さっきから連続して響き、思考をごちゃごちゃと掻き混ぜる、間延びした甲高い音を止める為、俺は掴んでいたマウスを投げ出した。
机に叩き付けるようにして置いたソレは、がちゃん、と空になったマグカップに当たり、玄関のチャイムに負けないくらいイライラとする音階を紡いで転がる。
「……ったく、折角いいトコなのにさ……」
覗き込んだディスプレイには、昨日から組んで走らせてるプログラム……と、いかにも苛立った様子でガリガリと頭を掻く、徹夜続きで血色の悪い自分の顔が写りこんでいた。
そんな自分の姿の滑稽さに苦笑して立ち上がる。一瞬フラついた足元に、軽く舌打ちする。
全く――完徹一回で眩暈とか、俺ももう歳かな? なんて。
短い廊下を歩く間も、ドアから上がる音の感覚は段々と狭まっている。大方、笛吹さん辺りが様子を見に来たんだろう。
というか、あの人以外に、たった1日やそこら見掛けないだけで、俺の様子を気にするような――その上、相手が中々出ないからといって、こうして人んちのチャイムを連打するような短気な人を俺は知らない。
「はぁ…――ちょ、まっててよ! 今開けるからさ――」
想像したドアの向こうの様子に、相手に聞こえないよう、小さく息を吐きドアを引く。
僅かに開いた隙間から飛び込んで来たのは、チクリと目を射すような真昼の強い太陽の光と、ソレに眩んだ視界の端ではためいた小さな掌の影。そして――
「匪口さんの、馬鹿っ!!」
頬の痛みと、桂木の怒声だった。
*
「っく、……匪口さん、家に来るっ言ってたから、わ……たし、私、ケーキ……用意して…ちゃんっと、約束通りに……」
セーターの裾を握って俯き、濡れて掠れた蛙のような声で、鳴咽混じりに言葉を漏らす桂木。
黒いローファのつま先、灰色のアスファルトの上には、ぽたぽたと黒い斑が出来上がる。
そのつむじを見下ろし、ジンジンとする頬を押さえながら、俺はこの状況をどうにか整理しようと努めていた。
何というか、不可解な点が多過ぎて頭が付いて行かない。
まず、外が明るい理由が分からない。ソレ以前に、何時夜が開けたのかも全く。
桂木の家に行く約束をしたのは勿論ちゃんと覚えている。
「ケーキにさくらんぼを乗せてくれ」なんてワガママを言ってみて、「もー、果物は季節のものが一番美味しいんですよ!」なんて嗜められたのも。
それが水曜。俺の誕生日の前日の出来事で。
そうそう、土曜日の昼、渡すついでに2日遅れだけどお祝いしようって言われてたんだ。
そんでその夜、家に帰ってきて、前々から頼まれて作ってたプログラムの調整をし――始めてから何時間経ったのかが思い出せない事に気づいて、ゾッとする。
確かにソレなら、全ての辻褄が合う。外が明るい事も、この異様な疲労にも。
平日なら学校のあるはずの桂木が――こんな時間に、しかもわざわざ家に尋ねて来る訳だって。
背筋を泡立たせる予想。ソレを肯定するかのように、相変わらず俯いたままの桂木が、スン、と小さく鼻を鳴らした。
「ご……ごめん桂木!! 忘れてはいなかったけど、結果的に忘れてたってか……そのっ――」
「――なの…に、ひぐちさ…こなくって、心配になってケータイ……電話しても出なくて、笹塚さん達にも聞いて……! どっかて怪我して動けなくなってたらって思って、食べるの忘れて死んじゃってたらって!」
そこまで一息に吐き出すと、一回深く息を吸って。漸く顔を上げた桂木の頬を雫が垂れていった。
「……でも、無事で良かったです!」
彼女は袖でごしごしと顔を拭い、少し赤くなった目を、三日月のように細めた。
「ちょっと、遅れちゃったけど――お誕生日おめでとうございます! ……ってアレ? 匪口さんっ!?」
「え? あ、れ……つっ、ぁ…」
さっきまで泣いていたとは思えない極上の笑顔という視覚刺激と、言葉という聴覚刺激を受けた途端、俺の涙腺は反射的に機能を働かせていて。
つまりは、自分の意思とは関係なく、ぽろぽろと涙が垂れて視界が歪み出した。
「アレ? おかしいな、何でだろっ……とまんな……ッ!」
戸惑う俺と同じく、大きな目を真ん丸に見開いていた桂木は、次の瞬間には心得したように、俺の首筋と背中に腕を回して――自分の肩口にゆっくり引き寄せた。
「……大丈夫。私は今日、匪口さんが産まれて来てくれた事が、すっごく嬉しいんだよ。
――今まで出会った人も、これから出会う人も。きっと、同じ気持ちだと思うから。
だから――おめでとう。匪口さん!」
大丈夫。嬉しい。ありがとう。
小さな子どもに言い聞かせるように、桂木は何度も繰り返す。
華奢な肩に顎を乗せて目を眇め、俺はゆっくりと息を吐く。
生温い体温に身体を預け、再び吸い込んだ空気に混じって、桂木のセーターから、秋の落ち葉の甘い匂いがした。
――そうだ俺、「おめでとう」なんて久々に言われたんだ。
子どもの頃、日付のないネトゲの世界では誕生日なんて有ってないようなモンで。
大きくなったらなったでそんなの、言うのも言われるのもウザくって。だけど――
「ありがとう、桂木。ごめん。本当に……」
「ん……」
多分、ほしかったんだ、ずっと。だから涙が溢れて、桂木が俺を抱きしめてくれていて。きっと、だけど。
こうしたクサい台詞も、人の深いところまで、何でも分かっているかのような態度も――ゆっくり背中を撫でる細い腕も。桂木のモノだから、こうして素直に受け入れられたんだろう。
「はは……成人してもカッコ悪いね、俺」
腫れぼったい瞼を閉じる。
お互いに、涙はもう、止まったようだった。