せつぷん


未央様からの相互リクエストで、「弥子をいじめるドSネウロ」。

言葉遊びといじめっ子


それはある小春日よりの昼下がりの事。

「ヤコ、ヤコッ! 人間界には”せつぷん”というものがあるらしいな」
「んー、あるよ。それがさ―、残念な事に、もうとっくに終わって……って!?」

秘書へのトリートメントの途中、後ろから呼んでクイクイと後ろ髪を引っ張るのに、弥子は子どもをあやすように適当に答え、溜息混じりに答えて振り返る。と。

わざとらしく頬を染め、はにかみを含んだ様子で細められた眼と視線が絡んで思わず、うっと息を飲む。

こういう眼をする時は嫌な予感しかしないと、用心深く視線を落とした弥子の、その視界に入ったのは、だらりと身体の横に垂れた手に握られた飴色の一升瓶だった。

ビールや日本酒の瓶として、酒屋やコンビニに並んでいるような何の、変哲のない代物。
しかし、それを握っているのが無邪気に瞳を輝かす残虐非道な魔人様ではなく、その中にぎっしりと詰まっている物が、単なる液体であったならの話だが。

「そ、その、瓶一杯にぎっしり詰まった豆で一体何する気だっ!!」
「……あぁ」

ネウロは言われて初めて気づいたかのように自身の手元に視線を落とした後に、悪戯を窘められた子どものようにクスクスと笑い。
 非常にわざとらしく視線を泳がせ、長い睫を伏せ、後ろ手に抱え直したその瓶を背中に仕舞う。

「気にするな、これは何でもない」
「きっ、気にするに決まってるでしょっ!!」

その背中を指さして、恐怖に眼を剥く弥子からしたら、勿論、気にするどころの話ではない。
何故なら、こういった類の物が何でも無かった事など、弥子の記憶が正しければ過去の経験上一度だってないのだから。
 一体それで何をする気なんだ。その豆は撒くのかぶつけるのか。まさか鬼の金棒なんかに見立てて振り上げたりしないよな。

あれは飴で作った小道具を使っているんだって……こいつは知っててもやるに決まってる!
 まさかまさか、体内に豆を撒くとか言ってあらぬ所に無理矢理突っ込まれたりしてしまうのだろうか。流石にあの量は飲み下せない。

そして果たして、自分自身は一体どこから突っ込めばいいのだろうか。

「そもそも、一升(いっしょう)の豆って辺りで、既に升(ます)違いな訳だし……醤油にする…とか、そういうボケなのかな?」
「ム、何をぶつぶつ言っているのだ?」

考えを知らず口の中で反芻しつつ、距離を取ろうとじりじりと下がり、無意識に引いた自身の腰があかねの机に当たった事と、頭上からかけられた声で、弥子は思考をやめふと顔を上げる。

気づけばいつの間にやら壁際に完全に追い詰められ、弥子の頬の直ぐ側では、未だ濡れ乱れたあかねが心配そうに事の成り行きを見守っている。

そんな弥子を囲い込むように見下ろすのは、後ろ手に凶器にもなりえる堅さと重さを兼ねそろえた一升瓶を未だ後ろ手に抱え持ったまま、僅かに口元を緩ませた魔人。

内心で冷や汗の万事休すのこの状況、せめて相手の狙いだけは知ろうと、生存を願う頭は必死に考えを巡らせる。

「で……何だっけ? ネウロ」
「この国には”せつぷん”というものがあるのだなと言ったのだ」
「あぁ、そうか……そういう話だったね」
「そういうも何も。……僕はただ、今日初めて知ったので、どうすればいいのか先生にご教授願おうと……」
「う、嘘つけ―っ!! あんた、絶対前から知ってたでしょ!?」

叫んだ瞬間、ム、という相槌と共にやや眇められた瞳。僅かに傾げられた首と、その拍子に背中から覗いた飴色に、弥子は思わず両手で口を押さえる。

そうだ、下手に刺激してはいけない。この魔人の全力で、避ける間もなく頭上に瓶を振り下ろされたりなどしたら……。
流石の弥子でも、ひとたまりも無い。

「あはは、そうか、初めて知ったんだー」
「ムぅ、さっきからそう言っているではないか」
「そっかぁ、そうだったねー」

内心冷や汗をかきながらも笑って誤魔化す。その様子に、ネウロはきょとんそ首を傾げ――そして、お互い視線を合わせたままで、再び訪れる沈黙。
 どうしよう、話が前に進まない。いや、進めてはいけないのだったか。

「………」
「……」

コチコチと鳴る時計の音と自身の心臓の鼓動ばかりが耳に響く中、無表情にこちらを見下ろす深緑からどうしても眼が逸らせない。
 互いに黙って何分経っただろうか。急な緊張を長時間強いられ続けている神経がもう限界を訴え始めている。

絶えず鳴る音と共に意識が遠くなるような弥子が錯覚を覚え始めた時、ごん、という鈍く大きな音が耳元で鳴った。

ギシリと軋む心地のする首を音の方に恐る恐る回す。と、あかね机の上に置かれた一升瓶と、その口を掴む黒手袋の指先とそれの伸びる青い袖口の腕と、その先の細さの割にしっかりとした肩と首と。

「先程も行ったように、僕は”せつぷん”というものが分かりません。しかし、一応調べてはみました。なので――」
「……ひっ!」

降ってくる言葉に呼応するように、ゆっくりと腕を辿って視線を戻したネウロの顔は、先ほどの無表情とは打って変わった、無邪気に満面な笑顔で。弥子は全身の血液が凍えるような心地を味わった。

(ついに、来たっ……!)

わざとらしく慇懃な助手の口調。改めてその重量を確認するかのような大きな音と、いざ振り上げられたら逃げられない距離。

「その成果を、先生を使って試させては頂けませんか? というお話なのですが」

大分前から覚悟はしていたものの、いざ覚悟を問われれば、やはり返事にはとまどう。
 言外に、殴らせてくれと言われて、それでも無防備に頭を向けていられるのは、殴り返す覚悟のある者と、殴られる覚悟のある者だけだという。

生憎、今の弥子にはそのどちらも備わっていないし、はっきり言って痛いのは何であっても嫌だ。
 普段から日常的にDVは受けているが、それは人間の本能として自己防衛より先に繰り出される為に、防ぎ様が無いだけなのである。

「あ、あの、えっと……ッ!」

言いよどみ、おどおどと逸らした視線の端に、無言で持ち上がる瓶が眼に入り、咄嗟に強く眼を瞑る。
 殴られるのか、ぶつけられるのか突っ込まれるのか……どっちにしてもやられるならば、なるべく痛くないものがいいと願いつつ。

しかし、予想する痛みも衝撃も全く訪れない。訝しく思い、顔を庇うように上げていた両手を下ろして恐る恐る眼を開けば。
 すぐ鼻の先にある深緑の双眼と、黒い前髪と。その更に上には、今にも振り下ろさんばかりに掲げられた瓶の分厚く丸い底。

「う……ひぁっ!」
「それで先生、お返事は決まりましたか?」

驚いて上げた声と共に頭を庇う事も、眼を瞑る事さえ出来ない距離で、魔人はにやりと三日月のように眼を細め、大きく開けた牙の並んだ口で弥子に問うた。

その笑みに、漏れ出たその言葉に、とっくに許容を超えていた恐怖と緊張はついにぷつりと限界を超えた。
 「少し痛い」よりも、「ずっと怖い」方がもっと嫌だ、と無意識が言った。

「すっ、するなら早くしちゃってよっ!!」

しゃんと立とうとする自己の意志に反してガクガクと震え始めた脚を堪えて、力一杯に叫ぶ。痛いのも苦しいのも勿論遠慮願いたかったが、それより何より、この空気に耐えられない。

殴られるでも蹴られるでも、さっさと終わって楽になれるなら何でも良かった。

「……そうか、では」

言葉と共に頬に添えられる黒手袋の手。急に解けた緊張から来る虚脱の中で見上げた瞳。
自身の長身が作る影の中で、暗く淀んで、それでもギラギラとした光を失わない深緑。一気に弥子に覆い被さった。

「――いただきます」
「くっ、ぁ? はっ、んんん!?」

触れたと意識が感じた瞬間に、唇に強く押しつけて歯列をなぞる物に意識が持って行かれる。ええと、
 ガシャン、と、遠くで鳴った音の正体に思考を巡らせるより先。弥子をあざけるかのように三日月のように細められた眼と、顎の力が緩んだ途端に一気に入って縮こまる弥子の舌に絡みついて来た舌が明瞭に答えを結んだ。
どうやら自分は嵌められたらしい――と。

黒手袋の手を添えられた頬に、かぁぁっと上った熱は、怒りからなのか、舌の根本から舌先までを丹念に舐られた事から来たものか、今の弥子の痺れてぼうっとした頭では分からない。
 その痺れが恐怖から来た脱力なのか、それとも心地よさからなのか、さえ。

「はっ……ふは、ぁ」

触れた時と同様、唐突に離された唇と唇の間に引いた糸。
 頬から離した指先で弥子の唇を拭いながら、ついでにぺろりと舌なめずりした口元から眼を逸らし、満足そうに深緑を見上げる。
 一体何のつもりだったのかと視線で問えば、クツクツと愉快そうに喉を鳴らす。

「さてヤコよ、これで正しかったか? ”せっぷん”というものは」

再びぺろりと自身の唇を舐め上げて、立ち上がれない。それよりも、今度はわざと明確に成された発音に、一瞬頭が真っ白になった。

「せつ、ぶ……せっ……?」
 せつぷん、せっぷん――接吻?
 その事実と内容に、気づいた時にはもう遅く。


ちょっとした言葉遊びをしてみたくなり、こんな感じにしてみました。
人の恐怖につけ込むなんてネウロらしく無いかも知れないし、今更節分ネタだしと突っ込み所満載ですが
良ければお受け取り下さい!


date:2009.02.28



Text by 烏(karasu)