痴話喧嘩


ココロウチの青海さまに頂いた絵へのお返しで、「事務所でまったりのネウヤコ」デス。
※三年後設定となります

平等だから、おこること。


 ある夏の日、桂木弥子魔界探偵事務所での昼下がり。

「ヤコ」
「んーと……あかねちゃん、この書類はどう書けばいいかな?」

 トロイに頬杖をつき掛けた、本日何度目とも付かないネウロの呼びかけは、やはり予想通り、呆気なく無視された。

「ここを……あっそか、ありがとうあかねちゃん」
「ヤコ、ヤコ……いい加減にしろ」

 自分を気にも留めないその様子に、ネウロは不機嫌に眉を寄せ、一段と低く作った声でヤコの名前を呼ぶ。
 ぶすっと片肘を付く姿勢に変え、空いた右手の指先で、答えまでの時間をカウントするように、トントンと断続的に机を叩きながら。

「あーぁ、本当、法律ってめんどくさいよねぇ……」

 しかし、ボールペン片手に顎の辺りまで伸びた前髪をうっとうしげに掻き上げながら、苛々と眉間に皺を寄せた弥子の横顔に全く変化はなかった。

「もっと自分で勉強しとくんだったな。吾代さんや……吾代さんに指示した誰かさんになんかに、任せないでさ」

 変化といえば、せいぜい、ちらりとこちらに視線を向け、あくまで独り言の風に、そう嫌みらしきことを言ったくらいだった。
 しかも、やはりネウロに全く視線を向ける事をせず。
 この強情がと、言葉にする代わりに舌打ちに込め、ネウロは一層に苛々と机を叩いた。

「はて……一体、何故そんなに臍を曲げているのだか」

 午前中に大した簡単な事件を済ませ、午後は全て白紙の予定で昼頃に事務所に帰ってからというもの、弥子はずっとこの調子だった。
 どうやら、帰宅から今までにネウロが会話の中で何気なく吐いた言葉のどこか、または何かが、癪にさわったらしいのだが。
 弥子はいつものようにそれを指摘するでもなく、ふと唐突に表情を消し、以降数時間、ネウロに対して徹底的な無視を決め込んでいるのだ。
 ここまでどんな罵声を浴びせようが、どんな小物を投げつけようが、痛みなどに一瞬は反応しても結局は馬耳東風。
 あかねと何か話し合い、いつのまにか予め用意していたらしい書類とばかり向き合って、ネウロを意識の内に全くいれていないように振る舞う。
 恐らく、件の言葉は原因ではなく引き金であり、弥子にとってはこちらに対してここまでに色々と積み重ねた物があるようだが。
 無論、推察できるもの、言われていないことに関しては全く分からないネウロである。

「……すぐ忘れる人間の癖に、変な事には記憶力がいいのだな貴様は」

 何が悪いか考えるだけ無駄と、大仰なため息と共に嫌みを返しながら、舌打ちし、ぷいと子どものように顔を背け返す。
 互いを視界から外して無言のまま、丁度二分ほどの間を空け、さて、どれほど堪えたかと相手を目線で伺えば。

「もーやだよぅ、あかねちゃーん! 法律家がみんなして私をいじめるよーっ!」
「………」

 弥子はこちらなど全く見ておらず、黄色の猫っ毛を両手でぐしゃぐしゃとかき混ぜながら、壁に面した机に突っ伏して七転八倒していた。

「………強情め」

 机に額を押しつけるようにして、嫌々と頭を振る弥子の頭を撫でていた、壁から生える三つ編みの秘書がちらりとこちらに毛先を向けた。

「アカネ――」

 それ幸いと名前を呼び、言い掛けた命令を下す前に、あかねはまたそっぽを向き、半べそになって顔を上げた弥子に書類の登録の仕方を教える作業へと戻った。
 そして、再び、やれ書く所が多いの複雑だのと気を取り直してぶーたれだした弥子は、こんどはちらりともこちらを見ない。

「ヤコッ、やーこ、やこ」
「よし、やっと一枚書き終わったー! ありがとうあかねちゃんー!」

 ネウロなど全く必要とせず、寄り添い合って完結している探偵と秘書。
 それはまるで、留守だった頃の事務所を覗いているような錯覚を思い起こすほどに完璧な、無視。

「ふむ……」

 その、芯の通った徹底ぶりに、ネウロは怒りを通り越し、ある種の感慨を覚え、その、口調は喜んでいるのに何故か目の笑っていない横顔に視線を置いたまま、僅かに首を傾げる。
 今から三年ほど前――ネウロにとってのほんのちょっと前の弥子だったなら、先ほどのような威圧を与えればすぐにこちらに従ったものだった。
 先ほどのように突き放す言動をすれば、それを真に受け、虚を突かれたような顔で呆然ともした。
 一時本気で追い出しに掛かった時など、涙を流すのも忘れ、呆けたようにしていた。
 目を閉じれば、はっきりと思い起こせるどれもこれも。

「あの頃はまだ……可愛げがあったのにな……」

 再びうっすらと目を開け、記憶よりもやや丸みの減った、卵形の頬をマジマジと見ながらため息を吐けば、黙ってペンを走らせていた、ノースリーブから延びる華奢な両肩が、魚のようにびくりと跳ねた。
 あれは多分、こちらの言動の何かが琴線に振れての行動で、恐らく、そこに含まれた何かに怒ったのだろう。
 ネウロはそう推察し――数度の瞬きの後、大きく目を見開きにんまりと邪悪な笑みを浮かべる。
 ここまでどんな罵声や暴言、机の上にあった小物類(パソコンやカッターなどの大物凶器類は、予め弥子によってどこかに片づけられていた)をぶつけても、眉一つ動かなかった相手。
 それが、不愉快にとはいえ、自分の行動によって数時間ぶりに感情を動かした。
 ネウロはそれが、もう単純に嬉しかったのだ。
 なので、彼にしては珍しく、結果を深く考えず、弥子の表情の無い仮面を砕くための、更に有効な弾丸を探すことに専念した。
 キィと椅子を軋ませて背もたれに凭れて仰け反り、胸の前で両手を組んで、ノロノロと思案を巡らす。
 それらの音に、全くこちらを見ないまでも、わずかに耳を澄ませたことを気配で感じ取り、浪々と、用意した言葉を打ち込み始める。

「あの頃の貴様といえばは馬鹿で豆腐で貧相でと……愚かで仕方なかったが、その分、人を頼ることを知っていた。不当な事に反発しながらも、自分の愚かさを知る謙虚さを――」

 一層得意になり、続きを発しようとした時、今まで黙って机に向かっていた弥子が、すくっと立ち上がった。
 机に両手を付き、一瞬伏せたその顔にぱさりと耳に掛けていた前髪が掛かり、ネウロの視界から弥子の表情が消える。
 ネウロと弥子の間でおろおろと毛先を振っていたあかねが、そのまま固まった弥子の顔を心配そうにのぞき込み――そのままぴくりと、凍ったように動きを止める。

「ム、どうしたアカネ?」

 呼びかけると、あかねはゼンマイのようにぎこちない動きで、こちらに毛先を向け、今度は壊れたようにぶんぶんと毛先を振った。
 ――謝って、助手さんとにかく謝って、早く謝って!
 ぐわんぐわんと、あかねの思念が脳に反響するほどにうるさく響き、思わず現実で耳を塞ぎそうになった。

「謝るも何も、我が輩は一体何をしたのか皆目――」

 音ではないそれに、声で答えてしまったことは失敗であった。
 ダンッ! そう音を響かせて再び机に両手を突いた弥子の様子に、その場に満ちていたあかねの思念も、ネウロの声も、すうっと自然に、波のように引いた。
 外を間断なく走っている筈の車の音さえも何故かタイミング良く止み、唯一聞こえるのは、窓の向こうの街路樹から僅かに届く蝉時雨のみとなる。
 すぅっ、と、弥子が息を吸う音に、ネウロとあかねがはっと我に返れば、弥子は顔を伏せたまま、手元の書類の束を乱雑に抱え、ネウロと、トロイを挟んで向かい合った。
 自分の肩の高さにまで両手を上げて、離す。
 そのたった二動作で、トロイの天版の上にはあっという間に、沢山の書類が派手な音を立ててぶちまけられた。
 それらの波をネウロが一別する間、弥子は両手を上げたまま俯いている。

「貴様……一体、何のつもりだ?」

 あまりに自分を舐め切ったその態度に、流石にネウロも普段弥子には抱かないような四割弱の腹立ちが募り、書類の一枚をつまみ上げながら相手を見上げ――内心で絶句した。

「そこまで言うんでしたら……残りは脳噛さんが書いて下さい」

 脳噛さん、その、この事務所の中では聞きなれない単語が、聞いたことのない声により、音になって鼓膜に届いた瞬間、思考が完全に凍り付いた。

「ねぇ、脳噛さんならすぐ書けるでしょ? 事務所の所有者変更と、私達の事業届け」

 追い打ちを掛けるような言葉に促されるように、のろのろと見上げた弥子は−ーにっこりと笑っていた。
 効きすぎたクーラーのせいか、髪が影を作るせいか、やや青白い頬をひきつらせ、薄い桃色の唇をつり上げて。
 いつもより輝きの少ない、丸い瞳の形はいっさい変えず、射すくめるように、挑むように。

「私とあかねの二人で。……事務所を持つ為の、これが事業登記と、これが脳噛さんにこの事務所を譲渡する――」

 三度聞こえたその単語に、凍り付いていた思考は唐突に融解し、次には制止もきかない、額の奥がカッとマグマに熱されるような激情として戻ってきた。

「コラ、待てヤコっ。ヤコッ!」
「……この事務所の所有名義を、脳噛さんの名前に書き換える為の――」

 俯き、表情一つ変えないままに、あれは、これはと、トロイの上に四散した紙切れをてきぱきと指さす弥子に声を掛ければ、一端は口を閉じたものの、再び書類を指さし始めた。

「……違う、言い直しを求めたのではない」

 目の前の書類に伸ばされた手を、とっさに、黒手袋の手で加減も忘れて掴み、珍しく力尽くで止める。
 その手の、つい先ほど、やれ変わった可愛げのなくなったと評した事さえ忘れてしまうほどの頼りなさに、はっと手から僅かに力を抜いた。

「いっ……」

 冷房で冷え切った、夏の最中だというのに日焼け一つせず、血管の浮き出て見えるほどに真っ白な手首。
 それは、大人の女のものではない幼い子どものそれのようで、片手で掴んでもまだ指先が余るほどに細い。
 そして、その腕は、こうして振れなければ気づかないほど、小刻みに震えていた。
 それが、別に強すぎる空調に震えてことではないだろうとはわかっている。
 だから、あえて行動の理由を言うならば、結局はなんとなくなのだろう。
 その腕が震えていることに気づいた時、ネウロは無意識に指先に指を絡め、口元に持っていき、ふうと自分の息を吹きかけ、自分にほとんどない熱を与えるように。
 小さな手の甲を傾けてぺったりと頬を寄せてしまったのは。

「あ、」
「――ヤコ」

 名前を呼ばれてハッと目を見開き、逃れようと力なく暴れ、手の甲を引っかく。
 しかし、暴れるその腕は力なく、やはりまだ、氷のように冷たい。
 だから、温めなければ……何故かそう思った。

「離してっ、離して……くださいっ」
「断る」

 だからまだ、この手を自分の頬から、離すことはできない。

「う………っ」

 黒手袋の手のひらと頬との間に一層強く挟み込んだ小さな氷に熱が戻るのと連動するように。
 ずっと無表情だった弥子が、ずっと見開いていた茶色の目を細め。
 そして――今にも泣きそうな子どものように顔を歪め、すんと僅かに鼻を啜った。

「そ、そういうことですので……もう、失礼しますっ」

 ネウロの表情で見てとったのか、弥子はすぐにはっと、目を見開き、口と閉じて俯き、きびすを返し、トロイに背を向けようとした。
 だが、その顕著な変化をこの機微に疎い代わりに場の変化に鋭いネウロが見逃す筈はない。

「まぁ……待てヤコ」

 首を捻り、顔を背けると同時。とられたままだった弥子の手が繋いだままぐっと強く引かれた。

「うぎゃっ!」

 弥子は。天板一杯にばらまいた書類に空いた片手を突いて、辛うじて顔から転ぶのを避けることが出来た。
 しかしそのせいで、弥子は、未だ自分の腕を掴み、目前で満足そうに笑うネウロと、額と額を合わせるような距離で視線を合わせる事となる。
 その表情をよく見てやろうと、ばさりと頬に掛かった髪を掻き上げて、ついでに頬を軽く抓れば、ぐうと喉を鳴らして唇を噛む。
 すぐにでも俯こうとした顎をすかさず掬えばせめてもの反抗なのか、せめてもの反抗なのか、潤んだ目は静かに伏せられ、横に視線を逸らした。
 先ほどから貫く強気な否定の態度。そのくせ、鋭く細められた瞳には,先ほどまでの突き放すような強さは見えない。
 寧ろ、その瞳は逸らされた先で揺れ、まるで縋るようにこちらを見ている。

「何だ、親に捨てられようしている幼い子どものような顔だな……」

 続いて、こちらもわざとらしく目を伏せ、小さく嘆息をこぼしながら、上目で相手を見上げ、僅かに震えるむき出しの肩に顎を乗せる。
 死角でにやぁりと口元を綻ばせながら、声だけはわざと低く、小さく囁くように。

「今から、脆弱な我が輩を無情にも捨てて出ていこうとしている――性悪な、非情な悪女の癖に」

 そう、耳元に言葉を流し込む。
 それが、崩れかけた仮面の僅かな皹をこじ開け、今まで徹底して貫かれていた強さは、いともたやすく砕けた。

「ん……なのよっ!」

 聞き慣れた、きんと上がった甲高い声がネウロのすぐ耳横を掠め、次には、ひう、ひうと、必死に整えられる呼吸音と、胸に触れた鎖骨の下で高まった心音。

「あんたが、あんたが先に……言ったんじゃないっ、期待外れとか……何っ、とかっ!」
「言っていない」
「い、言った! この前も言ったし、つい数時間前にも絶対言った!」
「だから言っていないと……こら、喧しい、そう耳もとで叫ぶな」

 流石に辟易し、両手で冷えた肩を押して、振れていた身体を離す。
 ついでに脇に手を入れて持ち上げてトロイの上に引き上げ、書類が散らばった天板の上に座らせた。

「やっ……!」

 反射的に震えたものの、普段の慣れから弥子の身体はすぐに、たやすく力を抜いた。
 こつん、と。
 されるがままになった脚に履いたヒールが、がつんとトロイに当たって音を立てた。
 そういえば、この高いヒールも、近頃になって履くようになったものだったなと、今更思う。

「言った……もん……」
「言って、いない」

 膝を折り、トロイに正座する形になった弥子を今度は完全に下から見上げれば、今度こそいいわけの聞かないほど、幼く頬を膨らませていた。
 その赤く染まった顔を見上げながら、ふう、と吐いた嘆息に詰まっていたのは、呆れ以上の安堵だった気もするが。
 そこはあえて考えないでいることにした。
 やはり、近頃どうも、弥子のせいで棚上げにしている事象が増えた気がする。それも含めて。

「我が輩は、貴様が今までより扱いにくくなったと言ったのだ」
「同じじゃん!」
「違う」

 尚も噛みつこうと牙を剥くのを間髪入れず一蹴すれば、弥子はタイトスカートの上に両手を乗せて唸った。
 その人形のように白い手首が、掴んだ時の鬱血でうっすら赤く染まっていることにも、自分は安心している。何故かは知らないながらに。
 さて、どう説明したものだろうか。自分でも掴み切れていない、この肯定的な否定の意味を。

「貴様は……ずっと強くなり、賢くなった。だから、扱いにくい」
「そんなの……扱いにくいってだけでおなじ――」
「違う」

 むっと膨らんだ頬を抓ると、弥子は、すっかり拗ねた、じっとりとした目で睨んで来た。
 いくら成長したように見えても、やはり、こういう事に関して、まだ子どもなのだろう。
 ヒトの機微に疎い魔人さえもそれに気づくほど、完成した人形にはほど遠い。
 喜怒哀楽の激しく幼い。人間らしい人間、桂木弥子。

「ある意味、褒めていたのだ……単純に扱えない複雑さが加わったと」
「ある意味は余計だし、それって褒められている気がしないんだけどさ……」

 弥子は背を曲げ、鼻先の触れあいそうな距離で疑り深く顔をのぞき込んで来る。
 それは、つい数時間前の、ネウロが何気なく呟いた言葉を聞いた途端に表情を無くし、紙ばさみからてきぱきと書類を取り出していた姿とは全く違う。

「そら、そこで素直に尾を振って喜ばない辺りが多少は賢くなった」
「詭弁じゃない、それって……っ!」

 付きつきられた鼻先を摘み、不意を疲れて間抜けに開いた口に深い口づけを落とせば、焦る風もなく背中に腕が回った。

「むぐっ……んっ、はぁ……っ」

 初々しさが無くなったのは少し惜しかったろうかと、流し込む唾液がごくりと飲み込まれたのを聞きながら多少思った。

「はぁっ……!」

 赤い顔でケホケホと蒸せた弥子の背中を気づけば無意識にさすっていた。
 それに習って力を抜いて、肩に顔を埋めてくるのを、これまた自然に抱き止める。
 がさがさと、弥子の膝で書類が鳴って、いくつかがそのまま床に落ちた。

「あのさ……」
「何だ?」
「わざとじゃないんなら……まぁ、いいや」
「分かれば良い」
「それ……こっちの台詞」

 本人は全く気づかれていない様子だが、肩に乗った顔が、はぁと安堵の息を吐いたことにネウロは気づいていた。

「今日のところは、許して、あげる」
「よし……今日だけは許されてやろう」
「……傲慢過ぎる!」
「それはお互いだろうに」
「そっか」

 互いの背に腕を回したまま、次に互いに顔を上げ――顔を見合わせてひとしきり笑った。


あれ……まったりしていない、ような……?
とりあえず、弥子に『脳噛さん』って言わせたかっただけみたいですどうやら。
あと、弥子に押されてたじたじしているネウロが書きたかっただけのようで……。
遅れてしまった上に、リクエストに沿っているのか怪しいですが、お納め頂けたら幸いです。


date:2010.07.21



Text by 烏(karasu)