年の始め、事務所に顔を出した吾代が「お年玉代わりだ」と、弥子に手渡したのは1個のぬいぐるみだった。
今年の干支である猪を象った物で、丸い身体の直径はだいたい60センチ程。
毛足の長い茶色の布で出来た、恐らくパチンコの戦利品らしき、いかにも安っぽい作りのそれを、この幼い少女は何故か大層気に入ったようで。
その日以来、遊ぶ時は勿論の事、食事や睡眠時までも傍らに置いて、ついには名前まで付けて可愛がっているのだった。
そして今、こうしてソファにうつ伏せて気に入りの絵本を読んでいる間も弥子は胸の下にそのぬいぐるみを挟みこみ、クッションのようにして圧し掛かっている。
ソファの上にべらりと広げられた、恐らくは殆ど読めない文字の連なりで構成されているだろうそれを、一生懸命に追う目と、あどけない真剣な横顔。
少女曰く、「ごほんをよんであげてるの!」だという。
それを、パソコンへの入力作業の合間に目の端で捕らえた魔人は僅かに眉を顰める。
こうして一人で大人しく過ごしてくれているのは、構う手間が省ける上に業務にも差し支えず、至極有り難い事で有る。 筈、なのだが。
最近の魔人は何故だか、弥子がこうしてぬいぐるみと熱心に戯れているのを目にする度に、軽い不快を感じるのだった。
その理由に自身である程度の見当が付いているのだから、「何故」という言い方ではいささかの語弊がある訳なのだが。
自身で気付くからこそ、悟られたくない。
こんな、余りに下らない理由などは。
溜め息とともに内に篭る嫌悪を吐き出し、少女が大人しい間に作業を終えようと再びパソコンの画面へと視線を落とす。
と、同時、みょんと持ち上がる前髪の先。
どうやら徒歩での移動が可能で有りそうな近場に謎の気配を感じ取り、静かに席を立った魔人は少女に声をかける。
「…ヤコ、謎だ。行くぞ」
「うぇ?……あ、うんっ!」
絵本を閉じ、魔人の足下へ素直に駆け寄って来た幼い少女は、先程まで胸の下に敷いていた丸いぬいぐるみを、何故かその華奢な腕に抱え込んでいた。
それが当たり前であるとでもいうように、そこに収まるソレに、魔人は軽い苛立ちを覚える。
「……それは置いて行け」
「えぇ−っ!いやだっ!」
腕に加えられた圧力により、楕円に近い形に潰れたぬいぐるみの頭に小さなおとがいを乗せ、弥子は不満げに頬を膨らまして見せる。
必死に睨み付ける余り、その腕に余計な力が入ったのか、ぷぎゅ―ぅ、と間抜けな声でぬいぐるみが鳴く。
負ける事を全く恐れない、生来より透明度を増した真っ直ぐな茶色の瞳と、その腕にしっかと抱えられた、作り物の漆黒。
自分を見上げるその眼に、形容し難い不愉快を覚え、魔人はそっと、本日何度目か分からぬ嘆息を漏らす。
しかし、その不快をそのまま表情に出す事はせず、ただいつものように身を屈め、少女の頭に手を置き顔を覗き込むだけにおさめた。
その幼さ故に、折れるという事を知らない今のこの少女に対してだけは、
いつものように下手な力技に出た場合、かえって状況が悪化する事の方が多いのだ。
「捜査や移動の、邪魔になるだろう?」
「ならないっ! おんぶするのっ!!」
「……血や泥に塗れて汚れたらどうするのだ?」
「う……、へーき! いっしょにおふろにはいるのっ!」
いつもなら簡単に屈する揺すぶりにも、少女は唇を引き結び、頑として譲らない。
一体そんな物の、何がそんなにも良いのだろうか?
弥子は「可愛い、可愛い」としきりに言うが、そもそもが、そのように抽象的な思考を理解するよう出来ていないネウロには何を以って「可愛い」のかがどうもよく分からない。
観察でもしてみれば分かるだろうかと、以前少女が昼寝をしうていた隙に奪い取ってみたことも有る。
しかし、見れば見る程に分からなくなり、寧ろ最初に感じた悪寒が段々と強くなるばかりだった。
茶色くごわごわとした毛。体格の割に小さな耳とつぶらな丸い瞳。その丸々と肥えたような形状もまるで――
「………グ、」
思考の辿り着いた先、連想した生き物に軽い悪寒を覚える。
その僅かな動揺を敏感にも感じ取ったのか、少女は魔人を見上げたまま、きょとり、と首を傾げた。
ぷぎゅ―う
腕の中、再び上がる鳴き声。
こんな、幼い人の子たった一匹にこうして煩わされる魔人を、馬鹿にし、嘲笑うかのような。
そう、そもそも何故、こうして程度を合わせてまで馴れ合ってやる必要が有る?
「……もうよい」
弥子と合わせたネウロの瞳から、不意に色が褪せた。
普段魔人が、自身の興味の対象外でない物にだけ向ける視線。
今まで向けられた事のない冷たい翠にじっと睨まれ、弥子はわずかに怯え、小さく身を震わせた。
魔人はそんな少女の頭から手を離してスッと立ち上がる。
「そこまで、出かけたくないのならばもう良い――ソレとアカネとで、ここに残れ」
人形を腕に囲ったまま、呆然と自身を見上げる少女の横を擦り抜け戸口にへと向かう。
ぷぎゅ、また小さく上がる鳴き声。
何故ソレを、そんなに必死になって抱き締める必要があるのだ。
たかが合成繊維の固まりの何に貴様はそこまで引き付けられる?
我が輩は何故――こんな脆弱で矮小な生き物に、ここまで心を砕くのか。
「……ね−ろ?」
「……大人しく留守番していろ。貴様のように扱い辛い家畜を悠長に連れ歩く程には、我輩、暇でないのだ…」
魔人はそのまま振り返る事無く、背に張り付いた不愉快と――縋るような視線とを振り切るように扉を閉めた。
そんな、数刻前の聊か大人気無い自分の所業を思い返し、ほんの僅かな気まずさを感じながら、魔人はそっと事務所の扉を開ける。
一歩踏み出すその足元に何故か転がっていたのは、小さな四肢を天井に向けて仰向けになった件の猪。
持ち主である少女はと探せば、小さな身体を更に縮めてソファの上に丸くなり、子供用の毛布に包まり、すうすうと寝息を立てていた。
『寝付くまで大変だったんですよ』と、普段は綺麗に整えられている三つ編みの毛先を、若干乱した秘書が言う。
あかねの話によれば ネウロが出て行った後、ソファに蹲って暫し拗ねていた弥子は唐突に、「ねうろをおいかける」と言い出して出て行こうとしたのだという。
それを、彼女が身振りで止めようとした途端に泣き出して、
とりあえずは再びソファへ座らせ、必死に説得して宥めているうちに、こうして泣き疲れて眠ったのだという。
『貴方が、もう帰ってこなかったらどうしようって、心配していたみたいです』
魔人は無言で足元に落ちていたぬいぐるみの、耳の先を摘まんで持上げる。
『そのぬいぐるみも、その時に。思い切り、壁に投げつけたんです。 ――ここに置いて行かれたこと、相当こたえたみたいですよ』
あかねの説明を聞きながら、魔人は少女に近づいた。
少し赤くなった頬には若干残る涙の跡。なんとなくふにふにとした質感のソレに指で触れてみる。
「ん〜ぅ……」
余程深く寝入っているらしく、起きる気配は全く無い。
それを良い事にそのまま手で髪を軽く梳き、残った涙の跡を拭い――と、好き放題にしていた所でふと、
もう一方の手に、拾い上げてたまま持っていた物を思い出した。
ネウロはぬいぐるみを見下ろし暫し逡巡した後、パン、と両手で挟み込む。
急激な圧力を加えられたそれの鳴き笛が、ぷぎゅ〜と情けない声を上げる。
「まぁ…良い。今日のところはこれで許してやろうか……」
彼の嫌悪する生物の面影を僅かに宿した。
溺愛する少女の興味と愛着とを、一時とはいえ奪い取った。
そんな、不細工に潰れたぬいぐるみと視線を合わせ、魔人は子どものように笑うのだった。
その後、午睡から目覚めた少女が、いつの間にか枕元に置かれていたぬいぐるみや、テーブルに置いた、現場で会った刑事から託された貢物よりも、
魔人の帰宅を一番に喜んだ事で、ネウロの機嫌は更に向上したという。