最低の終わりに、最高の生存


本誌に間に合わなかった第78話時点の妄想+第79話前半の展開
ある意味ではパラレル設定。

一緒に消えるのは、嫌だ。


完全な覚醒を待つ余裕もなく、程なくして聞こえたエンジン音と強烈な重力によって再び頭から、全身を強かに床へと打ち付けた弥子は、
一刹那ほど人事不省に陥りかけた意識をかき集めて何とか体制を立て直し、床に膝をついたままで座席に突っ伏せるようにして半身を預けた。

革のシートに押しつけた身体には濡れた制服が隙間なくべたりと張り付いて、絶えず不快な湿気を伝え続け、
放り込まれた時とついさっき、勢い良くぶつけた頭は2カ所ともズキズキと疼き、そのせいか、上手く思考がまとまらない。

つっぷせたまま顎を乗せ、視線だけで見上げた青みががったフィルターの貼られた車の窓には、林立する高層ビルによって縁をギザギザに切り取られた、濃度を増した夏の青空と、その縁から顔を出す入道雲とがあった。

あぁ、今日は絶好のドライブ日和なんだなぁ……と、鈍痛と共に、未だに混濁した意識の中で弥子はふと思った。


――幼い頃、こんな天気の日は、両親に連れられてよくドライブに行った。

彼ら二人が同時に丸一日の時間が取れることは不可能に近かったため、車で行ってすぐ帰ってこれる程度に距離の有るスーパーやデパートでの買い出しが主だったが、
それでも弥子は、幼いなりに短い遠出と両親が共に揃ってくれているということの嬉しさを十分に楽しんでいたように思う。

弥子の席は必ず後部座席で、助手席には母親が座り、運転は父親がしていた。

はしゃいで疲れた帰り道、後部座席のシートに丸まって微睡みながら今のように窓を見上げ、車の軌道に合わせてくるくると旋回して流れて行く、空や景色を見るのが好きだった。

しかし、それにもそのうち飽き、眠い目を擦りながら寝返りをうつと、前の席で睦まじく囁き合う両親の後ろ姿が視界に入る。

子どもなりに気を利かせ、瞼を閉じて完全に寝入った振りをしながら、自分の存在に関係なく続く楽しそうな笑いと囁き声を、嫉妬や疎外感の入り混じった複雑な気分で聞いていた。
そのうちに寝入ってしまい、次に目を開けた時には、真っ暗な自室に一人きりで寝かされていた日もあった。

そうした時は一層の孤独感を感じ、自分も大人になったらいつか、あっちに座ってあの「大人の話」に混ざる事ができるのだろうか?
などと考えて、寂しい夜をやり過ごした。

そんな機会が訪れる間もなく、その頃の小さな自動車が寿命によって廃車となったその頃にはもう、そんな幼い願望などは忘れ去っていた。
両親は益々忙しく、弥子も自分の用事に時間を割かれるようになり、家族揃って出かける習慣もいつの間にか無くなって。

そうして今では、運転する人間のいなくなった車は殆ど使われることなく家の車庫に眠っている。
家計のことには比較的よく気の回る弥子の母親のことだ。
近いうちに売りにだされ、そうして得た利益が結果として、食費という形で弥子の胃袋に収まるのも時間の問題のように思う。

そうやって思い出を少しづつ咀嚼して胃袋に――自身の身体の中に収めてしまうを、もしかしたら「生きる」と呼ぶのかも知れない。


(そういえば、誰かの車で出かけるのって、凄い久しぶりだなぁ……。)

その折角の『久しぶり』が何でわざわざこんな機会に、しかも緊迫した命のやり取りを連れて訪れてしまったのかという、再び目眩を起こしそうな絶望と、
そしてよりもによって、その相手がこいつなんだという冷たい嘆きが、やっと記憶の糸を繋ぎ終え、意識がはっきりし現状の飲み込めて来た弥子の唇から重い溜息となって零れ落ちる。

「全く……無駄に元気そうで何よりだな」

こちらに負けないほどのめんどくささをにじませた、嘆息混じりの声に身体を起こし振り返ると、ミラー越しに「よりによって」の相手の、柳眉を潜めた新緑と視線が合った。

「ガソリンの臭いで胃がムカムカして服がべたべたで気持ち悪くて、あんたの荒い運転のせいで体中痛いけど……なんとか、ね」

怠い身体をどうにか動かし、半身を起こして座席へと座り直す。視界が変わったことで、ミラーには端正な顎のラインとぎざぎざとした牙の並んだ含み笑いの口元が映る。

「フン、それだけ無駄に口が回るのなら何の心配もいらぬだろうに。その上、貴様の為にわざわざ安全運転を心がけてやっているというのに」
「……ハイハイ、ありがとーございますッ!」

前方のシートに両手を置いて身を乗り出す。
掌に触れる布地の心地よさと適度な柔らかさに、この車の持ち主への罪悪感を僅かに喚起させられながらも、
ネウロの肩越しに前方を見、ミラーを見上げて今度は背後の――意識して見ようとしなかった、空より下の道路に目を留める。

流れる灰色の地面を覆うようにして這う人並みがその数を減らすどころかどんどんと増やしていく事実に、目の前の事態が相変わらずの緊迫感を伴って展開していることを実感し、知らずに掌を握りしめた。

追っているのか追われているのかも、よく分からない奇異な状況下は未だ続き、もしかしたら既に追い詰められているのかもしれない。
最悪の場合、ここでこのまま捕まって、弥子の場合は死ぬ事だってありえるのだ。

「あんたと心中だけはやだよッ! 絶対……死んでも死に切れないから」
「それはこっちの台詞だ。いいから離れろ。ガソリン臭いカメムシめ」
「……自分でやっといて普通言う?」

なのに、いつものやり取りを繰り返し、苦笑とはいえ、思わず笑いまで込上げてくるのは一体何故なのだろうか。
意識を失いかけたついさっきまで、不安に叫び出しそうになっていたというのに。

普段から飄々とした態度の魔人はともかくとし、弥子に関しては、ここまで連続して起こったあらゆる出来事によって精神が許容の限界を迎え、原始的な死への恐怖さえも突き抜けてしまっただけなのかもしれない。

――でも、それでいいのだと思う。

するり。弥子はシートの後ろからネウロの肩に両腕を回し、その肩に顎を乗せるようにして更に身を乗り出す。
ブラウスの袖から伸びる華奢な剥き出しの腕はやはり、その身体に回しきれない。その下に有るのは触れ慣れた青い上着の感触。
その下からは、ハンドル操作の度に緊張を伝える筋肉の動きが伝わる。

加速の度に前のめりになり、シートに押しつける身体。大きく傾き倒れそうになり、思わず回した手の先の首のスカーフにすがりつく。
息苦しさにか小さく飲まれる息。ひくりと動く首筋。
――呼吸をしている生き物。もしもここで遺したら――遺されたりしたら、悲しさと悔しさと後悔の余りに死んでも死にきれないと思うだろう程度には大切な。

「ねぇ、ネウロ」
「……何のつもりだ、この寄生虫が」

蠅でも追い払うように、煩そうにパタリと目前で振られた大きな手と、心底迷惑そうな声の返事。
しかし、ミラーに映るその瞳に嫌悪の色がないことは許容の現れのようにも感じる。

少し迷い結局、魔人の詰るとおり、その身体に虫のように縋り付いたままで弥子はさらに囁きを返す。

「これが終わったらさ……帰りは助手席に座っても、いい?」
「ム……」

少しは大人になったから、今度こそ対等な位置に居たいから。などという、子供じみた本音は言わずに留めた。
それでもある程度は伝わってしまったようで、横から見上げた笑みが深まる。

「……それ位の願望、聞いてくれたって別にいいでしょ?」
「さぁて、どうしたものか」

羞恥で熱の上った頬を隠す為に、回していた手の力を少し強め、ハンドルを握ったまま何やら思案している様子の肩口に顔を埋めた。
「ちゃんと、二人で生きて帰れるように頑張るから……」
「まぁ、特に期待はしていないがな」

せいぜい足掻くが良い、という言葉と共に頭に置かれた手の意味を、今の弥子はまだ知らない。


BGM:「DRIVERS HUGH」(L'Arec-en-ciel)+色々と雑多に。

「ネウロが弥子を助手席に乗せなかったのはきっと、
アレ(バイクや飛行機の操縦シーンでヒロインが後ろからぎゅっと縋り付く図)がやりたかったんですよ!」
と、当時から交流の有った、感想書きの皆々様に主張したかった作品。アニメでHAL編が終わったのでサルベージしてみました。
79話でいきなし緊迫したカーチェースが行われると思わなかったので、刹那の時間をコマ送りにしたようなのんびりした構成で、殆ど芯だけ残した書き下ろしな感じです。

その上、その次の号で「衝撃から守る為」という立派な理由まで出てしまったというがっかりぷりを発揮。


date:2008.02.18



Text by 烏(karasu)