倒れこんだ地面からは、雨に濡れた草と、腐った百合の香。
四肢に力を込めるも、ただ滑稽に地面を引っ掻くだけで持ち上げることさえ出来ない。
霞み始めた脳裏にふと、襤褸切れの様になった羽をバタつかせ地を這う黒揚羽が浮かぶ。
なるほど――確かに、今の我が輩はアレに劣らぬほど滑稽だ。
それを見たのはいつの事だったかはもう思い出せぬ上、実際に有った事であるかも――今となっては確かめようがない。しかし、
――かわいそう。
傍らで聞こえた、その一言だけはよく覚えているぞ。
なぁ、ヤコ。
貴様から見た今の我が輩は、アレのように――「かわいそう」か?
「……ッ! 、ぅろ――――」
――すまぬヤコ。もう、うまくおとがひろえんのだ。
ヤコ。まだ、そこにいるか? ヤコ、やこ。
そうだな、本当に――魔人らしからぬ醜態だ。
だから――わらえ、やこ。
今日だけは特別に、貴様の嘲笑を許してやろうではないか。
なぁ、ヤコ? 我が輩は最期までも、奴隷に優しい主人であったろう?
生物としての温度や触感を完全に失い、「物」の質感だけに変化してしまうまでずっと、
光を失いくすんだ深緑の眼を何度も瞬かせ、体制を立て直そうと身もだえ、私の名前を呼び、繋いでた右手を握り返し――
「…やこ? まだ、そこにいるのか?」
母親に縋る子供のような声で、私に聞いた。
「いるよ」と返事をすると、心底安心した顔で、ほう、と息をつき――暫くするとまた、同じ事を聞いてきて。
そうして、段々と答えと問いとの間隔が狭まった何度目かの問いに、
「ずぅっと、いるよ、」
と、自分でも驚く程に掠れた情けない涙声で言った。
それに続く筈だったことば――
「だから、あんたもずっと、ここにいて?」
という一言を、私が結局、こいつの聞き取れる音として発せたかは分からない。
だってネウロはそのどちらにも答えずに、殆ど吐息に近い声で「泣くな」と、言っただけだったからだ。
何で? と、問い返すより先に、いつも以上に冷たくて草露に濡れた手袋の手が頬をなぞり、
思わず眼を閉じた途端、その手は頬から離れ――私の両手を握り返していた、
細く、しなやかな指からも力が抜けた。
その認識は無意識の領域でいつも魔人を突き動かし――そして、段々と蝕んでいたのだ。
ゆるゆると窓から射す日の光。
遅くまで連れ回された疲れからすやすやと眠る弥子は、狭いソファの上で身体を丸めて寝入りながらも時折、眩しさにむずがり、小さな呻き声をあげる。
そんな彼女の為に光を遮る事などせず、いつものようにその向かいに置かれたソファへと座し、少女を見下ろす魔人はゆるりと眼を細め――残り僅かとなった自身の時を換算していた。
今更故郷に帰ったところで大した延命にはならない程の、本当に僅かな、時間。
死を恐れて泣きすがる程の執着はないが、全てを諦め簡単に手放すのは惜しいと思える程度には充実した世界と――少女と。
嘆息し、見下ろしたソファの上で、彼が手塩にかけ育てた華は相変わらずの無防備に眠っている。
ゆったりとした、気怠い午後の一時。
ブラインドを揺らし柔らかく吹く春風と、少女の僅かな寝息が溶け込んで行く。
寝入る少女、側にいる魔人。お互いに警戒や気負いがないからこそ成立する、ゆるやかな空間が流れていく。
――そうして、この穏やかな時間は、あと少しで終わる。
そう思考が巡った途端、魔人の中に先程までは存在しえなかった感情が去来した。
何かに強く胸を圧迫されたような息苦しさを纏った感触。知識だけで知っているコレの名は――
「……『怯え』、か」
知覚した途端に、精神を駆けめぐるいくつかの情動。
恐れ、寂しさ、悲しみに――そして魔人は知る、それらは「無かった」のではなく「知らなかった」だけなのだと。
今まで存在しえなかった感情が次々と湧く中で、本能が囁く。
こうして今から――この瞬間から、別離や消失に怯えるのなら。
スウと、翠の光彩から色が消える。
自身を苛む傷や感情がこれ以上広がる前に、ここでこの華手折ってしまえば――
「ん、ぅ…」
見下ろしたソファから再び、小さな鳴き声が上がる。
寝入ったままの少女が身じろぎし、何事か寝言を呟いた。
汗で張り付いた蜂蜜色の髪が一房、華奢な首筋にかかっているのを払ってやったその時、
気付けばその首に、強く、強く、両手を絡ませていた。
舌足らずな涙声が、腕の中に抱えた『物』に向かい呼び掛ける。
「……あんたはいつも、すごぉく、きれいだったんだ、よ――いつも、いまも……」
もう、彼女の手首に巻きついたり、糧を探して動いたりしない、日の光のような色合いの――魔人だった物の髪をゆっくりと撫で梳き、弥子はまた一つ、嘘をついた。
死に行く者は全て醜い。
咲いた先から腐り枯れ果てる、この百合の華たちも、
可憐な羽を捥がれ、往来でのたうち回っていたあの日の黒い揚羽蝶も、
――生を失った瞬間の、あの日の自分自身も。
――忘れたなんて嘘だ。私はあの日を、今でも明瞭に思い出せる。
家鴨の鳴き声のように、汚く鳴る喉。
落ちて来ないよう押さえていたヘアピンが飛び、見開いたままの眼にかかるのは淡い色をした自身の前髪。
薄い皮膚にぎりりと絡みつく、慣れた皮手袋の感触。
柔らかなソファに沈み込み、空気を――生を選ぼうと必死でもがく弥子を覗き込む、ビロードのように、
深く深く暗い眼のいろ。鏡のように光を拒絶する。
飲み込まれず、反射される像。その眼の中にありありと映る、醜い、自分自身。
呻く顔。だらだらと零れる唾液、段々と狭まる視界。
そして、ある瞬間に意識が軽くなり、開けたままの眼には、自分の姿もなにも、映らなくなった。
*
――性質の悪い夢か、冗談かと思った。
ソファから起き上がった自分は問題なく動け、巻き付いていた息苦しさも無い。
きっと、寝苦しさが見せた悪い夢だったんだ。
そう結論づけて起き上がろうとした弥子は――そのまま、動けなくなった。
泣いていたのだ。
自分の隣で、今まで泣いた事などない生き物が。
表情の無いその表情。正面を――虚空を向いた、いつも通りの翠の眼。
夕日に透けるその瞳から溢れて、滑らかな頬を滴が伝って行く。
恐らく、流す本人にも気づかれぬような自然さで。
魔人の中に滞っていただろう何かが。
……だれを、何を切っ掛けに?
途端、神経の上を虫が這うような悪寒が沸き立った。
耳元に心音が響く。認めたくない事を裏付けるように。
ねえ、泣いてるよ。誰のせい? 私……? なんで、だって私が死んで…違う。殺された。
一体誰に? 慣れた感触頬に触れた長い前髪鏡のような翠の――ねぇ、あれはだれ?泣かせるのは、ころすのはいったい――
「ね、ぇ。あなたは……だぁれ?」
それを問う、だれかの声は妙に甘かった。
混乱し、真っ白に染まった頭の中で、ふと耳に聞こえた舌足らずな声。
それが正真正銘、自分の声帯発した物だと気付くまで少しの時間がかかった。
しかし、知覚出来ているかどうかなど関係無く、彼女の目に映る光景はコマ送りの映像のように緩慢な動きで変化を続けて行った。
ネウロが、
顔を上げ、首を回してゆっくりとこちらを向く。
ガラス玉のような瞳が大きく、見開かれる。
涙の辿った様子など微塵も感じさせない、温度を感じさせない滑らかで白い肌を、何かの言い訳のように、透明な雫が伝い落ちる。
「ヤ、コ……」
その形の良い唇から自分の名前が掠れた声で響いた時、覚醒し始めた弥子の意識は――能力は、それに気付いてしまった。
その動作に。
表情に。
瞳の色に。
声に。
ほんの僅かに含まれていた、ずっと見てきたもの。
魔人の、抑えきれない程に強い、狂気にも似た「歓喜」に。
理由までは分からない。けど、こいつは心から喜んでいる。
それなら、もう、忘れてしまいたい。
それが形作られるまでに、いままでしてきたこと、された事、さっきまでの全部を――
「……ヤコ。……って、なぁに?」
そう念じた瞬間に、次の言葉は先ほどよりも残酷な無邪気な響きを乗せて、呆気なく口から零れた。
――そうしてこの日、「桂木弥子」は死んだのだ。