貫く朱と、染み入る白と


希月さまへの相互記念。
お題:「ネウロと弥子のファーストキス」

はたや「やぶ蛇」、はたや「たなぼた」


ぴしゃり、と小さな飛沫を上げ。

弥子の心臓を目掛けて突き付けられたナイフは、目的通り皮膚を裂くこともできず、どころかブラウスさえも掠めることもないまま、
ただ、その真っ白なシャツの胸元に小さな赤い斑点を付けることしか出来なかった。


その寸前の弥子といえば、ただいつもの通り、操られるままに腕を振り上げ、追いつめられた犯人だけに視線を注いでいた。

郊外にあるペンションの食堂、逃げ場を失った彼女の背後にあるのは、レースのカーテンがかけられた大きな窓。
後ろ手で縋るようにカーテンを握り込んだ女は、わなわなと震え、唇をかみしめて俯く。

窓の向こうに広がる森林の中をジグザグと縫い、前夜に降った雪の上をすべるようにして射す、昇って間もない黄色味を帯びた朝日が、短い影を床へと落とす。

その圧倒的な明るさが、彼女に対する何かしらの皮肉めいて思え、
自分の横から詩でも朗読するかのように朗々と響く彼女を徐々に追い詰め、絡め取っている声の張本人の、歓喜にあふれる横顔を視界の端に捉えた弥子は小さく嘆息した。

途端、こちらの考えを読んだかのように相手が顔を僅かに傾け、話の同意を求めるように弥子の顔を覗き込んだ。
かちあったそのまなざしに窘めるような色が宿ったのにあわてて、周囲にいる他の聴衆に気付かれないよう、再び正面へと目をもどす。

ネウロの声の抑揚が大きくなる毎に、女の顔からは更に血の気が引いて行き、緊張と共に強く握りこまれてよじれたカーテンが彼女の背後へ、虚空へ飲み込まれるようにしてにずるずると、引き寄せられて行く。

カーテンレールを軸に彼女の背中を起点にして放射線状に幾重にも広がって行くその様はまるで、獲物を捕らえた蜘蛛の巣のようだと思った刹那、
蜘蛛の巣は一気に弛み、手前に引きずられた布地が蝶の羽ばたきのように大きくはためいた。
それに気を取られた一瞬に、数メートル向こうに有った筈の女の顔は気付けば弥子の間近に有り、その仔細を観察する間もなく、スッ、と再び視界から消え去った。

びちゃり、間もなく聞こえた音に反応し、僅かに視線を下げたその時には先程よりも一層狼狽した様子の女は瞠目し、自分の胸元を凝視していた。

伏せられ、僅かに震える睫毛の向いた先、見下ろした視界の中には、1センチにも満たない赤い斑点の散った制服のシャツの胸元と、その前に五本の指を広げ、ソコを庇うかのように翳された、手の甲から血にまみれた刃物の切っ先を生やした黒手袋の左手だけが有った。

――その場に上がった甲高い悲鳴は、一体誰のものだっただろう。




――数時間の後

駆けつけた警察からの事情聴取を終え、前日にあてがわれていた寝室と二間続きの洋室にてネウロと再会した弥子はソファに座り、胸元へ残った染みを、摘んだり撫でたりと指先で弄びながら、無言で俯いていた。

弥子の背後にある食堂と同じ作りの窓からは数刻前よりも低い位置で部屋の中へと晩秋の太陽が射し込み、項をじんわりと温めている。

柔な光線に作られた影はどの季節よりも淡く長く、見下ろした、毛足の長い絨毯に埋まったローファの靴底から、テーブルを挟んで向かいに置かれたソファへと伸びて行く。

食堂に居合わせた他の客はもう殆ど発ったらしく、気まずさから視線を胸元に落としたままで聞いていた、周囲の部屋や窓の外からの雑音や話し声は、聞こえなくなって久しい。

しんとした部屋の中では、沈黙が物理的な質量に変わり、その分だけ余計に気まずさが増して行くような錯覚を覚える。

「ネウロ、ごめん……ね?」
「……全くだ」

意を決して言葉を紡ぎ、自分の影の軌道を追うようにして、ゆっくりと視線を上げる。

影の終点にいるネウロは、向かいのソフアに深く座り、背もたれに身を預けていた。
普段と全く変わり無い様子の服装と態度の中で、背もたれに左手の皮手袋の代わりに真っ白い包帯のぐるりと巻かれた素手が妙に際だって見える。

「貴様が使い物にならなかったせいで、余計な演技と無駄な時間を強いられた」
「うん……。その辺はちゃんと、反省してる」

状態を確かめるように、握ったり閉じたりを繰り返すネウロの手。自分のシャツと同じように僅かに朱の滲んだ白から目を反らしたい衝動を、弥子はぐっと抑え込み、気詰まりを拭うように言葉を紡ぐ。

「その包帯、暫くは残しとくの?」
「まぁ、ある程度ほとぼりが覚めるまではな」
「そっ、か……」

再び会話が途切れ、また足下へと落としかけた弥子の視線はしかし、自身の胸元で一端止まる。
おのれの過失と油断を糾弾するかのようにそこにある染みをもう1度指先で辿った後、意を決し、一気に顔を上げた。

「あ……あのさ!」

同じく俯き、自身の左手を物珍しげに眺めていたネウロがゆっくりと顔を上げる。
その滑らかで白い肌が更に蒼白に見えるような色合いで、全身を包むように落ちる弥子の影の中でもそこだけは真っ直ぐと輝く、射るような翠から避け、思わずそっぽを向いてしまった事に後悔し、軽く唇を噛みしめる。

「その……ありがと、ね。庇ってくれて」

それでも絶対に、顔だけは俯かせないようにと自分を鼓舞しながら、どうにかそれだけをしどろもどろに呟いた。
何でか平静よりも遙かに上擦ってしまった声と、相手から必死に背けている顔と耳の先に昇った熱さを自覚出来る位の静寂の後、
僅かばかり前へと戻した視界の端、一瞬、きょとりと目を丸くした様子だった魔人の喉から漏れ出たのは、堪えるような笑い声だった。

「なっ……! なによっ! 人が珍しく素直に感謝してるってのに!?」

今の今まで、居たたまれないといった様子で逸らしていた目をこちらへと向け、どころか膝に両手を付き、身を乗り出すようにして睨み付けて来た弥子に、ネウロは内心で更に笑みを深める。

「ほう……まかりなりにも感謝はしているのか」
「あ……ったり前でしょっ!? じゃなきゃわざわざこんな事言わない、し」
「そうか! ならば――」
「な……何なのよ?」 

わざとらしく言葉を切り、あたかも今、何かを思いついたように続ける。

「『返礼』を求めても、差し支えないということだな?」

怪訝な顔で更に身を乗り出した弥子は、発せられた意味を理解するにつれて、疑問に丸められた瞳を驚愕により見開き、紅潮していた頬からはすぅっと血の気が引いた。
その様子を目におさめ、ネウロは顎に手を当て、わざとらしく思案に耽るそぶりをしてみる。

「そうと決まれば……。さて、一体何からヤらせるべきか……」
「いやいやいや! ブッちゃけ何一つとして決まってないし、一体何さす気だよ!?
 ていうか、感謝ってもの意味を激しく間違ってるしそれにあれは、別にあんたに向けて言った訳では――」
「ほう? では、貴様は誰に感謝の意を述べたのだ?」
「へっ!? え…え−と……」

ネウロの指摘に、弥子は必死に室内へと視線を走らせる。
右へ左へ。瞬く間に忙しなく動いた視線が再びネウロを捉えた時、何かを思い付いたらしく、弥子は一気にまくし立てた。

「そう! 手っ! あんた自身じゃなくって、あんたの手に感謝したの!!」
「ほう……そうなのか?」
「そ、そうなのっ! だから……」

煽るように相づちを返せば、弥子はそのままスッと立ち上がり、ソファを離れる。
俄に、遮るものを完全に失った逆光が雪に反射し真っ直ぐと部屋の中を横切り、直接に眼を焼いた。

ネウロが光に目を眇める間に、ぎこちなく距離を詰めて座る彼の前へと歩み寄ってその場に膝をつき、小さな両手でもって包帯が巻かれた方の掌をぎゅうと包み込む。

「こうしてさ……。守ってくれてありがとう。
 その…すごく……嬉しかったよ。って事を、ちゃんと伝えなきゃなぁ−などと、思いマシテ……」

不覚にも、咄嗟の事に一抹の驚きを感じたらしく、自覚なく、僅かに力の抜けたネウロの手を持ち上げて頬を寄せ、動物が飼い主に懐くように、掌へと頬を寄せて来た。

包帯に隔てられ、温く柔らかな皮膚に挟まれた素手からは、じんわりと染みこむ熱と、僅かに傾けられた頭から手の甲に落ちた背後の日光と同じ色をした髪の、柔らかな触感が伝わる。

たった一瞬とはいえこちらを動揺させるような大胆かつ突飛な行動に出ながらも、伏せられた瞳の中にはかすかに、こちらの出方を伺うような緊張も宿っている。

愚かな、と口の中で呟き、心中で歯を見せ笑う。
――そうした行動や言動に無意識に含まれる矛盾にこそ、こちらは堪らなく嗜虐心を刺激されるというのに。

寄せられた温い頬を掌全体で包むようにし、素手の親指を、その淡い色をした唇に這わせてみる。
僅かに震える華奢な背中。みずみずしくふにっとした感触と、うっすらと開いたソコからむずがるように吐息が素手の皮膚を擽り、僅かに漏れ出る。

「んん……ふっ、な……によっ」
「……いえ――その考えで行くのなら僕も御礼をするのが筋かなぁと思いまして。
 いつも、僕の事に関して色々とごまかして頂いて。今日だって、先生が現場に残られなかったら一体どうなっていたやら……」
「へ? ……べ、別にいいよ、気持ちだけで充分だよ……。うん!」

先ほどまでの緊張が抜け出た表情に、今度は怪訝な色が乗り、頬の手から逃れるように顔を伏せ、自ら押しつけたものを今度は両手で引きはがそうとし、手首を掴み、そっと力を込めてくる。

それを阻害するように、反対の頬にそっと右の手も添えて力を込め、困惑した顔を一気に上げさせると、反動に息が詰まったのか軽く噎せる。

「う、ぐっ……!」
「おやおや……何をカン違いなさっているのやら――」

わざとらしく首を傾げ、指を、今度は唇の真ん中に置いて続く相手の言葉を塞ぐように。

「僕は、先生にではなくて」

引き攣った顔は両手で固定したまま、ソファから軽く腰を浮かせるようにして、放心状態の様子を、覆いかぶさるようにして覗き込む。

「先生のココに、御礼を言おうというのですよ」

微笑と共に、中心に押し当てていた指で軽くなぞれば朱を滲ませ、押し当てている掌全体に熱を伝える皮膚に、潜められた眉。

「ふ、へっ……?」
 

覆い被さるようにして見下ろして来るネウロの口元に浮かんだ巧笑を仰ぎ見る。
弥子が、自身の置かれた状況を飲み込むより早く、更に上向けられる顔。
頬の肉をむにっと掴まれたまま、見上げた深緑が思いの外に近く、負荷の掛かった弥子の心臓は必要のない鼓動を刻む。
 
「え−と……。一体何をなさるおつもりですか、ネウロさん?」
「何……って、先生にされた事をお返ししようかと……」
「ちょっ、近いっ! 無駄に近いってば!!」

顎の骨から持ち上げられ、限界まで喉をのけ反らせた状態のまま、覆い被さるようにしてのし掛かる体躯からどうにかして距離を取ろうとがむしゃらに振った腕が、何も触れられずに何度も空を切る。

逃れられない身体の代わり、相手を認識から閉め出すようにして、弥子は咄嗟に強く目を閉じてしまった。
無茶な角度で振り仰がされた事によって前髪が流れ、露わになった額と頬の上に落ちる髪と、金属のようにひやりとした髪飾りの感触を感じ、吐息のかかるまでに詰められた距離感じた五感が心拍を上げ、肺の中の空気をせり上げる。

あぐっ、と。唐突に口唇全体が生温い温度に包まれる。
敏感な皮膚に軽く突き立てられた牙の鋭い痛みに思わず漏らしそうになった呻きを飲み込まれて初めて、口唇全体を覆うようにして、噛み付かれているのだと知った時にはもう、全てが遅かった。

「む―っ、ム−! っ……んん、っ!?」

反射で漏れた呼吸と声とを全て飲み込まれ、唇の上を、冷たく濡れた舌が這う。
生理的な不快感に暴れ、振り解こうとした両の手に頭蓋が軋むような力を加えられ、抵抗を奪われた状態でそれを何度も繰り返される。

何度目かに嬲られた時、背筋の上を這う未知の感覚に延ばしたままの腕が震え、その両の爪先が何かに触れ、捉えた。

未知の感覚に混乱した意識の中で、既知の明確な感覚に縋ろうと弥子は、ソレに腕を回して抱き寄せる。
唇の上を濡れた感触が這う度に齎される疼痛に、指先に感じた固い布地に爪を立て、引き寄せるように強く引っ掻いた。

大きな掌は、握り込むかのように掴んでいた頬を離れ、いつの間にか背中と後頭部に回った手に、宥めるように撫でられる。

カーペットに擦れた膝のじんじんとした痛みや、首筋の痛みといった他の感覚が全て麻痺していって、与えられた刺激だけが神経へ強烈に作用して行く。

「っ……ぷはぁっ! う、ぁ――」

ネウロがようやく弥子の口を開放すると同時に、背中へと回していた腕の力を緩めると、支えを失った細い身体は床の上へとへたりこんで脱力し、
俯いているその耳元へと流し込んだ呼びかけに応え、一時的な酸欠によるものか、とろりとした視線で見上げて来る。

しかしそれも一瞬で、次の瞬間にはもう理知の光を取り戻し、狼狽と驚愕を併せ宿して見開かれる。

「あ――、な……なっ!」
「何……って、ちゃんと、言ったでしょう?」
「……私に……された、事? って……まさか……!」

手で掌を包まれたお返しに、口を、唇でってこと――? 解けきらない混乱のまま、思い至った回答にかぁっと真っ赤に染まった顔を、心底楽しそうに、にやにやと見下ろされる。

まさに、それが正解だとでもいうように。

「な、何その理屈!? つ−かコレ実質キ……! っあ……」

ぐるぐると混乱するさ中、気付けばネウロの背中に回っていた両の腕を羞恥から一気に解き、それによりバランスを崩して頭から床へ落ちそうになった身体を背中に回っていた左腕が支えた。
余計に羞恥を覚える状況に眉を寄せ、顔を大きく背ければ、自身の肩に回された掌に巻かれた包帯が視界に入った。

体制を立て直し、自身の胸元に視線を落とした弥子につられ、ネウロもまた、そこに目を向ける。

「……ココに、開いてた筈の穴、なんだよね」

細い指先でトン、と赤い斑点を突いて。

「……ネウロ」
「む」
「本当に、ごめん、ね?」
「ほう、済まないと思っているのなら……」
「待ってまってまって!? そのパターンは無し……っゃ!」

今度は頬に触れた温さに、弥子は盛大に顔をしかめてみせた。


あまり初々しさを強調出来なかった分、砂糖をドバドバ投下して仕上げてみました。
希月さま、とても楽しいリクエストを改めてありがとうございます!


date:2007.12.04



Text by 烏(karasu)