結ぶよりも纏めるよりも。
昔から、ここ一番に集中したい時はいつも髪を編んでいた。
鏡の中で編み上がって行く毛束に、「さぁ、やるぞ!」という気分を重ねて段々と組み上げて行くのが好きだった。
――だから、だろうか。
こうして髪を解かれて行くと、色々なものが溢れ出て行く。
普段は気に留めない些細な感情、振り返る暇のない過去。
相俟な、記憶さえも――
追憶の合間、そっと浅い水面を見上げる。
きらきらと、日の光を返しながら弛う水面で揺れるのは、波に合わせてぐんにゃりと歪んだ、見慣れた景色と制服を纏った影。
まるで、此岸と彼岸との境を見上げているみたい。
ふと頭をもたげた思考。
その中に含まれた己への皮肉に、今ここに無い喉をクツクツと鳴らす。
いつも楽しげに彼女をからかう、彼のように。
じゃぶり。
遠い境界を越えてこちらに伸ばされるのは、女の子らしい華奢な両手。
彼女くらいの年の頃は、単純な三つ編みだけでなく、編み込みやフィッシュボーンなど形を色々と工夫して。
大人になり、しっかりとした仕事に就くようになってからは、邪魔にならず見苦しくない程度にまとめて。
最期の頃は、仕事が込み入っていたせいもあり、大低は今のようなお下げで済ませていた事を思いだし、最近になってたまに、ほんの少しだけ後悔してみたりもする。
開いた窓から入り込んだ春風が浸る水面にふわりと一枚、薄桃色の船を浮かべた。
そういえばもっと幼い頃、この季節だけはわざと、自慢の髪が靡くような、
シンプルなヘア−スタイルにしていたっけ。
思い起こす、新学期の始まった頃。普段よりか軽いランドセルを背負って走る帰り道。
真っ黒で艶やかな髪を、甘い匂いの春風に波のように揺らしながら。
あかねちゃんは、とても綺麗な髪をしているのね。
あかねちゃんって……あの、綺麗な髪の子?
この季節に初めて出会った人々の口から、そんな言葉を引き出す瞬間がとても楽しくって。
褒められるという事からの純粋な快感に。
まだ顔も名前も相俟なクラスという集団の中でも、その特徴によって真っ先に目が止まり、はっきりと識別して貰える事の嬉しさに。
そうやって、歳相応に幼かった自尊心を満たしていた、優しい季節。
その、賞賛の言葉たちが素直に胸の内まで届く事が少なくなったのは、
それ自体をあまり必要としなくなったのは――心が大人になったのは、一体いつの頃なのだろう。
きっと、それこそずっと遠い。遠い遠い、生前の――
弛う花びらに触れようと水面近く伸ばした毛先が届くより早く、私の身体をなぞっていた指がそれをつまみ上げた。
それでも構わず私は進む。
頭上で揺れる光へ、『あちら側』へ。
*
ざぷん、薄い境を越えて、スイッチを入れたかのように戻って来る五感。
真っ先に視界へと入ったのは大きな瞳を更に大きく見開いた、ブラウスの裾を肘まで捲った弥子ちゃんと、その指先に乗った、一枚の桜の花弁。
それから、最近になって漸く見慣れ始めた、リフォームされ、以前よりも綺麗になった室内と、開いた窓からの肌寒い春の風。
その窓を背にして机に片肘を付き、弥子ちゃんの狼狽ぶりにくつくつと、愉快そうに喉を鳴らすネウロさんに。
「ごめん、もしかして、寝ちゃってたの……起こした?」
遠慮がちに聞いてくる声に、ふるりと身を捩り、否定の意を示す。
「そう? なら良かったぁ」
小さく吐かれる吐息を聞きながら、ぬるま湯の張られた洗面器から全身を引き上げる。
「一応すすぎは終わったよ。今日はいつもみたいに、ドライアーかける?」
ぽふん、と包み込まれる柔らかなパイル地のタオルに身を預けながら毛先を上げて、『大丈夫』と、一言ホワイトボードに書き綴る。
『今日は、自然の風で、乾かしたい気分なの』
「そう? んじゃ、今日はコレで完了っと!!」
タオルと一緒にパッと両手を外された瞬間、吹き込んだ風に流され、しゃらりと鳴る私の毛束。
わぁ、という歓声と、ほう、という溜息に、ちょっと得意な気分になる。
「やっぱり、あかねちゃんの髪って綺麗だよね! ねぇネウロ!!」
「うむ。…………ハァ―…」
「……あからさまにこっち見て溜息付かないでよね。……そりゃあ、自分でも分かってるけどさぁ……」
「全くだな」
「フォロー無しかよ……」
――子どものように無邪気な人達に甘え、かけられる言葉にも、子どものように素直な反応を返して。
私はしばらく、こちら側にいようと思う。
書いたのは今年の5月頃。「春の味覚」に繋げようとして別の方向へ行った話。
髪の毛の一人称、というのは動きを書いてて結構楽しかった。