目前で白い湯気を上げる鍋に菜箸を突っ込んで満足そうに一瞬だけ笑った男は、こちらを見ないまま、はい、と、傍らの私に小皿を付きだした。
「そら、さっさとしろ」
「おっと」
急に手から力が抜けて、取り落としそうになるのをあわてて受け取る。
両手で受け取ったお皿には、お出汁の良く染みこんだ薄い茶色の大根が一切れが乗っていて。
甘い匂いのそれを正面に掲げ、ぺこりと頭を下げる。……あくまで、正面のこいつでなくて、お皿に向かって。
「うへへ……いただきます!」
正直に言ってしまおう!
私はこの一瞬のために毎日こんな時間まで学校にいる事も、やれ下準備だ買い出しだと、こいつにこき使われる事を許しているのだ。
その他の理由なんて、これっぽっちも無い!
いつものエプロンのポケットから、同じく常時携帯しているマイ箸を取り出し、ほくほくと湯気を立てる大根を半分にして口の中。
かちゃりと火を止めた様子の横顔は、やはり湯気に隠れていて、背中で結ばれた割烹着本体と同じうす桃色の紐と、金色の後ろ髪を結った項までしか見えない。
それでも気配でこちらに注目しているのが分かる。なので、なるべくゆっくりと咀嚼して、言葉を選びながら感想を述べる。
「うん、美味しかった!」
「……それだけか?」
湯気も止んで、漸くこちらを見た先生は、その深緑の眼を細め、眉間に軽く皺を寄せてこちらを伺う。
その理由をよく知っている私は、次の一口を頬張りながら、質問に答えられそうな言葉を探す。
ちゃんと芯まで火が通っているし、お出汁の濃さも丁度いい。口の中でとろけるような大根本来の甘さもある、だけど……。
「うん、それだけ……」
「そうか」
薄い唇をぺろりと舐めて、牙のように尖った特徴的な犬歯の間から、ふぅと小さく吐いた息は、溜息に似ている。
だけど吐いた本人はまったく残念そうな様子ではないし、寧ろ、その足りない何かを楽しんでいる様子さえある。
(何だかまるで…近づけないってことが重要みたい……)
そこまで考えて、ぶんぶんと頭を振る。いやいや、それはあり得ない。近づけなくていいんなら、わざわざ放課後にこうやって私に味見させる意味が分からない。
ううん、分からないままで――いなくちゃいけない、気がする?
「でもさ先生、調理実習にふろふき大根はハードル高すぎない? 煮出す時間的に……」
「ふむ……」
頭に湧いた不安を打ち消すように話題を変えれば、先生は僅かに思案するように黒手袋の指先を顎先に当てて。
……どうでもいいけど、ピンクの割烹着の成人男性に違和感が無いってのはいかがな物なんだろうか。
胸ぽけっとヒヨコだし、間から包丁の柄のような物が覗いているし。それで何する気よ?
「まぁ、先に下ゆでしておけば問題なかろう」
「それって、誰が?」
「む、貴様だろう?」
「冗談!? 明日の実習クラスって何人いるのよ!!」
我が輩、毎度思う事ではあるのだが。突っ込みがいないということは、何かと不自由な事である。
例えば以前は、突っ込み不在の為に、うっかりと我が輩の高貴な出自が、あの低脳の奴隷にバレそうになった。
また、突っ込む相手がいないというのは会話に無駄な間が開いて、どうも落ち着かない。
言うなれば、サイズの大きな靴を無理矢理履いた時の違和感のよう……と表現すればいいのだろうか?
「ふぅ」
我が輩は溜息を付き、怪しまれない為のポーズとして右手に持っていた、赤どころかドス黒い水色で生臭い湯気の漂う紅茶が並々と注がれたカップを置いた。
見回すのは、ありふれた一般家庭のリビング。対のソファに挟まれたテーブルが一つに、そこに用意されたティーセットと尋常ならぬ量と見た目の朝食。
カーテンから射す朝の光に照らされたこの場所に、現在いるのは我が輩ただ一人。この悪意溢れる茶を用意した女主人は、今朝早くにこの得体の知れない朝食だけを用意して出て行った様子だった。
……つまり、現在のこの状況に適宜突っ込みを入れるのは、我が輩の役目だということになる。
「……ヤコ」
「ん……うぅ」
聞こえるように名前を呼べば、髪留めが無い為に顔を覆うようにかかる蜂蜜色の前髪をゆらし、どうにか顔を上げる。
僅かに首を傾げるようにして、未だ雫の乗った睫を震わせてうっすらと開けられた瞳。
それは生まれたての雛のようにぼんやりと、焦点の合わない様子でありながら一応はこちらに向けられた。
さぁ、まずはどこから突っ込めばいいのかと、改めて、うつらうつらと首の据わらない様子でどうにか向かいのソファに座った、その姿をまじまじと観察する。
まず、我が輩がその下半分をパク……借りているとはいえ、男物のパジャマの上だけでリビングに降りて来るとは如何なものか。
それとも、片手に持って階段からずっと引きずって来たらしい幼児ほどの大きさのぬいぐるみのあざとさか。
そのぬいぐるみが我が輩へのピンポイントな当てつけのように、忌々しい巨大齧歯類を模した物であることか。
だから、そうごしごしと袖で眼を擦っていたら腫れるだろうが。いい加減、眼は覚めているだろうに。貴様、わざとやっているのか?
「ぁ? あっ……」
それらの苛立ちの、一体どれをぶつけてやろうかと思いとりあえずその寝ぼけた頭に腕を伸ばした時、ヤコは更に眼を瞬かせ、我が輩をとらえてにへらと相好を崩した。
「おはょう、ござぃます」
体育座りのようにしてソファの上に乗せた細い両脚の間にぬいぐるみを抱えるように挟み込み、そのまま頭だけでぺこりと項垂れる。
暫しそのままで俯いていたと思えば、膝頭に置いたソレの頭に自分の頭を乗せ、元々締まりの無い顔を更に崩してこちらを見上げる。
その仕草にすっかり毒気を抜かれた我が輩は――
「ぉとーさんっ!」
「………チッ」
「ギャッ!? ちょっ、熱い!」
手元にあった得体の知れない紅茶をその呆け切った脳天にぶちまける程度の事しか出来なかったのだった。