ミノタウロス笑う


年越しチャットから完成した、09年のお年賀代わりのSSです。どうぞご自由にお持ち帰り下さいませ。
※詳細、注意は文末に記載


 それが視界に入った瞬間、一体何なのか、弥子の脳は考える事を拒否した。
別れた夜中からたった数時間の、元旦の朝から事務所に呼びつけられるついで、後で焼こうと台所から掻っ攫って両腕一杯に抱えていた生餅のいくつかを、大きな音をたてて落としてしまう位に。

しかし、その音で『それ』はドアの前で立ち竦む弥子を振り返ってしまった。朝日の昇る大きな窓から。
「あぁ、遅かったではないか」

いつもの低い声と傲慢な視線。これは日付が変わって別れた時と同じだ。
しかし、その長身を包むのは手脚の部分の長さが若干足りていないジャージのような布地だ。

白地に大きな黒の模様、頭に被ったフードには小さな耳らしきパーツと、その耳と比率の合わない、布地から突き出た大きな山羊のような角。

仁王立ちした無駄に長い脚と脚の隙間、朝日で影を作ってぶらりぶらりと揺れている尻尾を思わせる紐は――ええと、何がモチーフだこれ?
「何だ貴様、まさか、昨日の今日で今年の干支も忘れたか?」

頭を乱暴に掴んだ手の感触と、視界を覆うように覆い被さる白黒の布地。
耳元で聞こえた声に弥子の脳が再び動き出した時には、全ては手遅れの方向に進んでいた。

休日だった為に私服で来たのと餅で両手がふさがっていることがアダとなり、両手を掴まれ強制的に万歳の形を取らされて。
コートと上に着ていた肩口の緩いセーターを引きはがされ、残ったキャミソールとニーソックスの上から、目の前に広がるのと同じ布地を被せられていた。
「うむ」
「わぷっ!」

相手は脚の付け根から首元まであるボタンをプチプチと手際良く止めて満足そうに頷き、仕上げとばかり、布地の背中にあるフードを目深に被せようとする。

咄嗟に抵抗を試みて、普段の青いスーツより温かくて肌触りの良い布に覆われたその肩を力一杯押した弥子の腕は、袖口をゴムで絞ったその布地に包まれていた。
「フハハ……よく似合うぞ! 流石は本場の家畜であるな」

真っ黒い手袋の手に満足そうにぽふぽふと撫でられ、滑り落ちそうになったフードを両手で押さえた。途端、視界の端からぴょこんと飛び出した小さな耳。

同じ耳の付いたフードを被ってこちらを見下ろし、嬉しそうに細められる深緑を恐る恐ると見上げると、目深に被ったフードの端から、おどおどとした様子でこちらを伺う子牛。にしか見えない、弥子自身が映っていた。
「うし……うしっ!?」
「ム、さっきからそう言っているだろうに」

そのままもう一方の手を背中に回し、抱き込もうとする腕をふりほどき、あわてて給湯室の姿見に駆け寄る。
 全身を覆う白地に大柄の黒模様がランダムに散ったジャージー生地の布地のよく伸びる緩い胸元を引っ張り、頭上のフードに付いた耳と、ぬいぐるみのように綿の詰まった角を軽く手で握る。

呆然と鏡をみつめこちらに背を向け、鏡に向かって軽く突きだした尻に縫い付けられた尻尾を手に掴んで、パタパタと振ってみる弥子を鏡越しに眺めながら、魔人は相変わらずにやにやと笑っている。
「そりゃ牛は今年の干支だけど……だからって、それだけの理由で急に着せられたら驚くよ! なんか、恥ずかしいし……」
「……心から楽しんでいるように見えるのは、我が輩の気のせいか?」
「あ……ははは、折角だから年賀メールにでも使おうかなぁって」

鏡面の中、給湯室の壁によりかかかり牛柄の腕を組み、背にだらんと尻尾を垂らしたまま尊大に呟いたネウロの冷たい視線に、鏡に向かって構えていた携帯を後ろ手に隠して苦く笑う。
「さて……では行くか」

そんな弥子の様子に呆れたように眼を伏せたネウロは、よりかかっていた壁を蹴るようにして身体を離し、鏡に向かう子牛の背に声をかける。
「ん、行く……って…どこ、に?」
「ム、初詣と挨拶回りにだが?」
「冗談っ! 絶対いや……」
「ほぉう」

抵抗の言葉も、後ろから頭に顎を置いてのし掛かるように抱きつかれ、ぱっちん留めのボタンだけで留まった胸元と下腹に刃物状に変形させられた指をぐいと差し込まれるまでだった。


*
「……せめて、上にコート着させてよ!」
「断る」

最後の抵抗も空しく、まだ温かさの残っている自身のコートに鼻先を寄せ、泣く泣く畳んでソファに戻す。
そりゃあ、今日は多少気温も高いし、着せられた牛スーツも、なにげにちゃんと裏に起毛と裏地がある冬仕様のものだ。最悪、風邪は引くかもしれないが、それほど寒くはないだろう。困ったことに。
「くっ……!」
「なんだ、寒いのか?」

しかもそうして外に恥ずかしい薄着で弥子を外出させようという相手はこちらを温める事を前提にしている様子なのが恥ずかしいやら口惜しいやらで。

唇を噛みしめて振り返れば、トロイの鉄板に腰を掛け猫のような眼でにやにやと笑いながら、さぁ来いと腕を広げる見目麗しい雄牛が一頭。

新年早々とんだ暴君ことミノタウロスに捕まったものだと溜息を吐き、どうせ行かなきゃいけないのならと、あきらめて弥子がソファから身を離した時。

「おぉ!」と、何か――特に弥子にとってありがたくない事を思いついた時の声色と、ポン、と鼓を打つような手拍子が聞こえてきた。
「ヤコ、ヤコ!」

ぎくりと振り返った背後、心底楽しそうな手招きに仕方なく従い、とてとてと距離をつめる。
恐る恐ると見上げた顔は心底に楽しそうなさわやかな笑顔で、普段その笑顔に酷い目に遭わされてばかりの弥子の項は勝手にざわざわと泡立つ。
「ヤコ、こう、舌を出してみろ」

しかし弥子の頭をじわじわと占める嫌な予感とは裏腹に、牛魔人はぺろりと赤い舌を出して所謂「あっかんべー」の表情を作って見せた。

普段なら、それだけでは簡単に緊張や警戒を解いたりしない。しかし、そのぺろりと舌を出した顔は、子どものような牛スーツのせいで妙に毒気の抜けた間抜けな顔に見えて。
「べー」
「……べーぇ?」

条件反射のように従って、目の前の顔を真似してぺろりと素直に舌を出してしまった。
 途端、口元を緩ませぺろりと舌なめずりをした顔に咄嗟に身を引くより先に、薄い布地に覆われた背中を抱き込まれ、頭から覆い被さるように身を屈めて来た。
「ふぐっ……! んーんんぅ? ぁぐうぅ……んぁ」

口腔に引きそこなった舌先に唇の先で吸い付かれ捺印するように軽く牙を立てられながら、口内に飲み込まれる。
そのまま千切られそうな恐怖に身を震わすと、宥めるように舌を絡められ、揺らいだ頭を大きな手でフードごと支えられて。
「はふっ……ハっ、ァ、んぅっ」

重なった時と同様に唐突に離れた唇との間で、飲み込み切れなかった唾液が音を立てて床に落ちる。その音が真っ白な頭に響いて、余計に頬が熱くなった。
「ほぉう、なるほどな……」

未だ息の整わない弥子とは対照的に、白黒スーツの袖で口元を拭ったネウロは得心したように一人頷いている。
「いったい……何なのさ……」

支えていた腰から手を離されて、ぺたりと床にへたり込む小さな身体。
頬と目尻を赤く染め、俯いたことでぶかぶかの胸元を持てあました小さな角と耳の子牛を見下ろし、本物の角をもつ傲慢なミノタウロスは一言こう返すのだった。
「なぁに、貴様ら人間のありがたがる『牛タン』というものを味わってみようかと思ってな。うむ……確かに美味だったぞ!」

冗談とも本気ともつかないその口調と満足げな瞳を、子牛は目深にかぶったフードでやり過ごそうと勤めるのだった。


牛タンは仙台の名物。
皆様、あけましておめでとうございます!

08年12月31日〜09年01月01日に、希月様、つき様合同で行われた年越し絵チャにて書かせて頂いたSSです。
主催のつき様に許可を頂き、お年賀用として自サイトで配布することになりました。どうぞ自由にお持ち帰り下さい
報告は特に必要ありませんが、どこかへ掲載する際は書き手の分かるようにして頂けるとありがたいです。


date:2008.01.01



Text by 烏(karasu)