を揺らし、キョトンとした顔で振り向いた。
「……またな」
片手を軽く上げてそう言うと、
「ハイッ!!」
と、元気良く返事して、また走り出した。

その場に残されたのは、俺と、空のカップと、さっきまで座っていた少女が付けてた香水の香り。
ふと、さっきのコーヒーの渦を思い出した。ついでに、弥子の大人びた横顔も。
日々、あの化け物に犯されてんのな。
……次に会った時も、あいつはまだ「弥子」でいるんだろうか?
「あ"―クソっ!!」

その阿呆な考えを、すっかり冷めたブラックコーヒーの苦みと一緒に飲み込む。
冷たい苦味が胃を焼いて、余計な不快感が込上げた。


吾代がサッサと煙草消しすぎです。大変勿体ない。
全国の吾代ファンにこの場で謝罪したいです。……ご免なさい、精進します。


date:2006.02.12



Text by 烏(karasu)