覆水、盆から溢れずに。


181話時点からの妄想。
時間軸としては、180〜181話の間のつもりです。

瞼を閉じれば元通り? ……馬鹿を言え。


例えばある一つのゲームで大敗を喫したとして。
 壊れたボードは形を変えても、それ自体が無くなることはなく、
失った駒も。次のゲームの時、箱を開ければ、そら、ここに変わらず。

椅子に身体を預け、眼を閉じる。
 陰り始めた日に透かされた、瞼の中の薄闇。その中で我が輩は一つの箱を開ける。
 脳内で、いつでも参照できるよう、種類毎に区分けされた、記憶という名の一つの箱を。

開いた蓋の中、脳内にパラパラと再生されるのは、この地上という盤上に配置した駒達。
 一つは我が輩に驚愕と怒りを以って、掴みかからんばかり。
 一つは一抹の諦めと――我が輩には未だ理解の及ばない感情を雑多に詰め込み、栗色の瞳でこちらを見上げて相変わらずへらりと笑みを浮かべ。
 一つは、同じ笑みでも、どこかしら含みを持った笑みと、油断のない瞳でこちらを見る。

果ての見えない程に、ずらり並んだその沢山の駒のうち、比較的前列に並べられている『駒』に、我が輩は手を伸ばす。
 胡散臭さを全面に押し出し、無表情にこちらを見る駒に。

しかし、(一々確認をするまでもなく当たり前の事であるのだが)やはりその駒に触れる事は出来ない。
 そいつだけでなく、ここに並ぶ、記憶という箱にしまい込んだ、どの駒にも、我が輩は触れる事が出来ない。
 何故ならこれらは物質ではなく、脳髄の中に蓄積された情報でしかないからだ。

それでも前へと伸ばす手は一向に、空を掠めるだけで何一つとして掴めない。現実にない『箱』を覗く我が輩の視界に、その手が見える事もない。

触れたければ現物を呼び出せば良い。
 これらを動かしたければ、この駒のうち1番手前にあるコレを、これらが乗った盤自体を、動かせば良い。
 電話をかけるでも直に召集をかけるでも指先で指示を与えるでも何でも。我が輩が眼を開け、ここから動けば、それで動かす事が出来る。触れる事が出来る。

だが――ここにしか無い駒は?
 ここにしか、なくなってしまった駒を動かすには? 触れるには?

ギチギチと、自身の指先が変形して行く音が遠くから聞こえる。
イビルスクリプトでも発動しようというのか、それとも、何か他の能力でも使おうというのか。

我が輩の眼前、目一杯に広がり何列にも並ぶ駒は、気付けば皆無表情でこちらを見返していた。
 まるで自分自身の喪失を憂うように。それを齎した我が輩を睨み付けてでもいるように。
どこまでも、墓地へとただ真っ直ぐに延びる葬列のように。

うなだれ、真っ暗な地平を埋めるように何処までも続く無表情な葬列。
 これら全てを、もし、もしも一度に失ったとして。そのどれを盤上に戻す能力も、箱に大事にしまい込み、好きな時に触れ、弄ぶ能力でさえ、我が輩は何一つ持ち得ないのだ。

例え幸いに補充が効いたとして、それらが失った駒と全く同じ資質を持つ可能性は確率と呼ぶにもおこがましい奇跡だ。
 もし、その奇跡が都合良く起きたとして。その後に、全く同じ進化を辿る可能性はどれほどある?
 我が輩の手駒としてだけでなく、社会的にも同じ役割、同じ思想と思考を得る可能性は?

幼子でも答える事が出来る簡単な問いだ。「そんなこと、ある筈がない」と。

嗚呼、何と無力な事であろう。
 我が輩は、例え流れる濁流をせき止める事が出来ようが、土を掘り起こす事が出来ようが。
 物理的に何ができたとしても、こうしていくら手を伸ばしたところで、時間という名の砂粒一つを、人間という名の小さな駒一つを、我が輩はこの手の中に留める事も、掴む事も出来ないのだ。

そう認識した瞬間、視界の向こう、伸ばし続けていた手から力が抜ける。その手は何一つとして触れられないまま、掴めもしないまま、ただ傍らに落ちる。
 その筈だった手に、触れた。何かが。
 強く強く掴んでいた。まるで、我が輩の思考を読んだかのように。我が輩に縋るように。

そっと眼を開ける。
背後の窓からの光に、朱色に染まった机の上に見を乗り出して。奴隷が、正面に伸ばした我が輩の手を、強く強く握っていた。
 先程まで、脳を満たしていた葬列からそのまま抜け出したかの無表情。

天板の上に片手をついて身体を支え、夕日の写り込む茶色の眼を、眼窩に嵌め込まれた、ただの乾いた硝子玉のように見開いて。
しかし、たやすく握り込まれるような小さな手だけに力を込めて。
 指と指を絡め、我が輩の手を握り込むようにして、我が輩の手に触れていた。縋るように掴まっていた。

「何を、している?」
「あんたの手を……握ってる」

獣のように身を乗り出したままで相変わらず、抑揚の無い声でヤコは答えた。
「……何故?」
「必要だと、思ったから」
「それが何故かと聞いている」

要領を得ない言葉の応酬に、いら立ちを込めて吐き捨てるも、2対の硝子細工は、虚空に停止したまま一向に揺らがない。
 しかし、我が輩の手を握り込む手に、僅かに力が篭った。

「だって、必要…だもん……」

そうして落ちたしばしの沈黙。眇められた硝子玉の中で入り日が陰る。
 しかし、ヤコがどんなに瞬きを繰り返そうとも、その鋭く澄んで乾いた硝子が、硝子以外になる気配はない。
 その心許ない硝子が結んだという『駒』の最期の鏡像が、ヤコから消える事がないのと同じように。明白な事実として、ただ、乾いた瞳がそこにある。

溢れない涙の代わりに、瞳と同様、乾いた声が陶器のような質感の、細い喉から零れ出る。

「……ねぇネウロ、言っても、いよ?」
「何……を、」
「これは全部、私のせいだって。私の招いた結果だって。……期待外れだ、って」
「……必要ない」
「いいよ、言って!」
「必要ないと、言っているだろう?」
「いくら罵っても、何度もぶっていい……私のせいでいいからだからっ!!」

バン、と、板に掌をたたき付け、飛び込むように首筋に抱き着いて来た身体を咄嗟に受け止める。
 上着から仄かに白檀の匂いがするその身体の、脳髄にある記憶以上の軽さに眼を見開くより先に、抑揚の無い声が耳を打つ。

「そんな顔、しないでよ……」

世界という盤上から自身の意志で退く駒は、恐らくこの世に人間だけだ。
 では……もし駒がソレを望んでいなかったとして、それを盤から外に追いやるのは一体誰だ?
 失った駒を、二度と拾う事が出来ないのは?

「だ、だめっ、考えちゃ駄目っ!!」

更に力の籠もる細い腕。耳元で叫ばれる声に、鳴咽が混じる。首に回った腕の力が強まる。しかし、涙は流れない。

「あんたは悪くなんかない、私がどんなに悪くても無力でも、あんたのせいにだけは、ぜった…ぃ、ならないんだからっ……!」
「ならば、ソレは……貴様のせいでもないだろう? ヤコ」

もしヤコに罪があるというのなら、ソレは我が輩の罪であった筈なのだ。盤上の駒に責任は無い。意志の有無に関わらず、駒はそこにあるだけだ。
『失ったものは、もう元には戻らない』
 もしも駒が動いたのなら、幼子でも分かるそんな事実を捩伏せ、駒を進めたプレイヤーの。

脳の中、ギチギチと鈍い軋みを上げて開こうとする箱がある。僅かに開いた隙間から覗くのは、表情をひきつらせ、踵を返す後ろ姿と、それを鷹揚に諌める声。

『そっ…、それってメチャクチャ危ないんじゃ、笹塚さんが復讐で我を忘れたら……』
『心配ない』

見ちゃ駄目、開けちゃ駄目、気づいちゃ駄目。耳元で叫ぶ声がその蓋を必死に閉じようとする。
もし開き切った所で、反省はしても、後悔は永遠にしないだろう。手を伸ばしても何一つ変えられない。
だからといって、何一つとして忘れるつもりはない。が。

今だけは、慟哭と共に縋る、温い身体に腕を回し、我が輩の共感出来ない悲しみの塊を抱え。まだ実態のある駒の背を宥めるように撫で。
 この結果を招くまでに我が輩の使った、全ての『箱』の蓋を閉じよう。
 ただ単純な『喪失感』という結果だけが残った箱の中身だけを見つめ。

 せめて――我が輩の預かり知らぬ何かで一杯になった硝子の水盆から、完全に水が溢れ切るまでは。


今回の話でネウロが語った「喪失感」って、細かく突き詰めればこういう事かなぁ…と冒頭を書き始め、
あてどなく伸ばしたその手を、どうしても弥子に握らせなければいけない気持ちになり、
聡い弥子が、魔人の脳髄が思考に軋む音に気づいてソレに気づかせまいと先手を打った結果が、この結末です。
弥子にとって、自分が壊れることより、自分を包括する世界である魔人の価値観が揺らぐ方が怖いんではないかと。
自分が何よりも苦しいと知っている感情は、好きな人には理解はしても共感は一生して欲しく無いという乙女心。


date:2008.11.12



Text by 烏(karasu)