「契約完了」の声満ちて


「ハチとミツ」のメイジ様に某所で頂いたネタ。「ネウロと弥子、事務所でベールだけ被って結婚式」です


人間の持つ思い込みの力は偉大だと、弥子は現在しみじみと感じていた。
 例えば事件を通して。今日までに出会った、突拍子もない夢や野望を信じて邁進して弥子達の前に立ちはだかり、哀れにも魔人の食事となって行った犯人達。

例えば今この時。つい一時間程前に事務所に足を踏み入れた途端、突然押さえつけられて頭から被せられた、厚さなんて殆どない、たった一枚の薄布を通して見ただけで、
見慣れた事務所の景色が弥子の眼に、いつもと違った様子に見えていること。

一番上まで白いブラインドを上げられた、正面にある大きな窓から射す陽光が、何だか蝋燭の明かりのように柔らかい光を称えて、高い位置から自分たちの上に落ちているような気がしたり。

香木の匂いも呪いの神聖さも何もない、恐らくただの水だろう液体で満たされた青いガラスの小瓶や、蝋燭に明かりが灯されない銀色の燭台。

そういった、どうやら一応の形だけを真似て用意したらしい細々とした道具達が、然るべき手順で聖別された物のように見えるような錯覚を覚えてしまったり。

それらが雑然と並べられた、弥子の視界を覆う布に負けない程に真っ白い布を敷かれたトロイの表面に落ちる、窓枠か何かに遮られたことで出来たらしい淡い影のその形が、大きな十字の形をしているような錯覚を覚えたり――といった具合に、だ。

そんな訳がないと頭で否定して、強く強く眼を閉じ、布地の上からそっと額を抑えて小さくかむりを振ってみても。いや、否定すればするほどに。

「その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも――」

明朗に響く、その声を振り払える訳も無く。なす術なく、再び恐る恐ると眼を開ける。
視界に見えるのは、頭から被った白いレース一枚の向こう側にある景色はいつもと同じで、昨日だって見た筈だった。なのに。

それは柔らかな陽光に縁取られ、レースが輪郭をぼやかすせいなのかどこまでも優しく感じられて。
 まるで全てが自分達を心から祝福してでもいるようだと、新たな錯覚までじんわりと滲み出して、どこまでも溢れて来る。胸の奥からも、思わず眇めた瞳の奥からも。

何故か零れそうになった涙を誤魔化す為に俯いて、目元を袖で軽く拭き取る。
 このまま眼を開ければそこにあるのは、特別なドレスや衣装ではない自分がいつも纏っている制服の筈で。

ちょっと耳をすませば、意図的に作られた天窓のように感じるこの大きな窓の向こうからは賛美歌でも何でもなく、聞き慣れた街の喧噪が響いて来るだろう。しかし。

ジンと熱くなった眼を乱暴に拭ったせいでずれかけたレースを押さえようと頭の上に伸ばした手に重ねて、それを直した黒手袋の手も。
思わず見上げて、柔らかなレース越しに見上げてしまった穏やかに細められた深緑の眼も。

いつもより優しそうだと錯覚してしまって。頬に血が上るのに、気恥ずかしいのに。眼を逸らす事がどうしても出来ない。
 午後の陽光の中、僅かに眼を伏せ、真剣な表情で、片手に持ったくすんだ緑色をした、布張りの表紙の本を朗読する声にばかり眼が行ってしまう。

その声が何を言っているのか、誰に何を宣言しているのか、分かっている筈なのに、だから眼の奥が熱くて、胸の中がジンと痺れているのに、理解が追いつかない。けれど。

「……誓いますか?」

 顔を上げ、上目にそう問いかけて来た深緑に、心臓が耳元で鳴った錯覚にびくりと背筋を震わすうちに、

「誓い……ます……」

契約完了の合図はしっかりと、ひりついて戦く喉から漏れ出てしまっていた。

「――宜しい」

そうして、頭に置いた手の上に静かに重ねられた感触だけは、いつもの固い皮ではなく、滑らかな絹のソレで。
 やんわりと包み込まれる手の甲から力が抜けて、もう一方の手によって、そっとベールが捲られた。
 はっきりとした視界の中で、こちらのぞき込むようにして間近に有る深緑が、何も通していない今も、相変わらず優しそうで有るのに見惚れるうち。

頬を包む白い絹の感触に促されるように眼を閉じ、いつもと違い、軽く唇を触れ合わせた。

「では……」

再び開けた眼に移った柔和な笑みと、ベールに邪魔されない見慣れた事務所の景色。

「改めて宜しくお願いしますね――ヤコ」

耳元で囁かれるいつもの傲岸な言葉の響きまで違って聞こえた事は、もう錯覚だと言えない程に強く弥子の胸を痺れさせたのだった。


ネタを頂いたお礼と、リンク報告を兼ねて生みの親たるメイジ様へ!(笑)
などと言っているうちに発想10月頃、完成2月という、全体の長さの割に手間ばかりかかってクドい感じになってしまいました。
お約束から、大分遅くなってごめんなさい。良ければどうぞお収め下さいませ。


date:2009.02.05



Text by 烏(karasu)