あぶくのように


*例によってパラレル。お互いの種族逆転。

人間は、よく解らないよ。


窓明かりが薄青く、清潔に磨き上げられたリノリウムの床を照らす。
月明かりの中、青く染まった長い廊下。
その漠然と白い壁には、外を吹く風に煽られ、ゆらゆらと波のように揺れる街路樹の葉陰。

何だか、とても深い海の底に沈んでいるみたいだ。と、
壁に寄せられた、鯨の背のように大きく黒い長椅子で、膝を抱えて座っていたヤコは思い、
思ってから――そんな抽象概念が自分に存在していた事に少し驚いた。

伏せていた顔を上げ、目前のドアをぼんやりと見上げる。
月明かりの暗い海の中、獲物を狙う怪物の目のように、ポッと一つ燈ったパネルには、『処置中』の文字。
その怪物が飲み込んだのは、ヤコに初めて、暗い灰色でない海を教えてくれた人間で。
魚の腹のように鋭く光ったナイフと、直後に流れた鮮血の色を思い出し、つうっと背筋が寒くなる。
ブルリと一つ身震いをし、更に強く両膝を抱えた。
既に治り始めているらしく、右腕の傷はもう痛まない。
「ねぇネウロ、あんたは…何で私を庇ったりしたの?」
呟いた言葉は、誰もいない廊下に小さく響いた後、水に溶ける泡のように、儚く消え行った。


そりゃ、あんたと比べたら、私の力は凄く弱い。
ついでに最近、怪我の直りがちょっとばかし遅いけれど、
それでも、体力や快復力の類なら、私の方が絶対有る。
いつも私の事をいじめて、沢山の傷をつける癖に。
何で自分の付ける痣や擦り傷は良くて、犯人付けたこんな――こんな小さな切り傷は駄目なの?
……あんなちっちゃなナイフくらいじゃ、
たとえメッタ刺しにされて魚のようにお腹を抉られても、私は簡単に死んだりしないのに。

ねぇネウロ、こんなに沢山の『謎』が有るのに、全然お腹が空かないんだけど。
何かさ、お腹にさっき食べた『謎』の代わりに、冷たい塊が詰まってるみたいに。
あんたはさ、凄く物知りだから原因が分かるかな?
ねぇネウロ、いつもみたく教えてよ。馬鹿とか豆腐とか、役立たずって呼んでも、鼻で笑ってもいいからさ。

こんな暗い海の中で、あぶくになって消えたりしないで。
あんただけは、消えちゃった私の故郷みたいに、私を真っ暗な海の中に置き去りにしないよね。
いつもみたいにさ、迎えに来てくれるよね。
物知りなあんたは知ってるかな?
知らない場所に一人は……凄く、すごく怖いんだって。
悔しい事に、あんたがいないと不安で怖くて……一人だと、何処にも行けない。だから――


「独りに、しな、でよ……っ」

震えた喉から漏れ出た鳴咽が、海を吹き抜ける風のようにひうひうと響く。
自分の意思と関係無く大きな茶色の瞳からボロボロと溢れる塩辛い雫を、
ヤコは桜貝のような爪をした細い指で必死に拭うが、
後から後から溢れる雫は、上気した頬を伝い、顎の先から抱えた白い膝の上に落ちる。

これは一体何なのだろう?と、ぐちゃぐちゃに混乱した脳でぼんやり思う。
また一つ『謎』が増えたのだと、こんな時でも冷静な脳の一端が知覚する。

けれども底無しの筈の食欲は一向に湧かない。
食べられる物がこんなに沢山有るのに全く嬉しく無い。
ただ苦しくて、それが何故なのか分からない事が、もっと苦しくて。

鼻をすすりながら、どうにか顔を上げた時、濡れて滲んだ視界の端で赤い色がフッと消えた。


幼い頃から敬愛する童話作家、安房直子先生の作品を思い出しつつ。
あらゆる物を海に例えるのがとても楽しかったです。
ネウロの怪我は全く大したこと無いです。泣き虫なヤコちゃんが書きたかっただけです。
多分この後暫く、ヤコちゃんはネウロにべったりです。買い物でも何でもくっついて歩きますよ。


date:2006.04.09



Text by 烏(karasu)