春の味覚


桜の苑

開いた窓から温かな風がふわりと流れ込み、室内の空気が微かに揺れる。
その空気の中に、春特有の甘い匂いをほのかに感じ、弥子は思わず目を細めた。
壁際の机に置かれた洗面器。その水面に着地した一枚の桜の花びらを
それと同じく桜色をした細い指先で摘み上げる。
「もう春なんだ…どおりで最近暖かい訳だね」
弥子は笑って、手の中のあかねに話しかける。
洗面器で濯がれていたあかねは『そうだね』と、水中で金魚のように毛先を揺らした。

「ふむ、人間とは気温で季節を感じる事が出来るのだな」
弥子の背後に有る机で本を読んでたネウロが、関心したように声を上げる。
「え、あんたはそうじゃないの?」
あかねをタオルで拭きながら、肩越しに弥子が振り返った。
「……「一億度の業火に耐えられる」という事は、それだけ周囲の温度変化には疎いと言う事だ。それに――」
パタンと机に本を置いて、軽く延びをする。その動きにつられて、椅子がギッと小さく軋む。
「――魔界に四季等という物は無かったからな…」
何処か遠くを見る翡翠色の瞳。その目前にはきっと、この魔人にしか見えない故郷が広がっているのだろう。

「……」
 弥子はあかねを三編みにしながらその様子を見、そして考えた。
春の暖かさを知らない者に、春を教える方法を。
三編みを作り終え、あかねの毛先を桃色のヘアゴムで止めた時、ふと、ある一つの方法を思い付いた。
 ソファに歩み寄り、脱いだままになっていたブレザーのポケットからいそいそと、何かを取り出す。
取り出した物は今朝コンビニで買った、桜味のタブレット。手の平に一個出し、口に含む。
そして、また本の世界へと戻っているネウロの前へと歩いて行き、机に手を付き、
その端正な顔をヒョイと覗き込む。
「ね、ネウロ」
弥子の呼び掛けにネウロ気怠そうに顔を上げた。弥子はその首筋に素早く手を延ばし、下から唇を重ねた。
 普段ネウロにされるように、舌で軽く口腔内を撫でた後、ゆっくりとその唇を離す。
弥子は呆然とする魔人を見上げ、首を傾げて、ニッと笑った。
「どう?これが、春の味よ」
「……フン、馬鹿めが」

頬を撫でた春風に、感じる筈の無い暖かさを、魔人は確かに錯覚した。


無駄に甘くて、書いてて死にそうになりました。
「これが春の味よ」って、弥子ちゃんに言わせたかっただけです。
春は女の子を積極的にするのでしょう、きっと。


date:2006.02.14



Text by 烏(karasu)