とても、懐かしい味のする夢を見た朝のこと。


さっきまで、確かに見ていた夢の余韻は段々と消えてなくなり、代わりに、慣れ親しんだ物達が与える感触が五感へと染み渡って来る。
包まる布団の快い温もり。カーテンの隙間からうっすら射す朝日と、鳥の声、そして――僅かに上る焦げ臭い……匂い?

夢と現実の境が曖昧なまま、枕元で充電していた携帯の画面を見る。
ディスプレイには8:30という数字と赤色で表記された(日)の文字。
それを頭で確認し、弥子の中で漸く、今有る現実の時間と自身とを結ぶ線が繋がって行く。

「ん、ん――っ!」

布団の中で寝返りをうち、欠伸とともに大きく身体を伸ばす。
途端、からっぽの胃袋にその臭いが流れ込んだ事でムカムカとした気持ち悪さを覚え、咄嗟に口を塞ぐ。

この――恐らくは階下から漂っているであろう臭いを、彼女は以前にもこういった形で嗅いだ事があった。

中学生の頃で有ったろうか。その日偶然にも、仕事が休みであった母親がまだ起きて来ない弥子の為に朝食を作ろうと独力で奮闘し、結果、全てを見事な消し炭へと代えてしまい――

その時の、大惨事としか形容出来ないような光景と、その事後処理の様子を思い出し、弥子はぶるりと肩を震わす。
「……ガツンと言わないと、絶対やめないからなぁ―、あの人……」

欠伸混じりでそう呟き、階下であの日が再現されてしまう前にと、ぬくぬくと心地よい寝床から嫌々と抜け出した。

寝ぼけてはっきりしない頭のまま階段を下り、リビングへ続くドアを一気に引き、キッチン側に声をかける。
「あのさお母さん、流石に料理するな、とはいわないけど、するならせめて換気扇位は回して……」

続く言葉は、寝起きの渇いた喉に張り付いて、まともな言葉として出て来なかった。

窓から差し込む清々しい朝日の下、フライパンを前に舌打ちする見慣れた青い上着の背で揺れるのは、ご丁寧にも均等な蝶結びにされた、灰色のエプロンの紐。

流しに積み上げられているのは、おおよそ半パック分は有りそうな卵の殻と、ボウルや菜箸泡だて器といった、普段見慣れたメジャーな調理器具。

更にその横に積み上げられた――今、舌打ちと共になされたフライパンの一振りでまた上に重なった――真っ黒に焦げた物体がいくつか。

状況把握を恐れて入力を拒否する脳をよそに、視覚が勝手にどんどん情報を仕入れて行く。

「ね…ぇ、」 

何で、あんたが朝っぱらから家にいるの? てか、一体何してるの? その恰好、は……何?

続けたい言葉が沢山有りすぎて、結局どれも口に出す事ができず、ただただ、背筋を冷や汗が伝って行く。

受け止めきれない現実に、弥子の精神は、ある一つの可能性を信じ始めていた。
――そうだ、きっとまだ、夢を見ているんだ。
それなら話は簡単だ。このまま、この扉を閉めてベッドに戻って寝直してしまえばいい。
 そうして、次に目が覚めればいつも通りの……。

「……ようやく起きて来たかと思えば……。一体、何を寝ぼけておるのだ?」
「ヒぅっ、」

その可能性は、実際の行動に移すより先に、いつの間に移動したのか何時ものように重力を完全に無視して天上に立ち
至近距離で視線を合わせて顔を覗き込んで来た『夢』に話しかけられた上、左右の頬を思い切り引っ張られた事で限りなく無に等しくなった。





「えと……何、やってるの?」

自分を尊大に見下ろす魔人に対して、真っ当な言葉が出て来た事に自身でも驚く。
「見て解らんか?」
「……すいません」

――分かりたくないから、こうしてわざわざ聞いているんです。
 

唇を噛み締め俯き、思わず続きそうになった言葉を喉元で飲み込む俯く。と、
ふう、と頭上で聞こえる嘆息に、すうと空気を吸う気配を感じる。

聞きたくない聞きたくないききたくない…………!

両手で耳を覆い、心中で呪詛のように繰り返すが、頭上からの声がやはり途中で止む事はなく。
「貴様らが生ゴミを加工する過程……。うむ、解りやすく言うなら料理、だな」

耳を抑えたまま見上げれば、顎に手を当てたまま、ゆるりと、月が欠けるかのように細められた緑の虹彩。
くつくつと、心底愉快そうに喉を鳴らす魔人とは対照的に、その長身が作る影の中に未だ呆然と立ちすくむ弥子は、その心中に今までで一番の絶望が生まれる気配を感じた。
 
「……んで、あんたは一体何を作ってた、訳?」

漸く現実を受け入れる決意を固め、調理台の前へと歩み寄った弥子は焦げ付いたフライパンと、流しに重なった何かの成れの果て。そして、
自分の傍らで、自身の作り出したであろうその結果に怫然としている魔人へと、順番に視線を移しながら呟いた。
「例によって、理由は聞かないでおくけどさ……っ」

言いながら何の気無しに視線を向けた台の上には無造作に置かれたPCからプリントアウトしたらしき紙用紙が一枚。
そのまま目が留まった、印刷紙特有の滑らかで光沢のあるその表面。そこには他の文字よりも些か大きなフォントで『オムレツ』という題字。
「……ぷっ」

そのあまりの似合わなさと衝撃に、ついうっかりと吹き出してしまった直後、事の重大さに気づき急いで両手で口を覆った時にはもう遅く。
ぐいと後頭部を押さえられ、目前に近づくのは火の消されたガステーブル。その上に置かれた、まだ大分熱を残したフライパンの表面。
「熱っ! ちょ、待って、ソレはマジで洒落にならないからっ!?」
 すんでの所で踏ん張り、抗議の声を上げる。
「……主人を嘲笑するような奴隷には当然の報いだろうが」

いつもの口調で帰って来た答え。しかし頭上から振る声はいつものようには笑っていない。
もしかして、踏んではいけない地雷を踏んでしまったのだろうか? 背筋に再び悪寒が走る。
「分かった! 謝るからっ!! ごめんなさい吹き出したりしてすみませんでしたっ!!!」

じゅっ、と、垂れた前髪の上げた音に叫べば、ようやく力が緩む。
「マジで怖かった……っ」

ぜいぜいと息を荒げて小さく呟いた後、背後とくつくつと嘲笑を響かせる魔人を振り返る。
声だけは楽しそうで、しかし、相変わらず表情の無い目に違和感を覚える。

――そんなに憤慨する位なら、何でわざわざ……。

こいつは言っていなかっただろうか? 出来る限りの事をして、出来ないことはしないのだと。

じゃあ、何故…と思考を僅かに巡らしてみたが、やはり明確な答えは出かったが、その過程で一つだけ思い出したことがある。

確かその時、こいつはこうも言っていた筈だ。
そうした魔人にとっての「できない事」を結果的に可能にする、その為の存在が――。

「まぁ、ツッコミ所は色々有るけど……とりあえず、焼く時の温度が高いんだと思う。普通、卵料理の余熱で髪焦げないもん」

チリリと丸まった一房を指に絡めながら、まず呟く。
「ほう……?」
「どっちにしろ、まずフライパンは変えた方が良いね。そだ、確かここに、もう少し使い勝手の良い奴が……あった!」

しゃがみ、調理台の下に備え付けられた棚を漁っていた弥子が、取り出したのはネウロの使っていた物より一回り程小さなフライパン。
些かの興味を引かれ、魔人が見下ろしているのに気付き、器具から顔を上げる。
「あっと、そこの換気扇回して」

きょとり、とした顔で、とりあえずは素直に弥子の指差したスイッチを押した。
「ん、ありがと」

膝を払って立ち上がり、さっきよりも近い高さでじっと見上げる。
「さっき、フライパンに油引いてた?」
「油……?」
「この場合はサラダ油とかオリーブオイルとか……今日みたいな時はバターの方が良いかな。香りづけになるしさ」

今度はフライパンを置き、冷蔵庫を覗き込んだ――かと思えば、振り返り、黄色い液体が渕まで入っているボウルに目を留める。
「うん、タネは足りてるみたいだね」

パタンと冷蔵庫の扉を閉め、再び魔人の横へ。
「じゃ、早速やってみよう!」
「む……」

こうして、二人で調理することになって、事は一応スムーズに進んだのだが。
満足のいく結果が焼き上がった頃は、もう朝食よりも寧ろ昼食に近い時間だった。





「良かったじゃん、意外と上手く作れて!」

テーブルの上、ふんわりと湯気を上げるオムレツに嬉々としてスプーンを突き立てながら向かいに座る少女は笑う。
「フン、結局仕上げたのは貴様だろうが……」

こちらの不機嫌など無視し、嬉しそうに。
「……んもぉ、何でそんなに機嫌悪いのさ! そんなんじゃ、どんなに美味しい物だって、不味くなるよ……!」

そう言って頬を膨らませてみせるものの、はぐ、と持ち上げたスプーンを口に咥えた途端、柔らかくなる声と幸福そうに下がる目尻。
「……美味いのか?」
「うんっ! とっても」

答えながら、再び突き立てられるスプーン。さっくり入った切れ目から、とろり、と半熟の卵が垂れる。
「この半熟加減も勿論だし、ちょっと焦げたバターの匂いだとか……砂糖を入れたのも良かったかも。あと……」
「ふむ、」

恍惚の表情で饒舌を披露する少女に適当な相槌を返しながらネウロは、少女が「とにかく形だけでも…」と用意した、自身の前に置かれた皿に添えられたスプーンを手慰みに弄んでいた。が、
「やっぱ私って、こういう事に関してだけは天才だよね!!」

最後になされたその一言に、少女の眼球ギリギリへとそのスプーンを突きつける。
「!?」
「……真の功労者は貴様ではない」

飲み込めない状況の代わりにごくりと一つ喉を鳴らし、咄嗟、目前の金属に吸い寄せられ狭まった視野が段々と調整されて行き――
「無論、我が輩だ……」

広がった視界に入るのは自分の正面――スプーンを向けた手はそのままに、テーブルへ片肘を置き頬杖を付いた魔人の、ゆるりと翠の瞳を細めた心底愉快そうな表情。
 

呆然とネウロに視線を注いでいた少女は数度の瞬きを繰り返した後、そっと皿の縁にスプーンを置く。
「うんっ! ……本当にその通りだよ!」

一瞬の瞠目の後、魔人は漸くスプーンの先を弥子の顔からのけられて。
「……当然だ」

心底満足そうに笑った魔人に、弥子も再び心からの笑顔を返した。 


以上、れいら様からリクエスト頂いた、「料理に初挑戦するネウロ、味見役は弥子」の筈なんですが……あれ?
 「味見は弥子」って所しか合っていない…。
れいら様、返品やクレーム等はいつでも受け付けております!


date:2007.05.10



Text by 烏(karasu)