秋の思い出、迷い猫


いつもお世話になっている碧海さまへ。ずっと前の約束で、昔書いた國ヤコの加筆修正版です。
いつかどこかで、中学生の少女と怖いお兄さんが出会った話。

怖い狗のおにーさんと、迷子の子猫ちゃん。


 事務所を出た時にはまだ僅かに残っていた日の光。
 それは出歩くうちあっというまに高層ビルの間に呑まれ。
 今は、最後の閃光をガラス張りの表面に残して消え行こうとしている。
 あかね色から群青色に染まり始めた秋空では、示し合わせたように、ぽつり、ぽつりと明かりが空気感染でもするように点っていく。
 繁華街を中心に広がるそれは、若い世代に伝播する流行といったようなものに似ている。
 長く、その空気に浸かっている男にはそんなように思えた。
 誰か一人がこの夜の光を知れば、それが、間を置かず次々と伝播していく。
 一人が誘い込まれれば、その友達から二人、三人と、どんどん増えていく。
 ――それが、彼のような大人によって、わざと美しく点されている可能性など考えもしないで。
 昼間に射場所を無くしたガキは、自分が輝ける場所を求め、ネオンと街灯が支配する世界に足を踏み入れるのだ。
 全ての街灯が輝けるかといえば、そんな訳はないのに。
 こうして、芝生と道との境に立ち止まって見回せるだけでも、その光が弱いもの、ガラスの曇ったもの。
 酷ければ、電球が切れて点る兆しのないものから、割れたものまで存在する。
「身の程を……先に知れたらどれだけ楽かねぇ」
 白いコンクリート敷の道の端から始まる芝生の一番奥、葉の散り始めた銀杏の木の下、等間隔に並ぶ街灯の中でも殊更光の弱いものの真横。
 そこに置かれた木製のベンチに踞っている、頭の上に広がる銀杏の枝葉と同じ髪の色をした、セーラー服の少女は、俯いたまま、やはり一言も口を聞かなかった。


 そこは、彼が社長を務める事務所から程近い、中〜高層のビル群の真ん中に切り取られた、鬱蒼とした木々に囲まれた公園であった。
 いつものように、これから始まる残業に備えての腹ごしらえと気分転換を兼ね(あんなヤニ臭いトコで汚い野郎の面を拝みながらじゃ、どんな旨い飯もまずくなる、というのが彼の弁だ)、コンビニで買った夕刊と軽食と飲み物とを携えて訪れた。
 公園の敷地を挟んだ向こう側、夕闇の代わりに空を照らし出したネオンの明かりと、僅かに聞こえたサイレンに足を止め、思わず目を細めたその時に。
 偶然、その視界の先で、木立の作る闇に紛れるようにして座る、その少女を見つけたのだった。
 短く明るい色の髪が、淡い街灯に照らされていなければ、濃紺のセーラー服が夕闇に紛れて見つからなかったかも知れない。
 それだけ、少女は頑なで、彼が足を止める前も、その直後も。元からそこにある彫刻のように、全く微動だにしなかった。
 早乙女はそれをこの街の――夕方の繁華街につきものの、今時よくいる『捨て猫』の類いだと考えた。
 好奇心旺盛で恐れを知らない、小さい癖に自分達をいっぱしの大人だとカン違いしている、小さな爪と牙をむき出すのが精一杯。
 隙だらけの小動物。
 例えば彼やその部下のような、街灯の下で手ぐすね引いて待っている、野良犬の振りをしたハイエナや狼に食い散らかされに来た、頭の足りない子どもの一人だと。
 ――まだ、灯りの点るに値しない器の、ただのガキだと。
 彼はそう思った。だからこそ、見慣れたそれの前で、わざわざ足を止めてしまったのだ。
 膝を抱えて丸められた頼りなく小さな背中と、乱れは無いが薄汚れた制服。
 蜜色の前髪の下で、頑なに結ばれた唇が辛うじて見える、そんな距離で。
「こんな時間に、悪いお友だちでもと待ち合わせかい? わっざわざ――こんな薄暗い所で」
 最後の一語を吐き捨てるように言うが、相手は、僅か返事の代わりに、僅かにか肩を震わせたように見えただけで、相変わらず微動だにしない。
「おーいおい、いきなり無視されると傷付くな……おにーさん、これでも結構、繊細なもんでね」
「……」
「そら、お返事はどーしたよお嬢さん。そんくらい、がっこで教えるだろ? うちの小卒でさえ出来るんだから」
 普段の癖でタイを軽く緩め、両手をスラックスのポケットに突っ込み、早乙女は芝生へと歩を進めた。
 革靴で踏みしめた湿った草の音と、わざと振り回すようにして鳴らしたビニールの音で、こちらが近づいていることは相手に伝わっただろう。
 しかし、見ず知らずの、しかも自分のように得体の知れなく怪しい男に近寄られても、顔を上げようともせず、どころか逃げようともしない。
(怯えて腰が抜けたのか……ちょっと、鈍い子ガキなのか。はたまた聞こえてないのか)
 そんな事を考えながら、隙だらけにだらだらと距離を詰めるうち、終には、ベンチごと、少女のつむじをも見下ろせる位置にまで近づいてしまった。
 逃げる隙を与えたまま、ここまで近づいても逃げないとなると、心底から怯えているのかもしれない。
(あっちゃ……脅し過ぎたかなこりゃ)
 だが、仕事柄、背中を向けて戻るのも、後ずさるのも気が進まず、仕方なくベンチの真ん前で足を止める。
「おーい。お嬢ちゃんやーい。おにーさんの言ってること、ちゃんと聞こえてるか?」
 背を曲げて、色の白い脚の、桃色に染まった膝頭の間から、前髪の影になった顔を覗き込んでみる。
 しかし、元々薄暗い場所なのと抱えた膝に顔を埋めているのとで表情は分からない。
 制服を纏っている事から察するに、一応、市立のお嬢様小学校の高学年か、または中学生であるようだ。
 ここら辺を通学する子どもが着ている所は見た事のないものだから、恐らく公立の学校か、公立だったら区外だろうと当りをつける。
 靴下を脱ぎ、ローファーを直に履いた素足も、膝に回した両腕も細くて頼りない。
 襟刳りから覗く胸も殆ど無いようなもので、少年とも少女とも取れる、中性的造形の、子ども寄りの身体をしている。
 更によく観察すれば、その剥き出しになった手足にはいくつかの痣と擦り傷が浮かんでいる。
 そんな所から察するに、家出娘か何かだろう。
 複数の電車が乗り入れる駅に近いビジネス街。
 更に一駅向こうに派手な繁華街があるこの辺りでは、学生は別段珍しい生き物では無い。
 必要なら、近頃、一番下っ端の部下が引き連れている、高校生の舎弟にでも聞き出されれば、すぐ身元が分かるかも知れない。
 四年程前に、大人のしっぽを踏んでいきがっていたガキの子守もさせたことがあるし、奴も慣れたものだろう。
 きっと、頭のレベルもいい勝負か、場合によってはアッチのが低いくらいだろう。
「くくっ……」
 ――気づけば、自身の思考が『拾う』ことに向いていたことに気づき、苦笑を漏らす。
 そういえば、彼らのような、珍しくも何ともない生き物を、場合によっては拾って飼い始めてしまうのも、自分が昔から持つ悪癖だった。
 きっと、動物好きの人間が捨て犬や捨て猫に鼻が効くように、自分も、こういう生き物を嗅ぎ分けてしまう運命なのだ。
 ならば、その運命に従って、とことん干渉してやってもいいかも知れない。
「なぁチビっ子、お前こんな所で何してんだ?」
 そう考えたせいか、無意識に、先ほどまでの演技臭くなれなれしい声よりも、些か自然な言葉を掛けていた。
 ――やはり少女は顔を上げず、逃げだそうともしない。
 その時、手首に通して持ったまま忘れていたビニール袋が、やや屈めた膝に蹴り上げられ、ガサリと音を立てた。
 その音と共に、ひくりと、薄手のカーディガンを纏った華奢な肩の線が揺れ、少女は僅かに顔を上げる。
 唐突に顔を上げた少女は、至近距離で覗き込む早乙女と目を合わせない為か、ひたすら、早乙女の腰の辺りへと注がれている。
「おい、お前……」
 返事の代わりに、こくり、と。小さく息を飲む音と、震える吐息が聞こえた。
 虚をつかれた形で固まっていた早乙女は確信した。自分の声はずっと、確実にこの少女に聞こえていたのだ。
(なら、やっぱり腰を抜かしてのか……)
 その証拠に、今もこうやって、早乙女の腰の辺り――街灯に真っ白く浮かび上がる、白いコンクリートの道を、助けを求めて必死に凝視している。
 それは、先ほどまでの徹底した無視よりも、よっぽど人間らしい反応だろう。
 普通、全く面識の無い――しかも彼のような明らかにカタギでない人間に、いきなり話し掛られたら、大の男でも怖じけづくだろうに。
 ましてや女、しかもこんな子どもにとっては、純粋に脅威以外の何者でもないだろう。
 尤も、声も出せずに怯えてたにしろ、ここまで、それをお首にも出さなかったのは、大の大人にだって出来ない事だ。
 ――例え、今すぐベソをかきながら逃げ帰ったとしても、友達間の自慢話くらいにはなる。
 だから。
(もっと、怯えれば良い。大人しく帰って、母ちゃんにでも何でもぶざまに泣き縋って眠っちまえ。いきがっていられる餓鬼のうちに、まだ帰れる家があるうちに)
「なぁ、ちびっ子。ちゃんと、人の目を見て話せや」
 その一言に、うろうろとあちこちをさ迷い、しかし、それでも彼を観察していた少女の視線がある一点で止まった。
 頭の位置から察するに、留まったのは恐らく、彼の目の下に描かれた古傷の上。
 きっと、街灯にぼんやりと照らされた事によって、より醜く歪つな弧を描いて見えるひきつれ。
 細い喉からは再び、ひぅっ、と息の漏れる音。
 白い膝が更に強く、腹に押し付けるかのように抱え直されるのが見えた。
「……おいおい、俺の顔に、目と口以外に何かついてるか?」
 少女が自分の用意したエサに掛かった手応えを感じ、早乙女は内心でにやりと笑った。
 醜く引き攣れたそれが視界に入れば、大低の人間は目を逸らす。
 隠したその表情に一瞬、気まずさや怯え、または生理的な嫌悪を滲ませ、酷い時にはあからさまに表出させながら。
 だが、早乙女はそれを心底不愉快に思う事はない。寧ろ、歓迎さえしている。
 何故なら、相手のそうした負の感情と罪悪感は、彼ような職種の人間にとっては、非常にありがたい『隙』だからだ。
 獲物が、恐怖に怯える事さえも忘れて作る、その空隙。
 そこを突いて、一気にまくし立てて畳み掛ける。
 または、その視線に含まれていた意味が気に障った振りをして大袈裟に取り上げる。
 わざわざ法律を犯す事はない。ねちねちと嫌らしく因縁をつけ続けてやれば、それだけでいい。
 堅気が相手の交渉事なら大概、その手でなんとでも出来る。
 ――しかし、ここで一つ、彼にとっての計算違いが起こった。
 彼の目の下の傷に止まっているらしき少女の視線が、それ以降、全く動かないのだ。
「あー、流石にオフザケが過ぎたか……」
 瞳を大きく見開いたままの少女の前で自分の膝に手をつくようにして屈み、顔を覗き込んでみる。
 今度こそ、恐れて逸らすだろうと考えた視線は何故か、自分のソレと上手い具合にかちあってしまった。
 白い頬に影を落とす睫毛は、街灯の落とす影を見るに以外と長い。
 それに縁取られている黒目は、色が少し薄く、硝子玉のように作り物じみて見えた。
 光を湛えた焦げ茶色の硝子玉。
 その中では、身を屈めてソレをまじまじと覗き込む、自分の影が揺らめいている。
 そして――そうした子細が観察できるまで近くに寄ったことで、はっきりと確信が持てた。
 この硝子の持ち主は、彼に対し、特に怯えている様子も、自分を訝しんでいる様子もない。
 どころか、どこまでも透明で、感情の触れ幅が少ない。
 恐れず、うろたえず。ただ、こちらを有りの儘に観察する気配さえ感じられる。
 ――鏡のように寸分違わず、早乙女國春というちんけな男を、写しだそうとしている。
 背筋に悪寒が走り、反射的に腰を浮かせ少女から距離を取った。その時点で早乙女の負けは決定していた。
「まぁ、いいや。……俺より面倒臭い奴に会う前に帰れよ青少年」
 気まずさに、それだけ言って背を向け、がさ、がさと鳴るビニール袋を揺らしながら、道を引き返し始めた時。
 後ろからいきなり、縋るように右腕を引かれた。
「……んだよ」
 咄嗟に顔に出ただろう衝撃の色を置いて一拍。不機嫌を露わに振り返ると。
 抱えていた膝を崩し、ベンチから半身を乗り出した件の少女が、両腕で必死に彼の右腕に縋り付いていた。
「ぁ……あのっ!」
 キラキラした目はそのままに、期待と不安とが入り交じった声を上げて。
「……あ?」
「えっと……えぇっと…大変に言いにくいんですけど……」
 縋られた腕に乗る重たさと嫌悪感を隠しもせず、ぎろりと睨みをきかせてやったというのに少女は気にする様子も無く。
俯いて口をもごもご動かし、しばし逡巡した後に――意を決したように唇を開く。
「それ……っ、少しだけ、分けて貰えませんか?」
「……これ?」
「は、はいっ!」
 頬を染めた、俯いた少女が遠慮がちに指差した先――彼の左手には、彼自身もその存在を忘れていた、コンビニで買った弁当の入ったビニールが握られていた。



「ハハハ、マジかよ中学生!!」
「もうっ! 当事者からしたら、笑い事じゃ無いんですってば!」
 隣で腹を抱えて笑う早乙女に対し少女は元々丸い頬をむっと膨らまし、気丈にも睨み返して来る。
 尤も、両手で持ったメロンパンに一生懸命に食いついている今の状態では、迫力もへったくれも無いが。
 最初、早乙女はこれを、いきがって街に紛れ込んだ『捨て猫』の類だと断じ、その対処方通りに扱った。
 だが、どうやらこの少女、猫は猫でも『捨て猫』では無く『迷い猫』の類いだった。
「あ……ごめんなさい。これ、半分しか残ってないですが……」
「……いらねーよ。食え。もう少し肉付くように」
「それは……来年に期待してください……」
 そう言って弁当の後とは思えない早さで、既に半分まで食い終わったメロンパンを申し訳なさそうに返して来た。
 その少女曰く、つまりはこういうことらしい。
 学校が普段より早く終わった本日、少女は趣味である食べ歩きをしようと計画し、数日前から準備を進めてきた。
 そして終業後、あらかじめ鞄に忍ばせておいた、目当ての店までの住所が載った雑誌を片手に最寄り駅へと向かった……までは良かったが。
 まず、到着駅の出口を間違えて道が分からなくなった。
 それでも、印刷してきた簡略地図に記載されていた一番大きな道に出ようとして歩き回った。
 そのうちやがて、普通の地図では絶対に記載されていないような、雑居ビル同士の作る細い路地裏に迷い込んだ。
 大きなビルばかりのオフィス街の道との落差にうろたえながらも、運良く道を聞くことが出来た。
 それで、目的地から大分放れてしまったことに気づきを繰り返し……。
 そんなことを繰り返すうち、やがて、この公園にたどり着き、疲れと自己嫌悪――そして、昼食を抜いた事による空腹で踞っていた。
 ――そこに、ちょうど弁当を下げた早乙女が通りかかったのだという。
「にしても、よく弁当たかる気になったなぁおい……」
「慣れてるんです……その、お腹空きやすい体質で」
 それだけでも、早乙女が呆れ、そして笑いを堪えるには十分だったが。
「にしても今時さぁ、ドブにはまる奴なんているんだな」
 剥き出しの膝小僧に冷えた弁当を乗せ、箸を加えて蹲る少女のその足下。
泥で汚れたベンチの足下には、濡れたローファが1足と、その上に無造作に放られた、濡れて丸まったソックスが一式。
 その理由を聞いて恥ずかしそうに返ってきたその答えには、ついに堪えきれなくなって吹き出した。
 公園に入ってすぐ、落ち葉で隠れた溝に脹脛の半ばまで、一気に漬かったのだという。
 しかも、両足とも。
「うぅっ……。この年で迷子になっただけでも屈辱なのに……!」
 勿論、早乙女が笑ったのは少女のその不幸だけじゃない。
 そんな普通の失敗が、世の中に存在することさえ忘れていた己に対してわいた自嘲もある。
 だからこそその笑いは随分長いこと続いた。
「もぉいいですよ……ドジ過ぎて、ほんとイヤになる」
 結果として来年には女子高生になっているいわゆる年頃の女子中学生の目に涙を浮かばせる程に。
(……睨まれても泣かねーくせに、拗ねると泣くのかよ)
 男を泣かせて痛い目見させるのが仕事なのだ。
 女を泣かせた数などわざわざ数える程には落ちぶれても年を取ってもいない。といつも部下に言っている早乙女だ。
 だから、随分と忘れていた。女は演技や恐怖や憎しみ以外でも、以外とポロポロ泣くのだ。特にガキは。
「ま、そーうしょげんなよ」
「ぐうーっ」
 普段男どもにやるようにぐしゃぐしゃと頭を撫でると、娘は犬のように唸った。当たり前だが、全く怖くない。
 さわり心地も、手入れの行き届いた猫か何かのようだ。犬よりは扱いにくいが、草食の振りが出来ない愚直な猫は嫌いではない。
「おじさんが駅まで送ってやるからさ」
 横髪を止めた変な形の赤い髪留めの上で毛がほつれるのも構わずぐりぐりと撫で回す。
 じろりとこちらを見上げた目が、早乙女の謝罪の内容と表情を値踏みしている。
「……その言い方、何かやらしいなぁ」
「っめぇみてーなガキに手ぇ出す程には餓えてねぇよ」
「いたっ! ってあぁっ!?」
 軽口に思わず返したデコピンの応酬に、少女は咄嗟に両手で額を抑えた。
 そのせいで、あと一口だけ残っていたメロンパンが地面にひっくり返った。
 それを見て、更に大きな悲鳴を上げる。
「おい……大丈夫か? そんなに、痛かったかよ」
「ッ!」
 血の気が引いた頬と大きく見開かれた瞳。
 まさか力加減を間違えたかと、今度は早乙女が大きく声を上げて少女の顔を覗き込んだ。
 瞬間、苦痛に歪んだ顔に自分が咄嗟に少女の両腕を押さえ込むようにして掴んでいたことに気付く。
 あわてて手を離せば、両腕を抱えるようにしてさすりながら、少女が苦悶の声を漏らす。
「……洗えば食べられるかなぁ、メロンパン……ぐぎゃ!」
「大人をからかうなってのクソガキ」
 直後、再び少女の額に鋭い一撃が飛び、今度は二人で顔を見合わせ声を上げて笑った。

「……」
 約束通り、駅に少女を送る為、もう殆ど夜の顔を見せ始めている街の中を、駅へと送って行った。
 その間は食べ物を前にしていた時、それだけ会話が弾んだことが嘘のように互いに無言だった。
 ――だが、その方がいいのだろうと
 少女にとっては余り親密な空気を作りたくない状況だったかもしれない。
 着崩したスーツの男とセーラー服を場所が場所だけに、どう見ても真っ当な知り合いには見えない。
 この娘と同級の口さがない中学生でなくても、援交を疑うだろう。
 遅い時間に知らない街を、こんなカタギでない男と歩かざるを得ない少女。
 それに、自分とは無縁だと思ってた思いがわいた。
(同業者に挨拶でもされた日にゃ、流石のこれもトラウマもんかねぇ……)
 何とも言えない、しいて言うなら親か何かのような心地で心地で、少女の様子を伺うようにして見下ろした。
「……こら」
「あっ、すみません」
 ……が、その、当の少女がふらふらと居酒屋街の方に流れていったことで、そういう気持ちは一気に消し飛んだ。
 咄嗟に首根っこ掴んで止めたことで、一気にペットの拾い食いを危惧する飼い主の気持ちになる。
(ペットってこたぁ、引き綱が要るんだろうが……)
 これが部下だったら容赦はしないのだが。
 襟首を捕まれたまま、曇りの無い瞳で早乙女を見上げてくるのは華奢な少女。
 早乙女のような男が中学生の襟首掴んで引いてあるいたとあっては、明らかに通報案件だ。
 ――証拠がなきゃしょっぴけない援交もどきと、一発退場の未成年略取。
 どちらで誤解されたいかで考えれば、出せる手は一つだろう。
「ったく、手の掛かるお嬢ちゃんだぜ」
 有無を言わさず手を差し出させ、それを掴んで引っ張った。
「そら、はよ帰るぞ」
「あっ……」
 引っ張れば、数歩たたらを踏んだ後、歩幅を合わせてくっついて来た。
 こちらが歩幅を調整するまでの二三歩。
 引きずられながらもたどたどしく握り返して来る手。
 それに、相手が親以外の男に手を握られるのが初めてでもおかしく無い年齢だと改めて意識する。
 振り返ってみると、少女は俯いて自分の足先を見ながら歩いていた。
「ごめんな」
 そう、つい口に出していたのは何だろうか。
 きっと、力加減ができず、無理に腕を引っ張ったことに関してだろう。
「……ううん、ありがとうございます」
「……」
 何も言わず、返った言葉と街灯りの下で潤んだ目に視線を逸らす。
 そういえば、この稼業についてからは、謝ったのも許されたのも随分久々だった。
 残りの駅前通りは、今度こそ互いに無言で歩いた。
 時折、背後から駅と逆方向に引っ張られる腕を軽く引っ張り返すだけ。
 改札の前に少女を送り届けるまで、視線さえも合わせなかった。
「……じゃあ、な」
 駅の前、踵を返し、駅を出たその時。
 「待って下さい!」
 そう、大声が聞こえた。
 振り返れば、人波を避け、改札の前に立つ少女は、両手を口に当てていた。
「あの、あなたの名前教えて下さいよ! いつか、お礼したいんで!」
 その、いかにも幼い様子に思わず吹き出しながらも、早乙女も大声を張り上げる。
「人に名前を聞く時は、自分から名乗るモンだって学校で教えられないのか中学生!」
 遠目にも、気分を害したのは明らかな膨れ顔で俯くのに笑い、再び背を向けた時。
「……こ! 、子ですっ!!」
 所々が、北向きの風と電車の音にかき消されながら、うわずった声が聞こえた。
 その様子が面白く、彼は、頬の傷を引きつらせ、意地悪く笑い、声を張り上げた。
「じゃあな、またなー! 迷子の子猫ちゃんよー」
 恫喝以外で久々に上げた声に、少女が笑っていたような気がした。
「また、迷ったら助けてください! 怖い犬のおにーさんっ」



 ――次に少女を見掛けたのは数年後。
 最後に聞いた甲高い声と笑い声によく似た声に、ふと顔を上げた時だった。
 早乙女とすれ違った少女は、あの時より少し背が伸びていた。
 思わず目で追い、振り返る。
 少女は既に、背後にある扉の前に居た。
 一年もしないうちに面子だけでなく内装も洒脱に変わった事務所の扉に背を向けて。
 身に纏っているのはあの日地図を持っていた有名私立の制服。
 その身体には、ガリガリでなくスレンダーだと、辛うじて呼べるくらいまで肉がついていた。
 ――そして、あの日早乙女にされかけたように、背の高い男に首根っこ捕まれて引きずられていた。
 彼が聞いたのは、そのせいで上げた悲鳴だったのだろう。
 一瞬、男の背に剣呑な視線を向けたが、それはすぐにゆるめられた。
 あの時早乙女に手を引かれながら俯いていた少女が。
 首根っこ捕まれずるずる男に引きずられながら。
首が痛くなるほど高いところにあるだろう、その背を見上げて。
「つくづく、男運の無いお嬢ちゃんだねぇ」
 聞こえるか聞こえないかの呟きに反応したのは少女ではなかった。
「……せいぜい犬のおにーさんの代わりに、手ぇ、引いたってよ」
 ぎろりと睨んだ二対にそれだけ言って背を向け、また目を閉じる。
「あれ、珍しいね、手握るの?」
「まぁ……な」
「クククッ……」
 背後で聞こえた声に、あの日以上に大げさに笑う。
 すると、裏で場数を踏んだ人間さえ震え上がらせるような視線を背中に感じた。
「――あの馬鹿に、宜しくな」
 ――返事のように、大きな音を立てて扉が閉まった。
2012.01.29



Text by 烏(karasu)