嫉妬【あかいほのお】


注意:「夢幻紳士」(高橋葉介)と「魔人探偵脳噛ネウロ」(魔人探偵脳噛ネウロ)の2作品のコラボです。
どっちも、または一方が苦手な方、こういう形の二次創作が嫌いな方はお戻り下さいませ。

※今回は話の都合上、弥子がネウロ以外とキスめいた事をします。ご注意下さい。

犬も食わない何とやら


どうにも、彼という男は、支那の上海という土地と――特に、そこへの道程の船旅というものと、ことさら相性が悪いらしい。
 だからと、言って彼は船というものが苦手な訳でも、乗り物特有の揺れに弱い訳でもない。
寧ろ、あえて船旅を選び、道中での人との出会いを、とみに、海の向こうへの旅に開放的になったご婦人方との一時の火遊びを楽しんでいる風でもある。

そんな訳だから、彼が親しい友人に自らソレを言う時は大抵、「とてもそうは見えないがね……」と一笑に付されて終わる。
 しかし、それでも彼自身は、その切れ長の黒い眼を細めて大げさに悲観的な顔を作っては、あすこへの船旅と自分は、とことんまでに相性が悪いと飄々と嘯くのだ。

君が想像するような、出会いの数も確かに多いが……それだけ、面倒事の数も多い、と言って。

前に、現地に住む友人に招かれて上海までの路を辿った時は、行きでは魂だけのご婦人と懇意になった。
 そこまではまぁ良かったのだが、その為に嫉妬深い魔術師に因縁を付けて絡まれ、ご婦人を肉体に送り届けたその帰りには、船の甲板から海に突き落とされた。
 また別の時には、帰りの船の甲板で歌唱する蝙蝠娘を見掛けたが為に、帰国してまでも付きまとわれ、挙げ句友人をも巻き込む事となった。

やァ、あれには難儀したな、と、酒杯を仰ぎながら、そんな土産話を友人に語るのも常ならば、彼の楽しげな横顔に「心にもないことを」という返事がぶつかるのもまた常のことである。
 なので、今回語られる、船の上でのある少女との再会は、彼に言わせれば僥倖であると同時に、彼と船の相性の悪さを表すに十分なエピソードなのである。





「あれっ、あなた、もしかして……!」
 

横からかけられたその声に、甲板でうたた寝をしていた彼は、日よけ代わりに顔にかけた帽子の下で、珍しく、どう返事をしたものかと、ほんの一時だけとはいえ迷った。
 その涼やかな声は、間違いなく何処かで聞き覚えのある女性の声であった。

だから、ここが街中やカフェーの席などであったならば、例え自分に覚えがあろうが無かろうが、躊躇なく顔を上げるのだが。
 しかし、ここは上海に向かう船の上。彼が今までここで掛けられた声に答えて良いめに遭った思い出は……生憎なことに、皆無である。

そして彼としては、そうした逃げ場の無い船上で出会った面倒な物は、無視することでやり過ごしているのだが。

「えぇと……ごめんなさいっ」
「……あぁ。誰かと思ったらあなたでしたか」

 しかし今回、彼が多少迷ったにも関わらず、結局、それをしなかった。
 というのも、次いで掛けられた申し訳なさそうなその声に、邪悪な物や下心がないことを聞き取ったからであり、そして。

「やっぱり、寝てました、よね……?」

声をかけたその相手が、帽子の影に完全に顔を隠していた筈の彼の感情の機微を敏感に察し、済まなそうに引き、その場を後にする気配を見せたからだ。
 彼は帽子を顔から下ろして胸に抱え、未だ幼さの残る顔を俯かせ、済まなそうに眉を寄せた声の主に柔和に笑いかける。

「いやいや、一人旅で女性を迷惑に感じる男なんてありませんよ。おっと、これは失礼」

横たわっていたベンチから身を起こし、帽子を膝へと落として背筋を伸ばして座る。
 隣のベンチを指して手で促せば、相変わらずの笑い上戸である彼女は、彼の冗談にクスクスと笑いながら従った。

「桂木女史……とでも呼べばいいのかな?」
「アハハ、やだなぁ。初対面でもないですし、弥子でいいですよー。……あれ、私、この前会った時に名前言いませんでしたっけ?」
「さァ、どうだったか……」

彼は彼女のその問いを曖昧に笑うことで誤魔化すと、傍らのテーブルから煙草とマッチを取り上げた。
 彼女の名前を知らない人間は、恐らく帝都にはいないだろう。例え、彼女と面識なく、その顔を知らないとしても、だ。
何故なら、隣のベンチの端に、ちょこんと座った少女は、現在、帝都では浅草の踊り子達以上に有名な少女なのだから。

彼女は、女だてらに、しかも女学に通いながら探偵をやっていて、凶悪な事件を解決しては連日、新聞の見出しに打たれるその名は、桂木弥子という。
 しかし、そんな名高い名探偵も、今日のように淡い桃色のドレスなぞ着てクスクスと無邪気に笑っている分には、何処にでもいる普通の娘にしか見えない。

それこそ、以前出会った時に本人が彼に言ったような、ただのお転婆で蓮っ葉な、世間の評判に合わせてほんの少しばかし背伸びをした、ただの女学生にしか。
 現に、今日はこの前のように目深な帽子も被らず、人の眼を引く鮮やかな蜂蜜色の髪を吹き抜ける潮風になびくままにしているというのに、甲板の上に疎らに佇む人々の中に、彼女の正体に気づいた者はいないようだった。

注目を集めるようなら船室に移動しょうと、紫煙を吐き出すついで、彼はざっと甲板の上を見回した。風が強い為、人は疎らなようだ。
「そちらこそ、もう少し気安く声をかけて下さったなら、僕もすぐに気づけましたよ」
「あぁ、えぇと」

弥子はそんな彼の様子には気づかなかった様子で、揶揄を含んで発した言葉に、苦笑を漏らして眼を伏せた。
 普段は二対の特徴的な形のピンで留められている前髪には本日、横に流した前髪を留める片方のピンしか止まっていない様子だ。
 俯いた拍子に顔に落ちてきた毛束を、弥子は黒い長手袋をはめた手で軽く掻き上げる。

「こっちから呼んどいて、名前を呼ばないのも失礼かなぁと思ったのですけど……その、分からなくて……」

心底済まなそうに発された弥子の言葉に、彼は煙草を口に咥えたまま一瞬瞠目する。
 しかし、その理由に思い当たると目元を和らげ、何事もなかったかのように口元のそれに点火した。
 ふぅと紫煙を吐き出すついで、前回の唐突な別れの場面を思い出し、クスリと喉を鳴らす。

「……あァ、そういえば教えていませんでしたっけ」
「はい。あの…この節は夫がその…すみませんでしたっ……!」

彼の笑いに消え入りそうな声でもって答えた弥子は華奢な両肩を竦め、心から済まなそうに眼を伏せて、一気に頭を下げた。
 というのも、彼らが以前出会った時、彼女はちゃんと彼の名前を尋ねたのだが、途中から合流した彼女の夫が横やりを入れたが為に、結局言えずに終わったからだ。

彼女はそれを、恐らく自分の責のように感じていたのだろう。
「いいんですよ。それに……気になるのでしたら、今聞けば済む事じゃないですか」
「あぁ、それもそうですよね……アハハ」

その、今にも消え入りそうな姿に笑いかけ、ふぅと肺から紫煙を吐いた所で、話に出た彼女の旦那を思い出そうとした。
 彼女の助手を務めているその男は、異人の血が混じっているのか、黒い前髪と、鮮やかな金色の後ろ髪をしていた。
 髪の長さは、ちょうど彼くらい。彼らと出会った今年の初めには、青いスーツの上に黒の外套を羽織っていた。

その人目を引く外見や、それに見合わぬ慇懃な物腰を一言で表すならば、変わった男といった所だろうか、と、彼は自分を棚に置いて考え、眼を和ませる。

生来、彼はアクの強い、変わった人間というものが好きなのだ。
 眼の前の女学生にしても、その夫にしても……いや、夫たる彼の言葉を借りるのなら、彼らは人間ではないらしいのだが。

まぁ、尚更に興味を引く理由になりはしても、ソレを失う理由にはなり得ない。
 夫といっても普通、女学生に既にお相手が決まっている場合というのは、在学中は婚約者で留め置いて、卒業と共に結納と籍入れを果たすものだが……。
 あの周到そうな男のことだ。この女学生探偵とその助手が、名実共に夫婦として認識され、結ばれていても何ら可笑しくはない。

何しろ、あんな眼をする男だから――と、彼は男の、磨く前の翡翠のような暗い色の瞳を思い出した。
 初対面のあの時、咄嗟にこの細君を背に庇った彼を見たその男の眼は、まるで間夫か何かを見るように冷ややかに、ぎらりとした光を称えていた。
 その後も、彼が彼女に過剰な興味を持つ度に、その明度が高くない宝石のような瞳に一瞬だけ、剣呑な色が見えたものだった。

「じゃあ、お名前、今、聞いてもいいですか?」

甲板を吹き抜ける風の冷たさ以外の理由で、ぞくりと背を戦慄かせた彼の耳に、興味を抑えられないと言った様子に弾んだ声が聞こえ視線を向ける。
 先ほどまでの申し訳なさそうに萎縮した殊勝な態度はどこへやら。

彼が眼を向けた先の弥子は、細い腿に付いた両手でワンピースの裾を握り込み、彼の方に身を乗り出している。
 元々、聞かれれば快く答えるつもりではいたが、ウイスキィーのような色味を称え、キラキラと瑪瑙のようによく光る瞳に見つめられると……どうもいけない。

こちらも出来る限りの礼儀を尽くして、真剣に返さねばいけない気分になってくる。
 なるほど、確かに彼らは互いのそれぞれ言うように、彼をも屈させる強い眼力を持った、人でなしの化け物夫婦なのかもしれない。

そんな事を考えて、クッと喉を鳴らしながら、彼は片手の煙草を灰皿に押しつけて手放すと、膝の帽子を拾い上げて立ち上がった。
「僕の名は夢幻。夢幻魔実也というのですよ」

名乗りと共に帽子を取った腕を折り、慇懃に礼を行うと、少女は瞠目し、次にはあたふたと立ち上がった。

「あっ、あの、桂木弥子です」

身体の横に黒の長手袋の両手を沿わせ、ぺこりと礼をした幼い顔の上に、押さえるヘアピンがないために蜂蜜色の前髪が容赦なく落ちた。

「えぇ……勿論知っていますが?」
「……もうっ!」

僅かに喉をならしながら彼の返した言葉に、弥子は悪態を付きながら髪を掻き上げ顔を上げる。
 全くもって素直なその様に、彼――魔実也は、今度は人眼を憚る事なく腹を抱え、大きく笑ったのであった。

そして、互いに眼を合わせて一頻り笑い、甲板にいる僅かばかりの人々の注目を集めた後に、再び向かい合ってベンチへと腰を下ろした。
「全く、魔実也さんってば、実はネウロに負けないくらいいじわるだったんですねっ! 何で気づかなかったんだろ……」
「おや、いいのかい? あんな嫉妬深い旦那の前に、他の男との引き合いに出したりしても」
「あ……やばいかもっ」

羞恥にやや頬を赤くしてそっぽを向いていた顔が、あっと両手で口を押さえて、きょろきょろと周囲を見回す。
 全く、色男には苦労しますねとクツクツ笑い、再び咥えた煙草に、片手で風を避けながらマッチの火を移した。
 互いの名前を聞いてから、互いの言葉から余計な慇懃さが消えている事には、どうやらどちらも気づいていない様子だ。

「で、その色男は、今日は一体どこにいるんだい?」

焦りを宿して甲板の上を滑った瞳が、一瞬だけ失望の色に沈んだのを、魔実也は見逃さなかった。
 なので、マッチを灰皿に落とし、再びベンチに背を預け、煙草を咥えたまま、さりげなさを装ってそう聞いてみる。

「あー、あいつは今、忙しいんだと思いますよ。ほら、私と違って大人だし、有能だから……」
「おやおや……帝都一と名高い名探偵が随分だな。お節介ながら……この船旅も、どうやら、ただの行楽ではないとお見受けするが」
「あはは、は」

不相応な謙遜を揶揄してやれば、笑い上戸で表情豊かなこの少女にしては珍しく、歯切れの悪い返事が返って来る。

「やっぱり魔実也さんは凄いなぁー。私なんかよりよっぽど探偵に向いてるよ!」

それに眉を上げて答えれば、それに目敏く気づいた弥子は、誰が聞いても空元気にしか聞こえないような声を出して、大げさな感嘆の声を上げた。

「まぁ……それを生業にしていた時も、あったといえば、あったからな」
「へぇ! 同業者さんだったんだ!!」

素直な驚きに本日何度目か知れず丸められた、蒸留酒色の瞳。
 それはやはり、人に――恐らく彼だけではなく、大体の人間に対して何かしら好ましい印象を与える。それこそ、口当たり良い酒のように。

だから、きっと、そのせいであろう。

「では、同業者のよしみで聞くが。あんたが今、そんな顔をして当たってる仕事ってのは、一体何だ?」 

酒に酔っていない。どころか、全くの素面の状態で、そんな余計なお節介を焼いてしまう気になったのは。
 急にベンチから身を起こし、じっと自分の眼をのぞき込んで来た魔実也に、弥子は一瞬、びくりと背を震わせた。
 

「さぁ、素直に話しておくれ。出来るだろう?」
「うん……」

ぼんやりと焦点の定まらない視線を、しかし、顔をのぞき込む魔実也のそれととしっかりと合わせたまま、弥子は素直に頷いた。
 その頭の上にポンと手を置き、軽く頭を撫でる。

「よし、よし。いい子だ」

それを合図に、弥子は魔実也の眼を見ていた瞳を正面の水平線に向け、事のいきさつをぽつり、ぽつりと話し始めた。
「……ジェニファー・ユーイングっていう女優さん、知ってます?」
「あぁ、つい最近聞いたな。来日してたとか……」

確か、大陸の方で最近有名な女優だったか。確か、露西亜くんだりから下って来て、満州映画に出るようになったとかで……露西亜のお貴族様なのではなんて噂もあった気がする。
「今回の依頼の人、その人なんですよ。何でも来日中に脅迫の手紙が届いて、その犯人を捜して欲しいって……それはまぁ、ちゃんと、終わったんですけど……」

お礼に試写会に招待したいと、仕事の延長として上海に呼ばれ、彼女の帰国に合わせてこの船に乗船する運びとなったのだという。
 彼女は弥子の夫をいたく気に入ったらしく、この船旅の間、用事を見つけて二人を呼びつけては、少女の夫にあからさまに甘え、ついでに傍らの少女の存在を無視し……といった事を続けているらしい。

しかし、彼女にとってはそうした事は多々あることだし、確かに良い気はしないなりにも、彼が他の女に拘束されている間は、こうして好きに飲み食いして歩ける。

つまり、今までは努めて気にしないように振る舞って来たし、じっさいそれも出来ていたのだ。
「自分で言うのもナンなんですが、私って、余り嫉妬とかしないんですよ。
 あいつは何か、それが不満みたいで……。私以外の女性にはわざと優しくするんですけどね。
 そりゃ、人間だもん、悔しかったり悲しかったりするし、すっごく酷い目に遭った時には泣くけど……」
「………」

言葉を切った弥子の横顔、その澄んだ瞳の上で盛り上がった透明な滴が一筋、丸く白い白い頬を伝って行くのを、魔実也は無言で眺めていた。

「なのに、変なんですよ。その人がネウロと一緒に話してるのを見て、あぁ、綺麗だなぁ。って思ったら、次の瞬間、殺してやりたい……って思ったんです」

今にもそのシミ一つないしなやかな背に回り、ドレスから剥き出しになった白い肌に掛かる見事な赤毛を掴んで引いて、その喉元を切り裂いてやりたい。
 でなければ、火のように赤いドレスの裾に、それに負けず劣らず鮮やかで艶めかしい本物の火を放ってやって、焼け焦げ、逃げ惑う様を見てやりたい。

女優が夫と話すたった数分の間に、彼女は他にも色々と残虐な殺しを思いつき、ついにはその陰惨な面白さに堪えかねて、大声で笑い出しそうになってしまったのだという。

「ね、変でしょ? それで私、気づいたらシャンパン用のアイスピックとか握ってて、もう……凄く怖くなって……!」

彼女の様子に気づいた夫に声を掛けられた瞬間、正気に戻り、途端にいたたまれなくなり、夫の制止も聞かず、客室を飛び出してがむしゃらに走ったのだという。
 そして、偶然出た甲板でいつもの調子を取り戻しかけた所で、魔実也を見掛けたという訳だ。

「私……どうしたらいいのかなっ! 探偵なのに……あいつにご飯食べさせなきゃなのに、このままじゃ、本当に人を殺しちゃう……!」

そう言って弥子は、涙の溜まった両眼を手袋の両手で押さえて俯いた。
 ……彼女自身は、恐らく気づいていないだろう。
 自分がそうして苦々しげに口を歪めて胸の内を叫ぶ度、嗚咽に堪えきれなくなって口を開く度、その小さな口の中で、ちろちろと蠢く赤い色があることに。

火を点けたまま、口から離した煙草を片手に魔実也はその色を暫しじっと見ていたが、やがて、碌に吸ってもいない煙草を灰皿に押しつけて、ベンチから腰を浮かした。

「失礼……」
「え……?」

そして、涙に濡れた丸く柔らかな両頬を両の手でもって壊れ物のようにそっと宛がって弥子の顔を上向かせると、その桃色の唇に、自身のそれを重ねたのである。

「……んんっ!」
「んぐっ……」

弥子の口腔内で逃げ惑う物は、舌先を差し出せば従順に絡みついて来た。全く、淫蕩な事で……と内心で嘲笑う彼の心の内などしる由もなく。
 それを容易く自身の口内に引き入れる事に成功した魔実也は弥子がまだ何が起きたか分からず眼を白黒させているうちに口を離して身を翻し――背後から自身の頭に向かって飛んだ物を、右手でもってつかみ取った。

振り返りながら確認したソレは、錐のように研がれたアイスピックであり、点り始めた甲板の橙の灯火に、ぎらりと冷たく光っていた。
 この質量を、あの早さで頭に突き刺したのであったら、頭蓋を破って命を奪うに十分だったであろう。

彼はハァと大きく溜息を付き、心底呆れた様子の顔を作り、背後の相手を振り返る。
「全く……挨拶にしては随分じゃァ、ないかね?」
「フン、人でなしの間男には上等すぎる挨拶だろうに……」

今し方、自身の命を奪おうとした凶器を手の中で弄びながら、顔を上げた先には、先ほどまで聞いていた彼女の話における二人の登場人物の一人が立っていた。

「ネウロっ!?」
「……全く、貴様は一体何をやっているのだ? ヤコ!」

相変わらず、人眼を引く彩色の、鮮やかな青のスーツの男は、以前に会った時に顔に貼り付けていた柔和さを完全に消し去り、無表情にこちらを見ていた。
 氷のように冷たいその深緑の視線は、魔実也を素通りし、その背後で驚いたように声を上げて身を乗り出した弥子に注がれていた。

しかし、それはほんの一瞬のことで、その視線はすぐに、負けじと相手を睨む魔実也へと向けられ――向かい合った二対の氷の間で青い火花が散った。

「全く……我が輩、貴様の事を少しばかし買いかぶり過ぎていたようだな……」

男は、睨む眼の力を緩めぬまま、その口元に酷薄な笑みを作り、魔実也へと歩み寄った。そして、魔実也の避ける間もなく、その胸ぐらを掴んだ。
 彼はタイを掴んだ男の黒手袋の手に自身の手を重ねて、ふっと小さく溜息を吐き、眼を伏せた。

「ほぉ。挨拶代わりの暴力の次は暴言と来たか。しかもどうやら今日は、前回と違って慇懃な態度一つ保つ気もな――」

悠々と発された、彼の言葉はそこで止まった。
 男が、彼の右手からアイスピックを奪い、一閃の間に、彼の開けた口の中へと一気に突き立てたからだ。

「……ちょっ! 何やってるのネウロっ!! 魔実也さんっ、まみやさ……ん」

眼前で行われた惨状に、それまで呆然と成り行きを見守っていた弥子は正気を取り戻した。
 叫ぶと同時に立ち上がり二人に駆け寄ると、魔実也の身体から手を離した男の胸に蒼白な顔で掴みかかった。

「フン、随分と大げさな」
「あっ、あんたねぇっ! 人一人殺しておいて、何なのその言いぐさは!?」
「……全く。そういうあんたこそ、随分と乱暴じゃないか? 彼女の言う通り、死んだらどうするんだい?」
「へっ!?」

背後からかかった声に弥子が振り返ると、コンクリートに尻餅を付いた魔実也が、呆れた様子で眉を潜め、向かい合って口論する二人を見上げていた。
彼が座るその傍らには、先ほどのアイスピックが突き立てられ、そこには――火のように真っ赤な、肉で出来た芋虫のように醜悪な生き物が串刺しにされていた。

魔実也は、ギーギーと鳴いて蠢くそれに冷ややかな一別をくれると、先ほど掴まれた襟を整えて立ち上がった。
「……何でこんな事、に……?」

 それと入れ替わるように、子猫か何かのようにして男に噛み付いていた弥子が、力を失い、へなへなと床へと座り込む。

「……件の露西亜娘は随分と君に気があるようだね。まさか、奥方に、わざわざこんな物を仕込むとは」
「気をつけていたつもりだったのだがな。……しかし、娘は褒め過ぎというものだ。アレはもう、五十路も近い」
「なるほど。君というものは実に、妖怪女との因縁が余程深いようだね」
「まぁ、貴様には及ばんがな」

一頻りの言葉の応酬を交わし、自分の頭上でクスクスと笑い合う男どもを呆然と見上げる弥子に、膝に手を付いてかがんだ魔実也の右手が差し出された。

「あ……どうも……? おわっ!」

それを受け取って立ち上がろうと伸ばした手が触れるか触れないかの間に、ワンピースを纏った華奢な胴体に、青いスーツの腕が絡みついた。
 腕の持ち主はそのまま弥子の身を反転させて、肩に顎を億と、抱え込むように一層強く両腕を巻き付けた。

「どういたしまして、先生っ!」
「……で、魔実也さん。これって、一体何なんですか?」

剥き出しの肩の上で笑いに震える喉から発せられた言葉と、未だ恐怖に引きつる頬に擦り寄せられた滑らかな頬を極力無視して弥子が訪ねれば、
 差し出した手をとうに引っ込め、一連の様子を心底可笑しそうに眺めていた魔実也がどうにか笑いを収めながら応対した。

「何てことはない、ただの悪い虫ですよ。嫉妬の虫とでも言うのですかね……あなたではなく、彼の大女優の」
「えっと。と、いうのは……?」

そうして続いた魔実也の詳しい説明によれば、弥子は本日、何かの機会にこの虫を飲まされた事により、彼女の並々ならぬ嫉妬心を肩代わりする羽目に陥っていたのだという。
 つまり、普段は女の情念に疎く、自他共に認める図太い神経を持つ弥子を参らせていた殺意は本来、その女優が弥子に向けていたものなのだという。

「あ、何か……分かったような分からないような……」
「大丈夫。つまり、この程度の話も理解出来ない馬鹿な先生に、今回は何の責任もないということです」
「まぁ……そういうことでしょう」
「ちょっ、馬鹿、ってとこぉ、一応……フォローして下さいよぅ!」

お気に入りの人形でも抱きしめるように抱えられ、上機嫌な男の腕の中、奥方は眉を寄せ、恥ずかしげに頬を上気させながら、息も絶え絶えに抗議の声を上げる。
 というのも、さきほどからしきりに頬ずりを繰り返していた顔が、弥子の顔のあちこちに口づけ始めたからであった。

「そうだなァ……。し損ねたフォローの代わりと言ってはナンだが……」

言葉を紡ぐのも難儀な様子にむぐもがと、男の腕の中で暴れる少女に笑いかけ、魔実也は、未だ足下に止められたままであったアイスピックを引き抜いた。

「ちょっ、やめてネウ……んぷっ。はぁ……あっ!」

自分を串刺しにしていたものが消え、すかさず逃げだそうとしたスカーレット色の肉の塊のような芋虫を指先で摘み上げる。
覆い被さる顔を両手を突っぱねて必死に避けようとしながら、逆に指先に軽く噛み付かれ、手袋を奪われた弥子がソレに注視しているのに気づき、掲げてみせる。

「コレは、僕の手で件の女優に返して来よう。だから……君は安心して夫君の愛情に答えてるが良いよ」
「あ、ありがとうございます……まみや、さん」
「……ム」
「……いっ! 痛いネウ……んっ、んぐっ、ふぁっ……」

猫のように黒目がちの瞳を細めた、その蠱惑的な笑みも、今の弥子には狼狽の対象でしかない。
 そして、礼の意味を含めて呼ばれた彼の名前は、彼女の夫ネウロにとっては、一度火の付いた独占欲に更に注がれた油でしかなく。
 結果として、弥子を拘束する両腕の力を更に強め、ついでにその中で身体を反転させ――ネウロの正面から唇を受けさせる事となった。

「おっと。では、僕はアテられないうちに失礼するよ。亭主殿のコレにね」
「うーうーうぅ!」

両頬を手の平で固定されて長身に覆い被さられ、助けを求めて呻く彼女を置いて、魔実也はそそくさと甲板を降りた。

「おォ、怖い怖い。アテられなくて良かったよ」

階段を降り、客室の並ぶ場所まで駆け出してから歩を止めた彼は、独り言と共にクツクツと笑う。
 その様子を怪訝な顔で眺めて給仕が通り過ぎた後、彼は漸く自分の手の中で、キイキイとヒステリックな泣き声を上げて文句を言う芋虫を省みた。

蠢くそれを指でつまんだまま顔の上に掲げて見上げ、尚も可笑しそうに笑ってみせる。

「あの男のは恐らく、こんなモノじゃ済まなかっただろうからねぇ」


*



この時、余計な鞘当てを食らった分を、上手く返し、更に続く窮地も切り抜けられたと魔実也は思っていた。
 しかし、後にそれが完全な間違いであったと改める事になる。
 何故なら、いざ船が上海に船が近づいた時――彼は誰かに船上から突き飛ばされたのである。

以前とは違い幸いにも、着衣のままで泳いだとて十分に港へと付ける距離だったので大事はなかったが、しかし、港で彼の到着を待っていた友人は大層腹を抱えて笑った。

「やぁ魔実也、色男が台無しだな。水妖とでも懇意になったか?」
「お前が僕を何と呼ぼうが、無駄口を叩こうが構わないがね……。愚図のように突っ立ってないで、せめて、その両手を貸してくれたまえよ」
「ふふふ、分かった分かった……うわっ!」

ばしゃん、と、鳴った音に港の人々が振り返った時、海を背にして立った魔実也は口に乾いた煙草を咥え、マッチを擦っている所であった。

ふぅと一つ紫煙を吐き出すと、海の中で代わりに水浸しになり呆然と浮かぶ友人を振り返り、その濡れ髪を掻き上げてクツクツと楽しげに喉を鳴らしたのだった。
「なぁに、興味本位に犬も食わないという物を口にしたばっかりに、この低落という訳さ」 終幕


キヤスト:
夢幻魔実也(夢幻紳士怪奇篇+外伝)、桂木弥子(魔人探偵脳噛ネウロ)、脳噛ネウロ(魔人探偵脳噛ネウロ)

以上、竹見さまから頂いた相互リクで「夢幻紳士とネウロのコラボ『人外【ひとでなし】』の続編でした」
リクエスト頂いてすぐネタが出て来たので、他のより先に仕上がってしまいました。
……一万字近くあります orz フランクで無駄が多いので彼はきっと、外伝の魔実也さんです。
これも、書き込みふやしてあと2〜3話増やしたら冊子版が作れそうだなーなんて。
自分が長文書く事になれてないものだから、ちょっと長くなるとすぐ本にしたくなる貧乏性ですw

竹見さま、ちょうど本家と発売が重なってしまってアレですが…。どうかお納め下さいまし!


date:2009.10.25



Text by 烏(karasu)