冬の林檎と寒い夜


06年度、「いい夫婦の日」記念SS(しかし、遅刻)

憶測はどこまでも――


 ――林檎が、積まれていた。
 派手なネオンが照らす夜の繁華街。
角にある八百屋の店先に、妙に明るい空の、見えない星を目指すかの如く。

通りがかり、ふと目に入ったその色に、吾代は思わず足を止めた。
店先に吊された、安いオレンジの豆電球に照らされた、凛と張り詰めたその赤は幼い頃、あまり裕福ではなかった吾代の家では唯一手に入る果物で。

深夜、呑んで帰って来た親父が酔った勢いで買って帰って来るのを、それはそれは楽しみに――

「すみませんっ、それ全部下さいっ!」

心にわいた甘い郷愁を打ち消すように、聞き慣れた甘ったるい声が至近距離で響いた。
しかも、かなりとんでもない事をほざいて。

嫌な予感に思わず、条件反射で固まる身体。

――いや、まさかだろ? つ−かこんな時間にいる訳……。

恐る恐ると見下ろした視線の先で、予想した通りの小柄な身体が、恐る恐ると差し出された馬鹿みたいに大きなビニール袋へと小さな両手を延ばし、嬉々として受け取っていた。



*


シャクシャクと、軽い音が澄んだ空気の夜空に響くのを、心底うんざり聞く吾代の横で弥子はマイペースに林檎を咀嚼する。

「ん、やっぱり季節の物は美味しいや!」

手袋を嵌めた両手に宝物でも扱うように乗せた赤い林檎。
その赤に負けないほど、頬を紅潮させ、白い吐息と共にうっとりと呟く様は正直、中々に可愛いと思う。

もしも、その右手にかけられた大きなビニール袋がなく、小さな手に包まれた林檎が、既に5個目でなかったら、だが。

「……つ−か、何でこんな時間に一人でこんな所出歩いてんだよ未成年」
「いや−何か急に林檎が食べたくなっちゃって。で、こんな時間に開いてるお店っていったら、ここら辺だろうな――って。

寒かったけど、林檎もスーパーで買うより安く買えたし、それに吾代さんにも会えたし……うん、結構得したや!」

そう言って、弥子は子どものようににたりと笑い、悪びれも無く言う。

「あ−…そりゃあ良かったな……」

本当、こいつはこういう行動や仕種を計算無しにするから困る。
クスクスと笑う声に内心の動揺を見抜かれたような気分になり、居心地の悪さをごまかす為に吾代は頭を掻く。

「つ−か、あの化け物は心配しねぇのか?」 「ん―、あぐっ。そろそろ吾代さんの退社時間だから、呼び付けて送って貰え……みたいな事は、んぐ。言ってたかも」

女が天然の無防備なら、野郎は天然のサドかよ……。
どうやら先程の「会えて良かった」というのは暗に「呼ぶ手間が省けて良かった」の意のようだ。

本当に、人の事何だと思ってんだよ、この化け物上司どもは!

背を丸め吐いた溜息に重なるように、カサカサというビニールの音。
そうして再び、シャクシャクと響く咀嚼音。
寒さに小さな身体を縮こまらせる姿はまるで小動物のようで。

……こういう生き物は体内循環が早い分、大型動物よりあったかいのだったか。
それとも身体が小さい分、体外に放出される熱も半端ないのだったろうか。

はるか昔、小学生の頃に理科で習った知識をふと思い返した時、くしゅん。と、
傍らから、狙ったように小さなくしゃみ。

「……なぁ、んな寒い日にそうやって冷て−もん食ってて、腹冷えねぇのか?」

普通に考えれば、温かいか冷たいか以前にまずは、その異常な量こそが問題なのだが、もはやお互い、そんな感覚は麻痺して久しい。

「あ―……っ」

何気なく振った話題なのだが、弥子は口から林檎を離し足を止め、何やら思案し始めた。

「あ? いきなり何だよ?」

思わず二、三歩追い抜いた所で振り返ろうとした時、

「――あまりお腹冷やしちゃいけないって、言われてたっけ……」
 

質問に対する答えの代わりに、耳に入ったちいさな呟き。
こいつ、腹でも壊したのか?いや、こいつに限ってそれはありえね−よな……。

そんな事を考えているうちに、弥子は小走りに走り寄ってこちらに追いつき、再び隣に並ぶ。

「えへへ……ごめんなさい」

と、吾代に向けて無邪気に笑った後に、
「……寒い思いさせちゃって、ゴメンね」

自身の腹部を軽く撫で、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。睫毛を伏せ、悠然と微笑んだ。


――その後数分は、吾代にとって本当に苦痛でしかなかった。

沈黙と凛と冷えた大気は人の頭を冴えさせ、無駄な――本当に無駄な想像力を与える。
急に大量の、しかも一定の種類の果物が食べたくなる、腹を冷やすなと言われた。……誰に?

それに――先程の言葉と表情。

冬空に星座を描くように、いくつかの点を一つの線で結ぼうとする思考。
どこまでも広がる憶測を、理性で妨げる。

会話でもして気を逸らそうかとも思ったが、今不用意に口を開くと余計な事まで話し出してしまいそうで、吾代はただ無言でいることしか出来なかった。

「あ、この辺でいいです。今日はこのまま家に帰るんで」

なので、弥子が住宅街の一角を指しそう告げた時には、心底安堵した。

「じゃ、また今度っ!」
「おう」

白く言葉を紡ぎ、手を振る弥子に背を向け歩き出す。
「送ってもらったお礼に」と、去り際、手の中に渡された林檎を噛りながら、どうも釈然としない気持ちを抱えて。


以上、釈然としない吾代さんの話でした。姿の見えないネウロさん、してやったりですね(笑)
どう注意を促して良いか分からなかったので、注意書きは無しです。
冒頭の林檎には、元になる短歌があったのだけど……内容も作者も、短歌自体も思い出せない。


date:2006.11.23



Text by 烏(karasu)